第3話 ハッピーなエンドに会いたい(たぶん)



 これまでも、この先も、確実に自分では選ぶことのない映画を昨日から観ている。今度仕事で会う予定の人が、「この映画の素晴らしさについて語り合いたい」と言っているのを知り、では観なければとネトフリを漁ったらあっという間に見つかりそのままダウンロード。昨日帰りの電車で観始めたら、これがまったく面白くない。しかもというか、まさかのSF。『ウォールフラワー』とか『恋人と別れる50の方法』みたいな、ちょっと自分好みのタイトルがついているのに……SFデス、カ……。

 SFの「え」さえも興味がなく『スターウォーズ』も『E.T.』も観たことない。キアヌは好きだけど『マトリックス』も観ていない。それでも、イギリスが舞台であること。男子高校生。八〇年代後半ぐらいの音楽。主人公が好きになる女の子の着ている服が可愛い(メンズのジャケットを着こなしてたのが特に)等、惹かれるポイントがいくつかあることでなんとか目をつむることはせず。が、果たしてこれを観て私はその方と話ができるんだろーか。観終わる前に着いてしまった自宅最寄り駅の改札でピッとやりながら、思った。

 

 その続きを、今日の昼ご飯とともに観た。学校が始まり昼間子供達がいなくなると、自分のための昼ご飯は俄然適当なのだけど、今日は久しぶりに「美味しいかも」と思った。残念ながら「かも」どまりで、「美味しい」にはまだあと数メートル足りない。


 ご飯を作りながらiTunesのプレイリストを聴く。アップルヘヴィユーザーだし、「そんなアナタが普段から聴いている楽曲群をヒントに好きそうなもの、おすすめの曲を選んどきましたよ!」なプレイリストなのだから、とっくに解散したけどいまだに好きなバンドや何十年も前から知ってる曲など、「い~じゃ~ん♪♪」と思わずニヤける自分好みの曲ばかりが流れてくるに決まっている。決まっているけど、新しい発見とか未体験の驚異よりも、見慣れた店の看板みたいにおなじみの、自分的ド定番の、ヒットチャートには出てこなくても自分の心のベストテンに常にゴロゴロしているような音楽達は、なんてやさしく響くんだろう。新しくもない(どれも知ってる曲なので)旋律と声がくれる安心感の、なんとあたたかいこと。ちっとも宣伝できていないウェブ投稿小説やkindleを、日々数ページずつめくってくれている人がいることのありがたさにも近い、嬉しさ。


 新しいものを知ること。知識を得ること。経験を積むこと。できなかったことができるようになること。きっとどれも素晴らしい。素晴らしいけれど、疲れた身体と心にはその素晴らしさはそれほど魅力的に映らない。


 コロナ禍でSTAY HOMEと誰もが口にしていた頃、「今、この時(自粛中を指していると思われる)に何ができるかで、コロナが明けた後の未来の自分が違ってくる」みたいなスローガン的口上を何度も聞いた。悪くないと思う。でもしんどいな。三年ぐらい前に読んだインタビュー記事である人が、「一作品、一作品発表するごとに、必ずといっていいほど『変化』と『成長』を求められるんですよね。この国のエンタテインメントは」みたいなことを言っていたのを思い出す。


 STAY HOMEとはいってもポッカリ時間ができたわけでもない。子供達と過ごす時間は思った以上に楽しかったけど、通常運転の夫を除く全員が家にいて、耳の遠い義父母が大声で交わす会話が常に聞こえて、ひとりになる時間も場所もない日々は、ゆっくりと静かにストレスが溜まっていっていた気がする。そんな時に考えることって、したいことって、「成長すること」よりも「ひとりの時間をなんとか確保したい」だったり、そうしてできた時間に「何も考えずに好きなことをして過ごす」だったよ私は。コロナ後を見据えてその時のための準備に奔走したり、創作に没頭するもよろし。その隙間に何も生まない時間があってもよろし。世界が日常を取り戻しても、自分はこれから先もそれぐらいで生きていたい。華々しく活躍している人と比べて自分を卑下するのも、自分よりも結果を出せていないかもしれない人を見て優越感を覚えるのも、同じぐらいしょーもない。そういうことをし始めると、人も自分も嫌いになる。


 フライパンの中で昼ご飯ができあがる頃、エルヴィス・コステロの『SHE』が聴こえた。映画『ノッティングヒルの恋人』の主題歌になっていた『SHE』。この曲を自作に引用したことがある。兄弟間の姦淫と心の奥に広がる闇を扱った自作「いつかあのラブソングのように」の作中で、小学生の兄弟が二人で夜ご飯を食べながら観た映画が『ノッティングヒル~』で、兄を慕う弟はいつしか、その映画で流れる『SHE』で歌われていた「僕」から「君」への思いをなぞるように、兄への想いを募らせていく(「いつかあのラブソング~」はカクヨムでも読めますよ~!)。


 夢物語のようにハッピーな映画を汚すつもりはまったくなくて、百人が聴けば百人全員が真摯な愛の歌と受け止めるに違いないその曲を否定する気もない。ただその百人の中には、自作に登場する弟のように捉える人もいるかもしれない。それと、あれを書いた時期に自分が人間関係であるダメージを受けていて、それをなんとか跳ね返すために自分の中にある黒いものを吐き出さないではいられなかった。読んで下さった方、本当にありがとう。あれを読んで寄せて頂いた声や読んでくれた方を指す数字はとっても大きな励みになったし、私自身が救われました。

 

 食後のコーヒーも用意して映画の続きに取り掛かったら、「まったく面白くない」と思って観ていた映画の、最後の七分間に思いもよらないミラクルがあった。

 十分前、(えー、主人公とそのコがそうなるってことはさー、きっとラストはああなって、こうなるんでしょ)なんて、落としたご飯つぶを拾いながらつらつら思っていた矢先。予想だにしなかった展開に(え? え?)となっているところへ、奇跡のような瞬間が訪れた。まさか、こんなラストだったとは。


 十分前の自分は、早合点して勝手にラストを思い描いて、自分の思い描いた陳腐な終わりに近づいていっていることが苦々しく、(それってハッピーエンド?)と考えていた。自分がそう考えていること自体にも驚いた。私はハッピーエンドが見たかったのか? と。

 三月か、四月だったか、前から観たいと思っていたある映画をやっと観て、それは本当に本当に素晴らしい作品だった。だったのだけど、決してハッピーと言い切れない最後がものすごく哀しかった。もともと何でもかんでも他人と共有したいタイプの人間ではないけれど、その作品について誰かと語り合いたいとは思えなくて、この先もずっとそっと自分の裡にしまっておきたい。今も、思い出すと「うーん」と重たい気持ちになってしまう。事実に基づいた作品だったから余計にそうなるのか。客観的に観れていないからそう思うのか。現実から目をそらしちゃいけない。でも、自分が知る範囲だけでも、自分が生きている現実の世界は十分にしんどい。知らなきゃいけないこともあるけど、全部を知る必要がある? せめて物語の中では主人公はハッピーでいて欲しい。


『「……やがて王子様とお姫様は幸せに暮らしました」と明言するよりも、二人がどうなったのかは読む人が自由に、好きなように受け止めたらいいし、そうやっていろんな受け止め方ができるものを書きたい』。そんなふうに、いつか誰かに自分が言った言葉を思い出して、(中途半端にカッコつけたこと言ってんじゃねーよ)と恥ずかしくなった。

 何も起こらない日常が続いていくのも幸せだけど、避けて通りたいけど通れないことや、どうしても挑まなきゃいけないことをクリアした先に得られるハッピーもある。あの映画にはそのクリアした先にあったはずの幸福がある日突然哀しい形で失われてしまったけど、それを哀しいと思うなら、自分はせめて自分の作品に、最後に(……あぁ、よかった)と思える瞬間を用意することができたらと思う。


 映画一本観ただけでSFに興味は持てないけれど、最後の七分間、じんわりと「温かい」まではいかないまでもホッとできるエンディングが待っていたその映画に、「良かったですー(思ったより)」ぐらいの感想を言うことはできそう。主人公の彼女の着こなしも可愛かったし、音楽も良かったし、とか言ってるうちに「語り合えてる」のかもしれない。ブラボー、私。こんな夜は、どこかの星の片隅できれいな月を見上げて、美味しいコーヒーを頂きながら一日を終えたい。



(2020.07.12)


※2020.09.05追記

文中で言及している拙作「いつかあのラブソングのように」は、R作品のガイドラインからはみ出しているというような理由で公開停止になりました。すみません。こちらでお読みいただけず残念です。

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コロナ禍の日々のエッセイ boly @boly

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