ゆれるさなぎ
高校受験で全部使いきっちゃったんだと思う。
憧れの女子高。このあたりで一番かわいい制服の、チェックのセーラー服を見たって私の心はちっとも動かなかった。
元はと言えば――元はと言えば、誰が悪いんだろうなぁ。
通っていた塾の先生が、私の成績表を見て「頑張ればここにいけるよ」と、私が狙っていた公立校よりワンランク上の公立を勧めたのが中学二年生の春。それなりに賢い学校だったから、その言葉に母は舞い上がった。滑り止めはどこでもいいというから、制服のかわいい女子高を選んだ。憧れだった。制服だけだけど。学校は英語に力を入れているということしか知らないし、英語はそんなに好きじゃなかった。
なんだか、どうでもよくなってた。私の進路を私そっちのけで決める親も、塾の先生も、たぶんここにいる私なんかどうでもいいんだろうなってわかった。
それから二年、正しく私は勉強漬けだった。ストレスで自分の髪の毛をぶちぶち抜いた。だから私の後頭部は、夏が訪れた今でも、まだちょっとはげている。そこまで追い詰められて勉強した結果が、可愛い女子高の制服だ。つまり私は滑ったのだ。
母は見るからにがっかりした。学費が高い、ものが高いとぶつくさ文句を言って、その他のことはなんにもいわなかった。塾の先生は一言、高校受験が人生じゃないと言った。嘘つき。今頑張らなきゃ私の将来は真っ暗だ、なんていい方したくせに。
勉強ばっかり詰め込んだ私の体は試験から解き放たれて、すかすかの抜け殻みたいだった。うまく笑えないし、うまくしゃべれないし、友達なんかできないし、可愛すぎる制服は私には似合わなかった。
夏休みが近づく今日、通学途中の環状線。窓の向こう側に見えた、すこんと抜けた青空と、ガラスに映る青白い貧相な少女。自慢の制服だけがぽっかりと浮いていて、なんだかひどくみじめだった。みじめ、という三文字が頭に浮かんだ瞬間、抜け殻の体の底にへばりついていた「頑張らなければいけない」という意識が、緩やかにほどけて消えた。環状線から降りられなかった。放心状態の私は、制服のまま電車で何度も外回りを繰り返して、ようやく昼過ぎ、学校とは反対側の知らない駅名の街で降りた。
読めない駅名。知らない町。ベッドタウンらしき住宅街の広がる街は、駅前の繁華街を過ぎると人気はほとんどなくなった。そこをふらふら歩いていく。生ぬるい日差し。高架下。公園。がたんごとん、電車の音。歩道の少し薄くなった白線が不思議と懐かしい。子供のころはよくあの上をバランスをとって歩いたっけ。体が大きくなってからは恥ずかしいからやめなさいと母に叱られたけれど、知らない町だし、誰も見ていないし、いいか。
薄れた白線を学校指定のローファーでなぞってゆく。時々ターンなんか決めちゃう。成功。この歩き方、今までの私と似てる。白線の上を丁寧に歩いていくのが私の仕事。ラインのあっちにもこっちにもいけないどっちつかず。落ちた先じゃ納得いかずにあっち側に落ちればよかったと後悔するけど、きっと白線の向こう側も私の望む世界じゃない。
そもそもこの白線って、引いたの誰なんだろ。
そんなことを考えた瞬間、曲がり角の向こうから不意に黒い影が飛び出した。はっと体をこわばらせると、向こう側から歩いてきたのは学ランを着た男の子だった。私と同じように白線をたどって歩いてきた彼が、不意に顔をあげる。
息がつまった。
「清水じゃん。なにしてんの」
無人の公園の入り口の前でぴったりとぶつかった彼は、数か月前までの私のクラスメイトだった。つまり、中学の同級生。
清水。もう一度名前を呼びかけられて、とっさに思い浮かんだのは小学校の昼休みの遊び。あっち側とこっち側から歩いて行って、ぶつかったらじゃんけん、負けたら道を譲る。
高橋――そう、高橋と清水だから私とこいつは出席番号が前後だった――高橋と、じゃんけんでもしようかな。私が勝ったらこのままどっかいってくれないかな。私を見た記憶はきれいさっぱり失くした状態で。
「清水ってば」
無理だろうな。
とりあえず、どちらからともなく白線から降りて、私たちは無人の公園のベンチに座った。ぴったり体をくっつけて座るほど仲良くはないから、自販機で買ったサイダーを二人の間に置いてみる。
「つまり、学校が嫌いなの?」
環状線から降りられなくなった話をすると、ぐちゃぐちゃと長い話をしていた私に高橋がそう端的に突き付けた。嫌いではないと思う。うまく説明できないけど。
「からっぽになっちゃった、って思ったら動けなくなった」
考え考え僧口にした私に、高橋はふーんとどうでもよさげにうなずいた。そうだ、こいつはそういうやつだった。
「高橋は?高橋も学校に馴染めないからサボってんの?」
そういうと、高橋は違うかな、と首を振った。
私は知らなかったけれど、ここは県内でもトップクラスの偏差値のある私立の男子校のある街だった。高橋は地元からここまで通ってきているらしい。馴染めないからサボってるのかと思えば、そうではないらしく、勉強も楽しい、友達もできた、部活もやりがいがあるとニコニコ話す。
「嫌味じゃないけど、中学の勉強は簡単すぎておもんなかった」
嫌味だろ、とは思わなかった。確かに高橋はいつでもつまらなさそうだった。日本の中学校は学習についていけない子供のサポートはするくせに、賢すぎる子供はほったらかしだ。とっくにできたプリントを見下ろして時間を持て余す高橋の姿は、妙に記憶に残っている。そうだ。あの時私は素直に可哀そうだなと思ったのだった。
「今日は寝坊して遅刻して」
「クズじゃん」
「もう間に合わないし、天気はいいし、楽しくなって遊んでた」
「ドクズじゃん……」
にこにこと笑う高橋はベンチで足を揺らしながら暢気に空を見上げている。そして買ったばかりのコーラを煽って、あ、と声をあげた。
ベンチの手すりに、飴色のセミの抜け殻がくっついていた。じゃわじゃわ、じゃかじゃか、蝉時雨。あのどこかひとつに、この抜け殻の持ち主がいる。その抜け殻を持ち上げて、高橋がポツリとつぶやいた。
「清水は自分は抜け殻だ、からっぽだっていうけど、俺、抜け殻ってすごく綺麗だと思うんだよね」
「え」
「ほら見てよ。一概にそうとはいえないけど、飴色でさ、透けて、きらきら光って、すごく綺麗」
高橋の細い指先がセミの抜け殻を光に透かす。それをぼんやり見てから、高橋はこっちを見た。
「今の清水は、こんなに綺麗じゃないよ」
ぽつり、落ちた言葉に思わず顔を抜け殻から高橋へと引き戻した。
「顔だって暗いし、痩せたし、頭の後ろ剥げてるし、制服似合ってないし」
「喧嘩売ってる?」
「清水は中1のころが一番かわいかった」
息がつまる。
「勉強勉強勉強、になってからの清水は、今の清水は、ちっとも可愛くない。でも、ずっと可愛くないわけじゃないと思う」
慰めたいのか、褒めたいのか、貶したいのか、言葉の意味が取れず混乱する。混乱の向こう側で、不意に涙がせりあがった。
「蝉の変身は長い時間がかかるし、その間の姿はあんまり綺麗じゃないんだけど、でも変身したばっかりの時はすごい綺麗。頑張った後の抜け殻も、こんなに綺麗」
「うん」
「蝉はさ、さなぎから成虫に変わる時、揺れるんだ。体を押し出そうとして。ゆらゆら、ゆらゆら」
セミの抜け殻を乗せた指先が、するりと公園の外の白線を指さす。その先が、滲む。
「さっき白線の上を歩いていた清水が、身体を揺らしてたみたいに」
だからまだ抜け殻なんかじゃないよ。まだ中にはいろいろ残ってるはずだよ、これから綺麗になっていくんだよ。
さなぎの殻を投げ捨てて、そうして綺麗な自分になった時、強い体を得た時に、脱ぎ捨てた抜け殻を見て、きっと綺麗だと思えるから。だから――だから。
「俺は、清水は大丈夫だと思うよ」
まだ抜け殻なんかじゃないよって声を合図に、涙が静かにセーラー服を濡らした。
高橋が駅まで送ってくれると言ったから、二人でもう一度あの薄くなった白線の上をたどって歩いた。中学三年生の時の席順みたいに最初は縦並びだったけど、私があんまりにも揺れるから、途中から横並びになって、いつのまにか高橋は私の手を取っていた。
ゆらゆら、揺れている。さなぎの私の手を取って揺らす。体が揺れていく。からっぽだと思っていた体に、いろんなものがとびこんでくる、ような。
「女子高の制服、あと三年あるんだけど、似合うようになるかな」
「なるんじゃない?知らんけど」
「私が脱皮失敗したらどうすんの」
「今俺が手を握ったら上手に歩けてるみたいに、誰かに手伝ってもらえば案街どうにでもなるもんだよ」
「そっか」
「そういうもんだよ」
「高橋は」
「ん?」
「高橋は、手伝ってくれる?」
少し背の伸びた同級生がこちらをすっと振り向いた。そして、ゆっくり息を吸って、口を、開いて。空が高い。
雲がただ、広がっていく。薄れた白線にそっくりな飛行機雲が、空に一筋ラインを引いて消えた。
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