第2話 やさしいおまじない
娘が三歳の時のこと。
小学校から帰るお兄ちゃんを待ちながらジュースを飲んでいた時、隣でコーヒーを飲む私に「それおいしい?」と聞いた。透明なコップに入った自分の飲みものとはまったく違う、真っ黒で湯気の立った液体を目をくるんとさせて覗き込む(私は一年中ホットのブラック無糖派)。
「コーヒーっていうの。おいしいよ」と答えると「ふーん」と言ったのち、びっくりするようなことを口にした。
「○○ちゃん(娘の名前)がおおきくなったら、いっしょにおいしいこーひーのもうね」
と。
その頃はお兄ちゃんと妹が、いかにして母である私の関心を引くか、振り向かせて話を聞いてもらうか、果てしない戦いを日々繰り広げていた頃で、子供たちはいつも会話の最初に「ねぇねぇ」「ママ、ママ」をくっつけ、私は左を向いたり右を向いたりしながら話を聞き、二人はとにかくしゃべり倒していた。よく息が切れないなと思うぐらいに。
なのにその時の娘は、戦うべき相手(兄)がいないからか、いつもより余裕のある口調で。そんなふうにしゃべること自体珍しかったし、のんびり屋の兄よりもハキハキした子ではあったけれど、まさかそんな気の利いたことを言い出すとは。息子が三歳の時はこんなことを言い出す気配は微塵もなかった。私はとにかくびっくりして、娘に「うん!」とも「ありがとう」とも言えず「あ、あぁ、そうだね!」程度のしょぼい返答しかできなかった。本当に驚いた。
最初に男の子を出産して、次に娘が生まれてしばらく経った頃、親しくしていた人が「女の子はお母さんの味方になってくれるよ」と言ってくれたことがあった。励ますようなニュアンスが含まれてもいたし、それ自体は嬉しかったけど、その時の私は自分より小さな子に「味方」になってもらうような局面に対峙することはできれば避けたいな。みたいなことを思っていた。だって、親は子供を守らなきゃ。自分がそうなれているかはともかく、本来は大人という生きものは全力で子(や小さき者)を護るべきなんだと、あえて「べき」で言いたい。我が子に限らず。
新型コロナウィルスによる自粛の影響で、いくつかの仕事がなくなった。そこに宛てるはずだった時間はぽっかり空いたけど、すぐに何かで埋まる。けれど、当然受け取れるはずだったギャランティはぽっかりゼロのまま。我が家の世帯主は同居している年金暮らしの義父で、夫の仕事はこの先もほぼ休みにはならない代わりに収入も変わらない。私の仕事で得られる金額はそれほど多くはないけれど、わずかでも有るのとゼロでは大きな違いがある。戦時中じゃあるまいし、欲しがりません勝つまではなんて精神性は一ミリも持ち合わせていないので、思い当たる一番身近な議員氏に連絡を取りそのあたりを丁寧に、事実だけを感情的にならずに伝え、補償や給付に関していくつかの質問をした。文字で残したほうが良いという話になりメールにして送った。仕事のメールも、地域や学校の集まりのメールやラインの文章も、どれも書くのにとても時間がかかる。午前中からメールの送受信を始めて確認のやりとりをし、気づけばもう夕飯の支度をする時刻が迫ってきている……なんていうことがよくある。
先日娘に、彼女が三歳の時に言った冒頭の名言を伝えたところ、メガネの奥で目を丸くして「そんなこと、言った?」とびっくりしていた。で、なんでそうなるのか、「ワタシもおっかぁが飲んでるコーヒー飲みたい!」と言うので、(だから、そこは「美味しいコーヒーを一緒に飲もうよ」じゃないんかい)と心の中でツッコミながらも、「牛乳と砂糖を入れて飲む?」と当たり前のように聞くと、ブスッとした顔で「何もいれないで飲めるもん!」。……「もん」って。その向かい側で聞いてもいないのに息子が「僕はやめとく。テスト中に作ってもらったら苦かったから」。そうだ。この厨二(実際は中三)男子はレトルトカレーを食べる時に甘口を選ぶ子だった。ちなみに娘は中辛。私は辛口にさらに真っ赤なペーストをトッピングする。
そんなやりとりをした翌日は久しぶりに子供たちが学校へ登校する日で、異様に長い春休みが終わり、たった一日、それも学校内に滞在したのはほんの数分だけれど、新しい学年になったことをやっと実感できたみたい。
連休明けに学校が再開するか定かではないし、朝昼晩と台所に立つ日が続くことにわりとうんざりしている。この先仕事はどうなるんだろうという気がかりはいつもだいたい頭の片隅にある。それでも、まだ小さな背中や小さな手をした娘がかけてくれる何気ないひとことに気持ちが軽くなったり、何もやりたくないぐらいに滅入っていた心を温めてもらったりしている。もしもうちに子がいなくて、夫婦+義理の両親という大人だけの世帯だとしたら。私の脆い精神力だったら、とうに崩壊していたかもしれない。今からすでに「大きくなっても結婚しない」と言っている娘は最近、「大人になったら、おっかぁと二人で旅行をして毎晩違う素敵なホテルに泊まる」という計画を立て始めた。
いいな。素敵なホテルで飲むコーヒーはきっと美味しいに違いない。
(2020.04.19)
★本稿を書いていた時は制限付きの給付が閣議決定した後でしたが、現在それが変わる見通しです。閣議決定が覆ることは異例でもあり、それもコロナの影響の一つと思いそのままにしています。
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