星を売る人



星売り。



彼女は進路希望調査書に下手くそな字でそう書いた。第一志望の欄にはみだすくらい大きくそう書いて、続けざまに第二志望も第三志望もひらがなで「なし」と続ける。

一瞬驚いて呆けていた僕は、やがて泡を食って彼女から小さな用紙を取り上げた。


「何するの」


不満げな彼女に顔をしかめる。何をするのはこっちのセリフだ。高校二年生にもなってこいつはなにをしているのか。


「お前さ、進路希望の意味わかってる?」

「将来の夢のこと」

「小学生かよ。ちくしょう、フェルトペンで書きやがったな」

「大事なことは消えないようにしないと」

「ふざけたことの間違いだろ」


面倒なことを頼まれたと内心で舌を打つ。

幼馴染の彼女が期限を過ぎても進路希望調査書を出さないから手伝ってやってくれと頼まれたのは今朝のこと。家に帰ろうとする彼女を引き留めて、進路希望を出して帰れとこんこんと諭したのが30分前。ようやく書いたと思ったらこの様だ。

放課後の教室。「星売り」の文字を消せないことを察した僕は早々に職員室に二枚目をとりに行かせようと口を開いた。


「おい」


職員室に行け。そう続くはずだった言葉の続きは夕暮れの赤に塗り潰された。

ぱっと目があった瞬間見えた、彼女の目にちらついた赤があんまりに強く光ったせいだ。


「ふざけてなんかない」


はっきりとした声で彼女はそう言った。


「私は星売りになるの」


夕暮れが風まで赤く染める。教室の窓からするりと忍び込んだ風が彼女の長い髪を赤く染めながら巻き上げて、目の奥にきらきらとオレンジや黄色の光を飛ばした。まるで星空のような目の色が眩しくて、思わずふっと目をそらす。


「そもそも星売りってなんだよ」


半分突き放すようにそう怒鳴る。すると彼女は不思議そうにことりと首をかしげた。


「星売りは星売りよ。星を売る人」

「それが意味わかんねぇ」

「あんた、頭かたいの」

「お前に言われたくない」


ぽんぽんと軽口を交わしていれば、彼女はしびれを切らしたように大きな音をたてて立ち上がった。


「いいわ。明日、あんたに星を売ってあげる」

「は?」

「だから進路希望を出すのはそのあとね」

「おい、逃げんな!」


叫んだ僕をちらりとみて、彼女がふざけて両耳を手で塞ぐ。にやりと笑う。そのまま長い黒髪がたなびいて廊下の向こう側に消えた。こんなの、担任にどう説明すればいいんだ。

しかめっ面で家に帰る。その帰り道も、夕飯のときも、風呂の間も、何故だか彼女の「星売り」の言葉が耳から離れなかった。星売りになるの。星を売る人。意味がわからないけれど、夕日の赤と彼女の声が入り乱れて頭の中に暖色の光を散らす。ちかちかと光るそれからどうにか意識をそらそうと普段はしない英語の予習までして、日付がくるりと代わる頃ようやくベッドに潜り込んだ。潜り込もうとしたはずだった。



がらりと窓があいた。



驚いて体を起こせば、窓の向こうから半身を乗り出した彼女がひらりと手を振っている。


「え、何」

「明日、星を売ってあげるって言ったでしょう」

「いやそうじゃなくて」


確かに日付は変わっている。けれどそういう問題ではなくて。

ここがマンションの12階だとか部屋の窓の鍵は閉めていたはずだとかどうして当然のように空に浮かんでいるんだとかいろいろーーほんとうにいろいろ突っ込みどころはあったのだけれど、彼女が嬉しそうに笑うから。


「いこう」


楽しそうに白い手をこちらに差しのべるから、思わずその手をとってしまった。

途端、ふわりと体が浮く。うわあと情けない悲鳴をあげた僕をよそに、彼女はけらけら笑って窓からするりとすり抜けた。


「足を動かすの」

「どうやって!」

「あんた普段どうやって歩いてるのよ。足を順番に前に出すの。ほら。いち、にい、いち、にい」


夜の街にぷかりと浮かぶ。目をぎゅっとつむって足をとにかく動かすと、彼女の軽い笑い声が聞こえた。


「目を開けなよ」


放課後の夕風と同じ温度の声だった。おそるおそる目をあける。

真っ暗やみのなか、足元におびただしい光があった。煌々と灯るその光に薄目だった目を大きく見開く。


「あれ、もしかして全部星なの」


震える声でそう尋ねると、機嫌よく空をスキップしていた彼女が「そんなわけないじゃん」と顔をしかめた。


「あれは人間だよ」

「人間?」

「そ、眠ることのできない人間の光。あれはあれで生きてるって感じだけど、私は好きじゃないなぁ」

「どうして?」

「ぎらぎらして、必死で、ある日突然ふつりと消えてしまうから。そんな風に消えてゆく光をいくつも見たわ」


そう言って、彼女が突然ストップ!と叫んだ。つられて動かしていた足を止めれば、とたんに緩やかに体が降下していく。


「私、あの光は好きじゃないけれど」


彼女が笑う。


「星の光はね、本当に綺麗なのよ」


降る、降る、降る。しずかに緩やかに落ちていく体は、やがて見慣れた通学路へと着地した。

暗闇の中、黒いアスファルトはきらきらと光を抱いて反射していた。


「あれが、星」

「地面にあるのに?」

「空から落ちてきたのよ」


彼女はそういうと、背負っていたリュックサックから大きな瓶を取り出して地面においた。その蓋を開けると、拾って、と地面を指差す。


「拾うって」

「空から落ちてきた星を拾うの」


白い指がアスファルトから光の欠片をひろいあげた。それを瓶の中に落とす。からんころんと澄んだ美しい音がした。

震える指で僕も星を拾いあげた。

やがて星の光に目がなれてくると、眩しいだけだった欠片に色があることに気がついた。赤、青、黄、緑、様々な色はどれも少しの明暗が違っていて、どれひとつとして同じ色はなかった。


「この星を売るの?」

「そうよ」

「誰に」

「いろんな人」


彼女が黄色の欠片を拾い上げた。


「これはね、誰かに認められること」


紫。


「家族からの愛」


オレンジ。


「信じられること」


緑。


「安心できる居場所」


彼女はその欠片を一つ一つ瓶の中に丁寧に落として、静かに呟いた。


「その人の持っている悲しい思い出と引き換えに、その人が一番求めている星をあげるの」

「一番求めている星?」

「そう。ねえ、こっちを向いて」


振り向くと、彼女の白い指がとんと僕の左胸をついた。途端、澄んだ青い光が彼女の指にまとわりつく。

美しかった。さっき夜空で見たあの光に似た、それよりもずっと柔らかい光だった。


「これは君の悲しみ」

「僕の」

「そう」


小さな手のひらが青い光を静かにまとめて抱きしめる。


「いつも君はいい子だったね」


いい子だった。


「求められるままに、お母さんの望むいい子供であるために勉強をして、先生の望むいい生徒であるためにたくさん頑張ったよね」


そうだ、僕はいい子だった。

母親の言うままに勉強をしていい成績をとっていい高校に入って。


「いい子の終わりが見えなくなったのはいつだったかな」


幼馴染の進路希望。その提出の責任なんて僕にはないのに、わかりましたなんていいお返事で引き受けて。

いい子の終わりが見えなくなったのはいつだったろう。そんなの、もう覚えてない。


「その日から君の胸にあり続けた悲しみがこの光」


ほの暗い青。その青を抱き締めて、優しく、柔らかく、彼女は微笑んだ。微笑んで、笑って、そしてふわりと。



「君の寂しさも悲しさも、息苦しさも。今夜、私が受け取ろう」



彼女が光を飲み込んだ。

星を拾い集めてしまったアスファルトには夜の暗闇だけが残った。

瓶の中いっぱいに詰められた星がきらきら光る。その中にあった、一番大きな淡い桃色の欠片を彼女がつまみあげた。それをことりと僕の手のひらに落とす。


「君の悲しみを代金に、この星を売るわ」

「......これはなんの星?」

「なんだろうね」


白い手が僕の手に重ねられた。指の隙間から淡い光が零れて溢れる。


「君に必要なもの」

「僕に?」

「そう。いい子じゃない君も全部まとめて愛してくれる人の光。これをもっと光らせるか、それとも捨ててまた新しい悲しみを集めて別の星を買うのか。それは君の自由よ」

「なんだか難しくてよくわからないや」

「そう?頭が固いのね。じゃあ君にもわかるように、簡単な名前をつけてあげる」


簡単な、名前。

彼女はそれをいとも簡単に口に出した。






「この星の名前はね、恋っていうの」






「眠そうだね」


チャイムが鳴って昼休みになっていたことに気がついた。


「具合でも悪いの?」


幼馴染の彼女がお弁当をひろげながら僕に尋ねる。


「いや、別に」

「授業中ずっと寝てたじゃない。珍しい。いい子で優等生の君が居眠りだなんて」


いい子の終わりが見えなくなったのはいつだったろう。

彼女がいたずらっぽく笑ったとき、そんな言葉がふと耳の奥で反響した。その声を思い出した途端、口から言葉がこぼれ落ちた。


「昨日、変な夢を見たんだ」

「夢?」

「そう。それで、目が覚めたときに思ったんだ」


目が覚めたとき、自分の胸の中にあったのは確かな喪失感。からっぽになった心を不快だと思わなかったのは、それがきっといい感情じゃなかったからだ。

自分の中にあったあの青色の光は、きっともう、どこにもないのだ。


「たぶんもう、いい子じゃなくてもいいんだ。勉強だけじゃなくて自分のしたいことをしたいようにしてもよかったんだ。いい子じゃなくても大丈夫なんだーーきっと、もう」


僕の言葉に彼女は少し目を丸くしたあと、昨日の夢の中そっくりの笑顔で笑って見せた。


「じゃあ私の進路希望に口出しもしないのね?」

「それはする。星売りってなんだよお前」

「こういうこと」


進路希望について文句を言おうとした僕の口に、彼女は突然何かを放り込んだ。思わず黙る。口の中いっぱいに柔らかい甘さが広がる。

彼女の手の中には、星を積めた瓶にそっくりなーーでもそれよりかはずっと小さい、金平糖の詰まった瓶があった。


「いい子じゃなくなった君にごほうび」


青色の金平糖を口に放り込んで、彼女が笑う。


「でも私は、いい子でも、そうじゃなくても、君が好きだよ」


その声にまた、目の前に星が散ったような気がした。


「あのさ」

「なに?」

「今、何色の星を僕の口に放り込んだの」


尋ねると、彼女はことりと首をかしげた。


「何色だと思う?」


僕は笑った。ふわりと柔らかく、目の前の彼女よりもずっと優しく口許を緩めた。





「淡い桃色だったらいいな」

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