過去へ繋がる不思議な美容室

東雲まいか

第1話 昔の彼氏に再会できたが……

 後藤あすかは、雨が上がった後の清涼な空気の中、軽やかな足取りで美容室へ向かって歩いていた。今日は仕事が休みで、久しぶりに美容室へ行く時間が出来うきうきしていた。新しくできた美容室のことを友人から聞き、そこへ行ってみることにした。なんでも、接客態度がよく細かい気配りが行き届いていて、髪型だけではなく心も満たされ、幸せな気持ちで帰ってきたということだった。

 今日は水曜日。あすかは普段事務のアルバイトをしているがその日は休みだった。夫も同じ事務職だが、今日は仕事に行っている。一人息子は中学校へ行っていて二人とも留守なので、心置きなく外出ができる。

 夫の勇人とは職場結婚だった。三十を過ぎ結婚を考えるようになった時に、たまたま身近にいた同じ職場の今の夫と結婚した。その後、息子歩が生まれて、幸せな気持ちで数年間を過ごした。息子は元気にすくすくと育ち、体格がよく運動神経もよかった。大きな病気もせずに育ち、良い夫と結婚したのだと、自分の選択に満足していた。

 ところが息子が小学校へ上がり、中学校へ通うようになると、完全にその考えが誤りだと思うようになっていった。息子の勉強のできなさに、あきれ返ってしまうことが何度もあったのだ。中学三年生になっても、分数や少数の計算ができず、アルファベットの文字も判読できないほどだった。体だけはすくすくと育ち、事務の仕事をしている自分には信じられないほどの無能ぶりだった。その息子にも良いところが一つだけあった。いつだったか、風邪で寝込んだことがあった。食事の支度もできず、布団で横になってじっとしていると、彼は何も言わず買い物に走り、学校のキャンプで教わった唯一の料理カレーを作ってくれたのだ。心配しないで寝てなよ、という優しい言葉までかけてくれ、何もできないと思っていた息子の優しさに初めて気づいた。

 夫の勇人は趣味らしい趣味はなく、敢えて言えば散歩が趣味だった。近くの公園やスーパーなどに歩いて行っては、今は何の花が咲いているか、どんなものが旬なのかを報告してくれた。酒だけは大好物で、家でつまみを作っては毎日のように晩酌をしている。こんな生活でよいのだろうか。こんなはずではなかった、もっと素晴らしいバラ色の人生が広がっていると期待していたのだ。

 今までの生活に思いを巡らせていると、いつしか美容室の前に来ていた。ドアを開け、中を覗くとかなりのスペースがあり、椅子が十客ぐらいあり、五人ほどが座れる待合スペースがある。


「いらっしゃいませーっ!」


 明るい女性の声が迎えてくれた。


「今日はどのようになさいますか」

「カラー、カットをお願いします」

「こちらにお名前をお書きください。そうですね三十分ほどお待ちください」


 普通の美容室とどこが違うのだろう。今のところ特別なところは特に見当たらない。まあいい、清潔感のある、明るい店内は満足できる。まあまあ合格点だろう。座って雑誌をめくり、芸能人についてのゴシップ記事を読んでいると、名前を呼ぶ声がした。

 美容師に好みの長さやカラーの色を告げ、てきぱきと作業をする様子を横目に見ながらくつろいだ気持ちになっていた。カラーの染まり具合をチェックすると、シャンプー台へ案内された。友人の言っていた通り、店内の雰囲気がよく、店員もてきぱきと上手に作業している。やはり来てよかったと思っていた。


「シャンプー台へどうぞ」


 美容師の明るい声が響く。ほっとしてシャンプー台に乗り、顔に薄い布が掛けられる。シャンプーの良い香りが周りに漂い始め、温かいお湯の流れる音が聞こえてくる。お湯は程よい勢いで髪の毛に着いたカラー材を洗い流していく。寝たまま髪の毛を洗ってもらうなんて、至福のひと時だ。水圧も温度も丁度良い。香りもさらに増してきて……

 あら、寝てしまったのかしら。目の前に、かつて付き合っていた彼氏の顔が現れた。彼は若い頃のままで、なぜかしら自分も若返っている。彼は自分の家に入るように手招きをしている。良い香りに包まれ、夢を見ているのではないかと腕をつねってみると、痛みが走り現実の世界だということがわかる。いつかこんなことがあったのだろうか、と思い出そうとする。

 そう、彼に招待され自宅へ行った、十年以上前の事だろうか。その世界がなぜ目の前に繰り広げられているのかもわからないまま、得も言われぬ幸せな気持ちにどんどん彼に引き寄せられる。

 俺たちいつかいっしょに暮らすことになるだろうね。彼の優しい笑顔がこちらへ向けられる。断われるはずがない、それなのに私はあの時断ったのだ。なぜだったのだろう? 私には、もっと幸せな日々がこれから来るはずだ。まだまだこれでは物足りない。そんな予感がして振り切ったのだ。

 しかし、現実はどうだろうか。あの時の彼を選んでいた方が、今より幸せだったような気がする。本社へ移動した彼は、トントン拍子に出世していった。そう思うと、さらに彼の方へ彼の方へと引き寄せられる。彼は私と別れた後、私よりずっと美人な女性と結婚した。そうならないように、今ここで彼と別れた過去をリセットできるかもしれない。


「ねえ、私さっきあなたと別れようって言ったでしょ。でも、気が変わったわ。私に

はやっぱりあなたしかいないの。好きな人が出来たなんて嘘。御免なさい」


 沈みかけていた彼の表情は、たちまち明るくなった。眉間にしわを寄せ、俯いていた先ほどまでの彼とは別人のように輝いて見えた。これでよかったんだ。こんな機会があったらやり直せたはずだった。今まで、会うこともなく何年もの月日が過ぎていただけ。私は彼に口づける。彼も私の気持ちを受け入れ、さらに激しく口づけを返してきた。今日はこのまま彼の家に泊まることになるのだろう。それもいいのかもしれない。これはひょっとすると夢なのかもしれないが、それならば何をしても許されるだろうという気持ちも内心あった。

 体が震え、血液が甘く流れていくようだ。今日は帰らない。過去を変えることができるかもしれないのだから。体を横たえ彼の体があすかの体をまさぐり始める。彼の手は次第に熱を帯びて首筋、脇腹、そして太ももにかかる。キスはさらに激しく、体中に彼の唇が触れ、体が熱く燃えていった。もうどうなってもいい、彼に身を任せ行き着くところまで行ってしまおう。こんな情熱的な恋は今までにはなかった。


「ああ、あたしあなたが好きだったの」

「俺もだ!」

「はあ、はあ」


 彼の体が、あすかの体の上に覆いかぶさる。体と体が重なり合い、下半身がうずくように彼を求めている。ああ、あと少し、あと少しで彼の体を受け止めることができる。脚を開いた瞬間だった。


「ぎゃっ、助けて」


 断末魔のような声が耳の奥で響き、息子歩の苦悶に満ちた顔が脳裏をよぎった。なんで今頃、あなたが。私はやり直そうとしているのに。


「ママ、助けてくれ! 俺死んじゃうよお」


 再び、今度はもっとはっきりした声で耳の奥に響いた。


「どうしたんだ、何をためらっているんだ。君も俺のこと好きだったんだろ? やり直そう」


 彼の甘く、切羽詰まった声が耳元に響く。どうしたらいいの?


「うう、トラックが……」

「何? 歩トラックがどうしたのよ!」


 今度はあすかも声を出した。しかし、あとは静寂があるのみだった。我に返った彼を後ろに、あすかはふらふらと家を出て道をあてどもなく歩いていた。彼に抱きすくめられもう一度やり直せるとときめいた自分が、スローモーション映像のように崩れていく。

 

 再び水音がして、よい香りが漂う。さっと目の上にかけられていた布が取り去られた。


「終わりましたよ。お疲れさまでした」


 眠ってしまったのだろうか? それにしてはリアルな光景だった。まだ、彼に触れられているような感覚が残っている。体もほてっている。

 再び鏡の前に座り、ブローをしてもらい髪型がきれいに整っていった。髪型を変える前に比べて、二、三歳若くなったような表情をしている。まだ夢を見ているような気分だ。ありがとうございました、という言葉に送られて、あすかは元来た道を家に向かって歩き出した。スマホが鳴り夫からの着信の表示が見えた。夫に掛け直した。


「もしもし、今美容院から帰ってきたところ。そんなに慌ててどうしたの?」

「病院から連絡があった。歩が自転車に乗っていて、トラックと接触して怪我をした。お前もすぐ向かってくれ」

「げっ! どういうこと? とにかくすぐ行く」


 さっきの歩の声は本物だったの!


 病院へ急ぐと、歩は病院のベットで足を包帯で巻かれ、痛々しい姿で横たわっていた。命に別状はないということだったが、あと十センチずれていたらトラックの下敷きになっていたということだった。


「ぶつかるなと思った瞬間、ママの声が後ろから聞こえてきたんだ。体を後ろにひねったまま自転車から飛び降りようとした。そのまま乗っていたら自転車ごとぺちゃんこになっていたって……ママの声が聞こえて……呼んでくれたおかげで助かったんだ」


 あすかは、美容室で体験したことを思い出し、表情が歪んだ。昔の彼氏とあのまま一夜を明かしていたら、ひょっとしてこの子は?


「そんなにがっかりしないでよ。助かったんだから」

「ううん、がっかりしてるんじゃないの。恐ろしい体験をしたんだなあと思って。でも、どうしてこんな時間に自転車を走らせてたの? 学校に行っている時間じゃない?」

「今日は学校の開校記念日で休みなんだ。昨日から美容室へ行くって楽しみにしてたから、気を聞かせて学校へ行くふりをした。時間を気にしないで安心して美容室へ行ってこれるだろ?」

「気を利かせてくれたんだ……」

「自転車に乗って時間をつぶしたり、友達の家でも行ってみようかなと思って大通りに出たところを……」


 そこへ飲み物を買いに行った夫の勇人が戻ってきた。


「喉が渇いただろ。スポーツドリンク買ってきたぞ。若いから回復が早いだろうって先生が言ってた。勉強の事なんか気にしないでけがを治すんだぞ」

「そうよ、勉強なんかしなくていいから。元気が一番なのよ」


 あすかも同意した。


「それを聞いて安心したよ。勉強ができないのを一番気にしてるのは俺なんだよ」


 あすかと、勇人はひとまず安心して自宅へ帰りお茶を飲んだ。


「ああ、そういえば十年以上前かなあ、本社に転勤になった吉沢のこと覚えているか? おまえも一緒に働いていたことあるよなあ」


 吉沢とは、美容室でシャンプー台にいた時に現れた彼氏の名前だった。あすかは何のことかと視線をさまよわせた。


「あいつ自動車事故で一週間前に亡くなったんだ。奥さんと山へドライブに行っていたらしいんだけど、随分人里離れた山奥に行っていたらしい。何をしていたんだろうなあ」

「吉沢さんが、無くなっていたのっ! 一週間前にい?」


 あすかの余りの狼狽ぶりに、勇人が怪訝な顔をして見つめた。


「ああ、いえ。どんな人だったかなあと思って」

「なんだよ、お前と同じ部署だったじゃないか。俺は、お前があいつと付き合ってるのかなあと思ってた。その時のお前は、俺にとっては高根の花かなと遠くで見てたんだ。暫くしてあいつが本社に移動になり、お前とはなんでもなかったんだと知り、俺はお前にアプローチしたんだ」

「そんなこと初めて聞いたわ。私は、一番手近な相手だから声を掛けてきたんだと思ってた」

「余計なこと言っちゃったかな。今まで秘密にしてたんだ。恥ずかしくてさ」


 あすかは、美容室を紹介してくれた友人に電話した。


「ねえ、あなたが紹介してくれた美容室行ってみたの」

「そう。よかったでしょ?」

「あのね、あんた何か変わったことがなかった? シャンプー台で眠ってしまったとか?」

「ああ、そういえば眠ってしまったのかもしれないわ。子供のころ遊んだ川にいたの。あたしあの時すごく気に入ってた帽子を落としちゃって、後々までも後悔したことがあるの。取ろうと思えば取れたんじゃないかって。その光景が目に入ってきたんだけど、たかが帽子じゃないってあきらめて、一目散に川から上に上がったら、急に増水してあたり一面のものを押し流していった。取りに行かないでよかったわ」

「夢はそこで終わったの?」

「そうよ、いい香りとともに目が覚めて、ああここにいてよかったって安心して帰った。ところがね、流されてしまったと思った帽子が、家にあったの。わたしの勘違いだったのね。それでね、少し幸せな気分になったの」


 やはり、あの美容室は過去と現在を結び付ける不思議な美容室だったんだ。シャンプー台なのか、香りに秘密があるのかはわからないが……。

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