レモングラスとブルーミント
何かを忘れているような気がする。
薄切りにしたパンにバターを塗りながら、私はぼんやりと考える。
この『何か』というやつが厄介だ。人間は万物に名前を求める生き物で、名前がないうちはどうにかしてそれに具体性を見いだそうともがくくせに、代名詞でも名前がつくと安心してしまい、そこから先を考えようとしない。
しかし私は考えねばならない。『何か』とはなにか。私が忘れてしまったものは何であるのか。私は、考えねばならない。
なぜ考えねばならないと思うのか、それも忘れてしまったのだけれども。
茹であがった卵のからにヒビを入れ、水道水の勢いでそれを剥く。剥きあがったものをボウルに放り込んで、マッシュする。完全につぶれなくていい。荒いくらいが好きだ。私も、彼女も。
そうしてある程度それを潰したところで、冷蔵庫のドアを開けてはたと手を止めた。
「マヨネーズ買うの忘れてた」
『何か』とはマヨネーズだったのだろうか。
「ええ、それで朝からマヨネーズ作ってるんですか?」
「そう。私、朝は完璧じゃないと嫌なの」
「うわー、ひ......じゃないや優雅ですねー」
「今暇って言いかけたでしょ」
「優雅ですねぇ」
じゃかじゃかマヨネーズをかき混ぜている間に家にやって来た椎名は、いつもの通りのほほんとした笑顔で失礼なことを言った。私のマネージャーの彼女は、私の小学生の時からの知り合いだからか、全くもって遠慮がない。まだ私のことを小さな子供だと思っている。
幸い先日プリンを作ろうと買い込んだお陰で卵はまだたくさんあったので、結局マヨネーズは手作りした。酢や塩もあったし、おかげでほうれん草とゆで卵のサンドイッチは無事に完成し、続けてベーコンとトマトのサンドイッチやフルーツサンドも完成させることができた。最後にハーブティーを淹れれば完璧な朝だ。
ポニーテールをほどいて、エプロンをリビングの椅子の背に放り投げて、庭に面した縁側に座る。
「椎名も食べるでしょ、こんなにたくさん食べきれないわ」
「いつも言うじゃないですか、私。朝ごはん食べてきたから私は食べませんよーって」
「椎名の好きな卵サンドなのに。ちゃんと荒く潰してあるのよ」
「美味しそうですねぇ。でもこれ以上食べると体重が大変なことになってしまうので」
「椎名細いじゃない。お昼もサンドイッチになっちゃう」
「いつもそうなっているのに学習しない人ですね、スキニーパンツがはけるモデル体型に細いとか言われたくないですよ」
ちぇっと舌打ちをひとつして、サンドイッチにかぶりついた。
庭先には夏の花が咲き乱れ、花壇のハーブから柔らかいにおいがしている。
「椎名が来るならマヨネーズ買ってきてって頼めばよかったな」
「私は小間使いじゃありません」
その言葉にけらけらと笑えば、弾けた笑い声は綺麗な山吹色になった。
共感覚ーーシナスタジア、というやつらしい。
物心ついたときには、私の世界は色で溢れかえっていた。
頭のなかで普通はくっつかないところがくっついて、普通のひとには見えない世界が見える。
それは何億年と進化してきた人間が新しい世界へ足を踏み込んでいく進化の過程のひとつのようで、自分が私のシナスタジアだと知った中学生の私はまるで他人事みたいにわくわくしていた。実際はそんなに楽しいものではなかったし、優しいものでもなかったけれど。
まだ数は少ないけれど世界にはたくさんの症例があって、音が味として感じられる人もいるそうだ。
私の場合は色だった。
日差しが頬を踊ればレモンイエロー。
鳥が鳴けばマゼンタピンク。
鳴り響く目覚まし時計のベルはキリっとしたペルシャブルー。
朝は特に透明な鮮やかさのある色で溢れていて、いつも胸の奥からじわりとパステルカラーの虹色が溢れ出す。
この時間が好きだから、朝だけは完璧な私でいたかった。
「椎名の声は、アイル・トーン・ブルーね」
「なんですかそれ」
「優しい青色。私、好きなの。椎名の好きなレモングラスのにおいの色もその青色に近いわ」
「へえ、レモングラスは黄色なのかと思ってました。葉っぱは緑ですけど、レモンっていうくらいだし」
「事象の色とシナスタジアの色は一貫性がないことが多いの。味を感じる共感覚も、人参って言葉を見て人参っていう味を感じることはないみたいだし」
「じゃあどんな言葉を見たら人参の味になるんですか?」
「ガソリンだって」
「ガソリン!」
椎名が驚いた声をあげる。アイル・トーン・ブルーが濃さを増す。アザー・ブルー。なんにせよやわらかな色だ。
「椎名はどうしてレモングラスが好きなの?」
ふと思い立ってそう尋ねれば、彼女は柔らかなショートカットを揺らして微笑んだ。
まるでひどく優しい思い出でも思い出すように笑うから、一瞬どきりと胸が高鳴ったけれど。
「だって草なのにレモンの風味がするって超面白くないですか」
「そんなことだろうと思ってたわ」
呆れて思わず真顔になった。ベーコンとトマトのサンドイッチが美味しい。
チベットスナギツネのような顔をする私に椎名はくすくす笑って、それだけじゃないですよ、とふっと庭に目を向けた。
「凛子さんが好きだったんです、レモングラス」
「叔母さんが?」
「そう。ハーブティーにぴったりっていうのもあったけれど、花言葉が好きだったらしくて」
「どんなの?」
椎名が指を折って数え始める。
「爽やか、爽快......」
「あの人らしい」
「凛々しさ」
その言葉がぱちんと深い藍色で弾けた。
「『凛子さん』だもんね」
「そうですね。そういえば、凛子さんはレモングラスはブルーミントだって言っていましたよ」
「なにそれ?ミントブルーでもなく、ミントグリーンでもなく、ブルーミント?」
「ブルーミント。たぶん色のことだとは思いますけど、どういう意味だったのか本人にはもう聞けませんね」
椎名のそばに置いたお茶が冷めている。
椎名は手をつけないまま、やっぱり静かに微笑んでいた。
「凛子さんに似てきましたね、鈴子」
シナスタジアはおそらくある程度遺伝するものなのだと思う。
母の姉にあたる叔母の凛子も強い共感覚の保持者で、画家をしていた。そこそこ有名だったんだろう、時折雑誌や新聞、テレビで叔母の顔を見ることがあった。
田舎にある洋風の一軒家を買った叔母は、そこに引きこもるようにして暮らしていた。私がシナスタジアだと気がついたのも叔母が最初だ。
「誇れ」
彼女はきっぱりと私にそういった。
「自分がもって生まれたものを蔑む人間になるな」
家を出て叔母の家に転がり込んだのは中学を卒業してからだ。
母の蔑むような顔が耐えられなかった。
母は才能のある姉を嫌っていた。有名になった叔母に相反し、ないがしろにされて育った彼女は強烈な劣等感と嫉妬心を抱いて大人になった。実の娘にそれが向かうのは悲しいことではあるけれど、シナスタジアに生まれた以上仕方がないことだとも思う。
叔母の家での生活は幸せだった。
私の世界は緩やかに完結していく。
画家の叔母と、叔母のマネージャーの椎名。私。綺麗な家で3人、スノードームの中の世界みたいにキラキラ回る。
そのうち私も叔母にくっついて絵を描くようになり、美大の推薦をとって進学した。
在学中から小さなカフェでぽつりぽつりと開いていた個展は、大学を卒業する頃には大きな会場を使って、チケットを販売して行うようになっていた。
大学を卒業してすぐ、叔母が死んだ。
心不全だった。才能がある人間は長生きできないというが、それはどうやらほんとうらしい。
叔母の家は私の家になって、椎名は私のマネージャーになった。
私は家から出ないまま、ゆるゆるとこの家で絵を描いて過ごしている、のだけれど。
ーーやっぱり何かを忘れていると思う。
そう思いながら筆をとった。
郵便受けに入っていた封筒には依頼の絵の期日があった。個展の絵も描かなくてはならない。
緩やかな日々のわりに、私の日常は忙しい。
忘れてしまった『何か』を思い出そうとして筆に絵の具を含ませる。庭に面した縁側で、風を浴びながら絵の具を振るう。『何か』は柔らかい青色をしていて、思い出すと胸が苦しい。心臓がどきりどきりと脈を打つ。
思い出さねばならないと思う。
思い出してはならないと思う。
相反するふたつの中で、私はぐらぐらと揺れている。
「こら、クインナ!」
叫び声。アイル・トーン・ブルーが目の前にじわりと広がった。同時に足元に柔らかい感触。ボルドーレッド。これはクインナだ。
振り向くと椎名が申し訳なさそうに手を合わせる。
「足も拭いていないのに家のなかにあげちゃった」
「いいわ、気にしないから。おいで、クインナ」
クインナは最近この辺りにふらりと現れるようになったメイクーンの猫だ。飼われているのかいないのかもよくわからない。大層気まぐれで、いく先々でいろんな名前をもらっているらしい。
「なんでクインナなんですか?」
「クイーンみたいな気品があったから」
「うわぁよくわかんない」
「なら椎名ならどんな名前をつける?」
椎名はちょっと考えて、真顔で一言。
「どら焼き」
私は目線の高さまでクインナを持ち上げて、静かにこう言った。
「クインナでよかったね」
「失礼な」
休憩をはさみながら着々とキャンバスに色を塗っていく。時々椎名がとなりにたっては何かを話して、何かを話しては去っていく。クインナは飽きもせずに私の足元にまとわりついては椎名に引き剥がされ、引き剥がされてはまた戻る。
「もうすぐ凛子さんの命日ですね」
家のなかに夕日が差し込む頃、椎名がそう言った。その言葉に目をぱちくりとさせる。
忘れていた。
叔母の命日を忘れるなんて、私もずいぶん年を取ってしまったということだろうか。でも思い出したところで何をしようという気も起きなかった。
「墓参り、行くでしょう。スケジュール調整しなくちゃ。ワインも買わないと」
「......今年も、いいかなぁ」
「え?」
夏の世界で、空気が少しだけ、冷たくなった。
「仏壇に手を合わせるわ。ワインはネットで注文しておくし」
「何をいっているのかわかっていますか」
椎名の声がきりりと尖る。それに私はとっさに耳を塞いだ。
「その声、嫌い。ウィンター・スカイ。冷たい青色」
「今はあなたの色についての話はしてない。凛子さんの命日に墓前にいかないのがどういうことか、あなたはわかっていますか。そう言ってもう何年墓前に立っていないの」
問い詰められて頭の奥がつきんと痛む。
「でも私、この家から出たくない」
「そうやって引きこもってもう何年?あなたもうすぐ何歳になるんですか?もう若くないんですよ」
「言わないで椎名」
自分よりもずっと幼く見える椎名の顔がくしゃりと歪められた。そして、また同じ言葉を繰り返す。
「もう何年、この家から出ていませんか」
「家の外は色が多すぎて疲れてしまうの」
「それは叔母の命日より優先すべきことですか」
「そうね......」
「あなたは!」
「何かを」
クインナが足元で細い鳴き声をあげた。
「何かを忘れていると、おもうの」
椎名が目を見開いた。
話を聞こうと一歩踏み出してくれた彼女に、言葉を伝えようと私も一生懸命頭の中の辞書を引く。
「何を忘れたんですか」
「わからないけれど、思い出さなきゃいけないこと。淡い青色の、なにかよ」
これで伝わると思った。同じシナスタジアだった叔母にはこれで伝わった。けれど、椎名は違った。
彼女は顔をくしゃくしゃにして、泣き笑いの顔ではっきりとこう言ったのだ。
「鈴子。私には、あなたの見ている世界の色は見えないんですよ」
それは確かな拒絶だった。
何かを忘れている。
その感覚は椎名が家に来なくなって数日がたってもまだ続いた。
まあ、お盆だし。実家にでも帰省しているのかもしれない。椎名こそいい年なんだから結婚したっていいのに、そういう話が一切でないのはどこかで自分が私の保護者だという感覚があるからだろうか。
いいのに。私は椎名が結婚したって、いいのに。
ーーあれ、ほんとうに椎名に結婚の話が持ち上がったことはなかったっけ。
ーー何かを忘れている。
「......クインナ?」
何かを、忘れている。
「珍しいわね」
ある朝、ハーブティーを飲んでいたらクインナがやってきた。
椎名よりも先にクインナがやって来ることはめずらしく、驚いている間にクインナはさっさと部屋の中にあがりこみ、アトリエの中に入っていった。
さすがに焦って追いかける。描きかけの絵にいたずらをされたら大変だ。椎名がいないとこういうのを止めにはいることができなくて困る。
「ストップ、クインナ!」
叫びながら小走りでそのあとを追いかければ、クインナはまっすぐにアトリエの奥まで描けてゆき、立て掛けた絵にぶつかったところだった。
「クインナ!」
悲鳴のような声と同時に、布をかけられていた絵がこちらに向かって倒れてくる。クインナはさらりと絵から身をそらしたけれど、代わりにぱたりと倒れたその絵が目にはいる。
ーー息を飲んだ。
『レモングラスとブルーミント』
庭の中にたたずんで、こちらを振り向いて笑うショートカットの女性。
全体が淡い緑色と青色で構成されたその絵を、私は呆然と見つめた。
「サムシング・ブルーの代わりに、私の愛する友人へ。凛子」
その絵を私は知っていた。
絵の裏には小さく、「レモングラスとブルーミント」とタイトルが書きつけてある。
どっと身体中から汗が吹き出すのがわかった。
何かを忘れている。
何かを忘れている。
何かをーー、何か?
忘れているんじゃない、忘れたかったのだ。
頭の中に鮮烈な赤が散った。
電話のベルだった。どくりどくりと鳴る胸の音を押さえて、廊下に走って戻り、ガチャリと受話器をとる。
電話の向こうで、静かな声が聞こえた。
蝉の声と混じったそれを聞きながら、頭の中に鮮やかな青と緑が混じりあって溶けていくのをぼんやりと見ていた。
「鈴子」
アイル・トーン・ブルー。
静かな声が廊下に響く。見るとアトリエの入り口で、椎名がそっとクインナを撫でている。
「椎名」
「鈴子......」
「椎名、笑わなくていいよ」
椎名はやっぱり穏やかに笑っている。
「笑わなくても、良いんだよ」
声が、震えていた。
椎名は穏やかな顔のままこちらに向かって問いかける。
「『何か』は思い出せましたか」
「......ええ」
さっきの電話を思い出した。
「こちら、高杉警察署です。君島鈴子さんですか?あなたのおば様の三鷹凛子さん殺害事件での加害者である、椎名雪穂元死刑囚の死刑が、先程執行されました」
椎名は画家だった。
叔母のアシスタントをしながら絵を描いていた。でもなかなか、芽が出なくて。
私が大学を卒業するころ、画家になることを諦めて結婚することを決めたらしい。叔母は少し悲しそうな顔をしながらも、それを喜んでいた。
あの夏の日、叔母の好きなワインを買いにいってくれと頼まれて、外に出掛けた。帰ってきたとき叔母はもう死んでいた。心不全とのことだった。
その一年後の夏、椎名が捕まった。心不全なんて嘘で、椎名がハーブティーに毒をまぜて飲ませたことがわかったからだった。
椎名の好きなレモングラスのハーブティーだった。
椎名が捕まった日も、私は外に出掛けていた。椎名に叔母の命日のためのワインを買ってきてくれと頼まれたからで、その間に椎名は警察署に出頭した。
何かを忘れていた。忘れたかった。
シナスタジアという人とは違う世界を手にした、人とは違う進化を遂げた私たちを前に狂ってゆく人たちを、私は忘れてしまいたかった。
椎名との幸せな日々に溺れていたかった。
ニュース映像の中の椎名の顔と、私がシナスタジアだとわかったときの母の顔が、重なる。
悲しそうな、悔しそうな、紫色。
「椎名、悔しかった?」
思わず私も問いかけた。
答えは返ってこないと知っている。
この椎名は私の妄想だ。だから私の都合のいい返事しか返さない。わかっているけれど、私は尋ねた。
「ブルーミントは存在しない色。椎名の名前や声を聞いたときに見えた色に、凛子さんが名前をつけた。それを結婚祝いにってもらったんだね。サムシングブルー。花嫁が幸せになるための青色。画家の道を諦めてブラックアウトしてゆくあなたに、まるでだめ押しをするように」
椎名は、笑っている。
「椎名は、悔しかった?」
妄想だと理解して椎名を見ると、途中からぐにゃぐにゃ歪みはじめて笑顔もよくわからなくなった。
何も話さなくなった、廊下にこびりつく影のような女に、私は問いかける。
「シナスタジアの私たちが、あなたに見えない世界を見ている私たちが、憎かった?」
ーーそれでも。
叔母が椎名のために新しい色を作ろうとしたのは。旅立つ椎名にサムシングブルーを送ろうとしたのは。レモングラスのハーブティーを淹れたのは。
「それでも私たちは、あなたを愛していた」
スノードームが、割れてしまった。
頭のなかで鮮烈な色が混ざりあって、毒々しい色になる。
思わず顔を両手で覆う。涙はでない、けれどこの色をもう見ていたくなくて。
その時だった。
「私も、愛していたと思います」
アイル・トーン・ブルーが頭の中にじわりと広がった。
「嘘じゃないよ」
夏の廊下には、もう、誰の影もなく。
ただ蝉の声が鳴り響いているだけだった。
母に電話を掛けた。
椎名雪穂の死刑が執行されたと告げると、母は電話の向こうで泣いていた。
ごめんなさい、と思わず呟くと、ふつりと泣き声が止む。そしてしばらくして何故あなたが謝るのかと怒ったような声が聞こえた。
「あなたのことを嫌ったことなんてなかった......。ほんとうに、ほんとうよ」
ーー指先が冷たい。
目の前に見たことのない青色が広がる。それはいつか叔母が見た、ブルーミントなのかも知れなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます