ハタケヤマ句会の遺物


「平成最後の夏が女子高生最後の夏って最高にエモくない?」とは現在高校三年生の妹の談であるが、それを言うなら俺だって「平成最後の夏が学生最後の夏だぞ、エモいだろ」と言い返したい。エモい、の意味は全く持ってちんぷんかんぷんだし、学生最後の夏と言ってはみるものの、国立大学に二浪で入学した俺は自分と同年代のやつがとっくに社会人として立派に働いていることを知っているから、まあたいして胸を張れることでもねぇなぁと思ってはいるが。


「タケノコ、あんた何味にすんの」

「カルピス」

「よし来た」


狭くてぼろい四畳半。アカネさんがちゃぶ台の上にのっかった「なんきょく三号」に氷をざらざらと突っ込んだ。氷を削る振動で揺れるちゃぶ台をトノが、なんきょく三号をショウジョウが抑え、木造の窓から体を半分乗り出して煙草を吸うハルさんはそれを無表情で眺めていた。


「アカネさん、俺、思うんすけど」

「何よ」

「やっぱり男子寮に女子が入ってくるのってどうかと思うんですよ」


トノが情けない声を出す。しかしとうのアカネさんは「あんただって母親を部屋に呼んでたじゃない」とどこ吹く風だ。トノは戦力不足だと思ったのか、右隣をちらりと見る。その救援信号を受け取ったショウジョウが「俺らが卒業したらちょっとは控えてくださいね」とのっかるが、アカネさんは目をとがらせて、


「ショウジョウ、あんたこないだ二年の女の子部屋に連れ込んでたでしょ」


反撃のストレートをぶちかました。その反撃に三秒黙ったショウジョウは、穏やかな顔で「仕方ないですね」とあっさり手のひらを返す。おい、戦力。しかしアカネさんの火炎放射は止まらない。


「それに俺らが卒業したらって、この中で卒業できるのなんてタケノコくらいじゃん」

「俺も卒業します!」

「トノは卒論が終わる見込みがついてから言いな。ショウジョウ、あんたは院でしょ」

「そっすね、でも院に入ったらハタケヤマ寮は出ますよ」


その言葉に、アカネさんがぴたりと手を止めた。驚いたのかと思ったけれど、単に氷を削り終わっただけらしい。ざらざらと容器に砕いた氷を移し始める。かけた茶碗、木製の汁椀、百均のマグカップ。とにかく皿じゃなければいいんだろうという適当さを感じる。俺のマグカップに盛られた氷にはリクエスト通りのカルピスが馬鹿みたいにかけられ、ほかの氷にもイチゴシロップだのブルーハワイだの業務用スーパーで買ってきた着色料まみれの液体が噴射されていた。


「俺、それ知らんかったわ」


ペンギンの形をしたかき氷機では当然ここにいる全員分の氷は削れなかった。またアカネさんが製氷皿から氷を出してざらざらとなんきょく三号に突っ込む。それを見ながら、ぼそりとハルさんがそうつぶやいた。

知らんかった――、つまりショウジョウが寮を去ることを、である。


「お前高柳大の院やろう」

「そっすね」

「そんならこのままハタケヤマにおった方がええじゃろうが。高柳大に一番近くて」

「一番古くて今にも壊れそうですね」

「それがいいんだろ」


トノの援護射撃はまたもや無視される。


「ハルさんだって今年院に入ってから、研究室暮らしでほとんど寮に戻ってこないじゃないですか。俺、実家から通学一時間半が面倒で寮に入ったんですよ。ハルさんと同じ教授志願してますし、研究室に寝泊まりするようになるなら寮に金払うより交通費出した方が安上がりだと判断しました」


ショウジョウが舌を青くしながらはきはきと言う。やがてアカネさんがすべての容器に氷を入れてかき氷を仕上げ、ようやく部屋全員が氷を口に運び始めた。

カルピスが甘い。トノが原液をあほみたいにかけやがったせいだ。甘いのに、冷たくて、頭が痛い。


「……平成最後って感じだね」


アカネさんが呟いた。

――平成最後。平成最後って、どんな感じなんだろう。

オウム真理教が処刑され、日本では各地で大雨地震と大惨事。たしかにひとつの時代が終焉を迎えようとしている気配はそこにあって、だけどそんなものよりもずっと「みんなここからいなくなるのだ」ということのほうがはっきりと自分たちを追い詰めた。

ここはひどく不思議で、無茶苦茶で、気持ちの良い場所だった。

この五人は学部も違えば専門としている研究も違うし、年齢も違う。俺、ショウジョウ、トノは四年生の同期だが最初から順番に二浪、一郎、現役入学で年齢は一つずつ違うし、ハルさんアカネさんは同じ院生だが、二留の末に院進したハルさんと違って、アカネさんは現役合格、ストレートで院進。国公立大学ほど年齢による上下関係が意味をなさない場所を俺は知らない。

そこにさらに「男子寮」が関わってくるとなおさら厄介で、トノは文学部古典専攻、ハルさんとショウジョウは理学部の物理、俺は機械工学。ごちゃ混ぜの闇鍋状態だ。その闇鍋五人がアカネさんと言う文学部近代文学専攻の女性をプラスし、高柳大学ハタケヤマ寮を通してなんとなく繋がって来られたのは理由がある。


「詠むか」

「短冊ないね」

「レシートの裏でいいや、各自財布からレシートを出せ」

「お題はかき氷と雑詠。時間十分で出句」


アカネさん以外の男子は全員ハタケヤマの住人だから繋がりはあっておかしくないとはいえ、そこに何の違和感もなく女かつ文系のアカネさんがこのメンバーにいるのは、なにもかも俳句が原因だ。

『ハタケヤマ句会』は、ハタケヤマ寮の文学部生が中心に、月二回行われてきたものである。いつもなにかお題を決めて句を詠み、感想を言い合う。厳密にはもう少しきちんとしたやり方があるのだけれど、人数が少なくなった最近はトーナメント制のゲームのような形で行うことが多い。

アカネさんは最初の彼氏が当時のハタケヤマ句会のリーダーだったことがきっかけで男子寮に時々来るようになったのだという。今のリーダーはハルさんだけれど、理系が句会のリーダーになることはほとんどなく珍しいことらしい。

まあ仕方ないだろう。俺たちの下にはハタケヤマ句会に参加してくれる学生が現れなかった。俺たちの下、というのもおかしい。ハルさんとアカネさんがいたころから少しずつメンバーは減り、このままでは下がいなくなるとハルさんがほぼ強制的にショウジョウを引っ張りこんだ。そのショウジョウに道連れにされたのが俺だ。ちなみにトノはアカネさんに引きずり込まれたのだという。文学部はほとんどおらず、理系ばっかり。

それでも俺たちの下には、やっぱり誰も入らなかった。一所懸命勧誘はしたし、楽しそうですねと声を掛けられたこともある。楽しかった。当然だ。秋には月を見ながら酒を飲んで句会をし、冬には鍋をつつきながら酒を飲んで句会をし、春には花見をしながら酒を飲んで句会を……、酒しか飲んでない。そのせいだろうか。でも、大学生のやる句会なんてそんなもんだとも思う。そう思えば夏の昼間にかき氷を食べながら句会、というのが途端に健全なもののように感じるが、事の発端が二日酔いのハルさんが酔い覚ましに冷たいもんが食いたいと自分たちを招集したことだと思いいたると、途端に健全さが消えうせる。かき氷、風鈴、入道雲、夏の四畳間に確かに香る酒の香り。これぞハタケヤマ句会。


「終わり。出句して」


ハルさんの号令でそれぞれがレシートをちゃぶ台の上に置いた。それを適当にくったハルさんが半分をアカネさんに、半分を自分が持つ。いつもの流れだ。


「グーの句。A4に数式夏の足音」とアカネさん。

「パーの句。氷河期を削れば白いかき氷」とハルさん。


白いかき氷、でほとんど俺がほとんど食べ終えたカルピスのかき氷に視線が集まる。これを作ったのはお前だな、という視線を感じるが、そんなわかりやすいことをだれがするものか。

せえの、の掛け声でグーかパー、どちらかに手をあげる。俺が挙げたのはパー。それを見たトノが「タケノコじゃなかったんだ」と驚いたように言った。自分の句に票を入れないのはルールでありマナーである。

結局白いかき氷に票数が集まりパーの勝ち。勝ち上がった俳句と勝ち上がった俳句を競わせて最後に一句が残る。票が決まれば次々に句会は進む。


「グーの句。かき氷食べたいと泣く雨蛙」


これ絶対トノじゃん。苦笑する。トノは蛙が好きで、ハタケヤマ句会に初めて来たときに「お前、好きなものはなんだ」と聞かれ、「カエルが好きです、特にトノサマガエルが」と言ったせいで呼び名が「トノ」になった。


「パーの句。バッタが跳ねる緑のかき氷」


これもまたわかりやすい。ショウジョウだ。詳細は省くがまあ案の定トノと同じことを聞かれたあいつは「ショウジョウバッタが好きです」と答えて呼び名がショウジョウになった。たぶんハルさんもアカネさんもショウジョウとトノの本名を覚えていないだろう。

じゃあ俺はタケノコが好きだと答えたのか、と聞かれそうだから先に弁解しておくが、俺の場合はハルさんが「武子」という苗字を「タケノコ」と呼んだのがすべての原因だ。タケシですと怒鳴り返したがもう遅い。タケノコのインパクトには勝てなかった。

そんなことを思い出しつつ句会を進め、結局最後まで勝ち上がり、決勝句が出そろう。


「グー、五歳児のわたしを削れかき氷」

「パー、なんきょくの行方を捜す夏の午後」


せぇ、の。

グーにアカネさん、ショウジョウ、トノ。パーに俺とハルさん。


「五歳児誰だ」


けらけら笑いながらアカネさんが酒の名前の並んだレシートをひらひら振る。酒屋のレシートにそんな俳句書くなよと思うと同時に、誰が作ったかようやく気が付いた。案の定、それにおもむろに手をあげたのはハルさんだ。


「ハルさんですか、珍しいですね。こんな句作るの」


ハルさんはだいたい酒かたばこか原子記号の入った謎の理系俳句ばっかり詠んでいる。どんな風の吹き回しですか、と尋ねれば返事は一言。


「大人になりたくないなぁ、と思って」


ぼんやりとつぶやかれた言葉に目を見開く。

その瞬間、確かに俺たちの心は一致した。


「二日酔いだから冷たいもんが食いたい、集まれって今日のかき氷句会企画した人が何言ってんですか」

「酒とたばこにお世話になって生き延びている人間が大人になりたくないだと」

「削れ。むしろおまえは自分の中の五歳児を削って卒業しろ」


ショウジョウ、トノ、アカネさんと続いたその糾弾を止めたのは俺の言葉だった。


「大人になりたくないのに子供の自分を削るんですか。自分の中の五歳児削っちゃったら、大人になるしかないじゃないですか」


部屋に沈黙が落ちる。地元の祭りの景品で当てた風鈴の音が軽快に鳴り響く。ちりんちりん、からんからん。その軽快さと同じくらい軽い声で、窓際の男が重い言葉を言い放つ。


「俺は大人になりたくないけど、それでも大人になるやろう。ハタケヤマ句会は五歳児の俺の最後の砦やった。それがなくなるなら子供の俺に行き場はない。削って殺して大人になるしかないわな」

「……なくならないですよ!」

「おらんくなるのに?」


ハルさんが笑った。ずっと無表情だったハルさんが、初めて優しく笑った。


「ショウジョウも、トノも、タケノコもおらんくなって、アカネは女子寮。俺しかこの寮にはおらんくなって、その期限もあと少し。おまえらの下には俳句やる奴なんかもうおらんくって……。そもそもハタケヤマ自体、建て直すんやろう。古いし耐震も大してしてないしな」

「ハルさん」

「ずっと思ってたんや。今年で最後にしようって」


どういうことですか、とショウジョウの低い声がかすれた。

そのかすれた声とは正反対なハスキーボイスが、夏の部屋を駆け巡る。


ああ、なんでだろう。その言葉を聞きたくなかった。




「お前らが卒業したら、ハタケヤマ句会はおしまいにしよう」




ハタケヤマ句会を死にそうな顔をして守り続けてきたこの男から、その言葉を聞きたくなかった。自分にとって最大限のわがままとエゴでそんなことを思った。


「ハルさん!」


ショウジョウが叫ぶ。四畳半、ちゃぶ台を叩く音が反響する。けれどハルさんは冷静だった。

アイスやお菓子、缶チューハイがプリントされた近所のコンビニのレシートをひらひら振って、「他人事の顔してんなよ」とはっきりとした声で言った。


「この句会の終わりをお前だって察してたくせに。なあ、アカネ」


――なんきょくの行方をさがす夏の午後


なんきょく。なんきょくって、南極じゃなくて今自分たちの目の前にいるペンギンのことだと初めて気が付いた。これはアカネさんの俳句だったのだ。

なんきょく三号はハタケヤマ句会のメンバーで代々引き継がれてきたものだ。三号なのは初代から壊れるたびに買いなおしていたからだそうで、だいたいなんきょくはその時の句会の副リーダーが管理することになっていた。つまり、今はアカネさんだ。


「ハタケヤマ句会が終わったら、なんきょくどうしようかなって。私がもらっていいならもらうけどさ」


それはアカネさんも、ハタケヤマ句会の終焉をはっきりと意識していたということに他ならなかった。


「お前にやるくらいなら俺がもらうわ」

「何よ、ケチ」

「お前は三股男の遺物を抱えてここを出て大人になれるのか」


その言葉でなんきょく三号の購入者が明らかになった。アカネさんの最初の彼氏にして、ハルさんよりいくつか前の代のハタケヤマ句会のリーダーである。

「俳句はいいが人間性がクズ」とはアカネさんの談で、18歳の純真な心を弄ばれたと吐き捨てるように言っては酒を煽る姿を覚えている。つまりは浮気だ。ちなみに当の本人はとっくの昔に社会人になって結婚しており、平和な家庭を築いているそうな。絶対そのうち離婚するよ、むしろしやがれといったアカネさんの言葉に女って怖いと思ったことを覚えている。


「なんきょく三号、私はもういらないや」


アカネさんはつきものの落ちたようなすっきりとした顔でこちらを見て笑う。


「とりあえず、句会の結果が先だね」


そう言うなり、次々に今日の俳句の作者を開けていく。雨蛙はやっぱりトノだったし、バッタはショウジョウだった。


たぶん――、たぶん、だけれど。


直感的に思う。ハルさんはアカネさんのためにハタケヤマ句会を続けてきて、アカネさんのためにハタケヤマ句会を終わらせるのだろう。

ずっと不思議だった。どうして何事にもやる気のない、理系のハルさんが句会のリーダーなのか。たぶん本当のリーダーはアカネさんだった。けれど「ハタケヤマ」を名乗る以上それは男子寮のものであり、女子がリーダーになることはまずありえない。

アカネさんは一年生の時からずっとハタケヤマ句会にいた。その動機が三股男だったとしても、彼女は「ハタケヤマ句会」と言う場所を愛していた。そしてハルさんはそれを知っていた。ハタケヤマ句会の終焉が近づいていることを知った彼が、必死になって下を獲得しようとしたのも、理系の自分が甘んじて句会を率いることを許容したのも、きっとアカネさんのためだった。アカネさんが三股男の思い出に縋って生きていることを知っていたからだ。

でも、もういいのだ。たぶん、アカネさんがなんきょくを手放せるということは、もうここがなくても彼女は生きていけるということで、三股男なんかの遺物に頼らなくたっていいということで――、ハルさんがここを守る意味もないと、そういうことだろう。

平成の終わりも俺たちがいなくなることも関係ない。アカネさんだけがこの句会の終焉を握りしめて笑っていられる。

だけど、そうなら。そうやってふたりが小さな自分を捨てて生きていくというなら俺はそれを見送るべきだし、俺もきっといつかはそうなるのだろう。

だけど――、だけど。



「思い出を捨てて新たな夏が来る。これはだれ?」



二人が捨てたものを拾い上げて、俺はまだここで息をしていたい。


ゆっくりと、手をあげる。


平成の夏が終わる。ハタケヤマ句会が終わって、ハタケヤマ寮も終わって、そうやってどんどん時間は流れていく。その時間の流れに抗うことなんか、ちっぽけな人間ではできはしないから。


「俺、句会しますよ」

「は?」

「社会人になっても、ハタケヤマ句会がなくなっても、寮が取り壊されても。例えば近所の河原で、家のベランダで、くそ汚い四畳半で、レシート片手に句会をします。ハルさんたちにもしつこく句会の招待をしますし、なんなら三股男の遺物は俺が預かります」


部屋中の目が俺に集まっていた。こちらをまっすぐ見る八つの目。それを順番に見て、見つめて、笑う。


「五歳児、削んなくたって。なんきょくの行方を探さなくたって平成最後の夏は終わるし、俺たちは大人になるから。いきつくとこまでいきましょうよ。ハルさんが守らないというのなら、俺があとを引き継ぎます」


最初に声をあげて笑ったのは、ハルさんだった。その笑い声がアカネさんに伝染して、トノ、ショウジョウと広がって、四畳半に爆発的な笑い声があふれる。

笑って、笑って、笑い転げて、そのうちがちゃりとドアが開いた。


「……なんか楽しそうな声がしたので」

「なにかあったんですか?」


あいたドアの向こうから、今年の春から入居してきた一年生が顔を出す。まだどこかあどけない顔をしていて、それがいつかの自分たちと重なった。

そうだ、たぶんこうやってつながっていく。こうやって終わりかけたものは息を吹き返して生きていく。


「……かき氷、食べていく?」


アカネさんが柔らかい声で笑った。青年たちが不思議そうな顔を見合わせる。




そうしてまた、夏の四畳半でなんきょく三号が軽快に走り始める。



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やわらかいてのひら @kotonohasarara

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