第3話


 

 こんな時、父さんの勘は鋭い。

 僕の目線の方を見て、すぐに何が起こったか分かったらしい。頑張れよ、とお節介なエールを残してそそくさと何処かへ行ってしまった。

 生まれて初めて父さんにキレたくなった。父さんが息子に対して、こんなノリでも話すことがあるのだと初めて知った。見当違いのことでニヤニヤ笑われて悔しくて仕方ないのに、ほんの少し嬉しかったのが癪に障った。

 彼女は百円均一の店で何に使うのかもよく分からない商品を興味深げに見ていて、その表情は学校で見せるものよりも柔らかい気がした。

 紺のミモレ丈の簡素なワンピースに、いつも通りの丁寧な三つ編み。シンプルな装いが彼女には異様によく似合っていてまじまじと見てしまう。

 何気なしに彼女がこちらを向いたので、慌てて隠れた。どうして隠れたのだろう。普通に話しかければいいじゃないか。離れた位置からこそこそ隠れて様子を伺うなんてまるでストーカーのすることだ。

 そんなの分かってるのに、分かってるはずなのに、隠れるのを止められない。

 そうこうしてる内に彼女は百均から移動した。彼女に気付かれないように僕も慌ててそれに付いていく────ってだからこれじゃあ本当にストーカーじゃないか!!

 

 

 

 *

 

 

 

 彼女はその後、また別の雑貨屋へ向かい、その次には菓子屋へ向かって、最終的に食料品売り場へと向かっていった。

 結局その間僕は彼女に話しかけれず、両手に大量の荷物を持つ彼女を後ろからおろおろと見守ることとなった。

 大荷物を抱えて顔色一つ変えない彼女。よくあの細腕であれだけの荷物を持ちながらずっと歩けるものだ。もしかして彼女は何かスポーツでもやっているのだろうか。普段の大人しそうな外見からは全く想像が出来ない。こういってはなんだけど体育の時間に隅で見学をしている姿の方がよっぽどか想像に易かった。

 

(お腹減ったな……)

 

 ふと時計を見れば十二時近くを指している。

 仕方ない、話しかけるのは諦めよう。僕が内心ホッとしながらその場を後にしようとしたその瞬間、父から電話がかかってきた。

 

「……なに、父さん」

『あー……なんだ?その声の感じだと……まだ、話しかけれてない感じか?』

「……そうだけど」

『そうか、そうか…………よし!分かった!!父さんに秘策がある!!』


 父は珍しく自信まんまんな調子でこう言った。

 

『食事に誘え!!』

「……はあ!?」

『もうすぐ昼時だろ?偶然通りかかった振りして一緒に食べるんだよ!!そしたら絶対仲良くなれるから!!』

「えー……」

『大丈夫!母さんも同じことを父さんにしてたから!!絶対に!!仲良くなれる!!頑張れよ!!上手くいったら、ついでにちょっと遊んでもいいぞ!!じゃあな!!』

 

 父さんはそれだけ言ってあっという間に電話を切ってしまった。

 

(………………なんだかなあ)

 

 父さんの勢いに振り回され、ちょっとは落ち着いてくれと思うのと同時に、それ以上に父が自由きままに僕に話しかけているというその事実が嬉しくて……複雑な気分だ。

 今日は何だか父さんの意外な面を沢山知った気がする。

 僕の中の父さんは、明るく振る舞ってはいるけれど、人に気を使って、息子の僕にですら言いたいこともいえない、繊細な人だった。

 だけど今日の父さんは、僕に無理を言うわダル絡みはするわ恋バナでテンションあげるわ……正直言ってちょっと面倒なくらいだ。

 僕が生まれる前、父さんと母さんが僕の両親ではなく、ただの愛し合う二人だった頃は、こんな面を父さんは母さんによく見せていたのだろうか。

 そう思うと死んだ母さんのことが羨ましくなった。きっとずっと僕は母さんのようにはなれないんだろう。父の心を救うことは出来ないんだろう。

 長い時間は父を癒し、例えなんてことはない僕の言葉でさえ父は笑ってくれるようになった。だけど、本当に辛かったとき、真に必要だったのは母の存在だったはずだ。

 ……どうしようもない話だ。

 きっと当人に話したら、そんなことはないと力説されるのだろうけど……なんだか少し空しい気分になった。

 

 

 

 *

 

 

 

 それにしても、普通に話しかけることすらできていないのに、食事に誘え、だなんて無茶がすぎる。父さんは絶対仲良くなれるなんて言ったけれど、ショッピングモールで突然食事を共にすることになって仲良くなったなんて話、藤恭にいた頃だって聞いたことがない。どう考えたっておかしい。

 そうこうしてる内に彼女がさっきよりももっと荷物を増やして食品売り場から出てきた。僕でも持てるか怪しいような量の荷物を持っているというのに、やはり表情は変わらない。

 いや、待てよ。荷物。……荷物。

 

(……そうだ!)

 

 彼女の持つ大量の荷物。

 これを上手く利用すれば彼女に話しかけるきっかけになるかもしれない。

 作戦はこうだ。

 偶然通りかかった振りをして、彼女に話す。そして言う。「随分大荷物だね。……運ぶの手伝おうか?」

 これなら突然食事に誘うよりも流れが自然だし、簡単にできそうだ。我ながら名案じゃないだろうか。僕は自分を誉めたくなった。

 あの様子じゃ、もうすぐに帰ってしまうかもしれない。

 僕は急いで彼女の方へと向かった。

 

 

 

 

 

「………………」

 

 結論から言おう。

 彼女に話しかけることは出来た。僕が荷物を持つことを提案すると、少し戸惑っている様子ではあったけれど、いつもより遠慮がちに「ありがとうございます」と言って持っていた荷物の半分を僕に渡した。

 そこまでは良かった。

 ここから徒歩で五分。彼女の家はどうやら街中にあるらしい。彼女は途中までで十分だと言ったけれど、そこはどうにか僕がごねて家まで運ぶということになった。

 彼女の家がどんな場所にあって、どんな家なのか、それが知りたいが故の正直無理がある蛮行だった。

 幸い彼女は僕が無理に家まで運ぶと言ったことについて大して追及しなかった。本当に良かったと思う。正直自分でもこうまでして彼女の家が知りたいのかと気持ち悪くなっていたから。

 問題はその後だった。

 五分。大体の人は短いと感じるのではないかというくらいの時間。僕にはその時間がとてつもなく長く感じた。

 会話が続かないのだ。

 彼女が何が好きでどういうことに興味があるのか分からないので何を言っていいのか分からないし、それならば彼女のことについて聞けばいいのではないかというと先ほどの家の場所が知りたいがあまりの蛮行が頭を過って罪悪感で喋れなくなる。

 

「…………」

「…………」

 

 そして彼女もまた話さない。いつもの無表情で、このなんとも言えない空気が流れる無言の状況、当たり前のように受け入れている。彼女から何か話す可能性はゼロに等しいだろう。

 このままじゃ本当にただ荷物を運んだだけになってしまう。

 彼女は話さない。だから、僕から話すしかない。

 

「……あの、さ」

「はい」

「……凄い荷物だけど……何買ったの?こんなに」

 

 勢い任せに出た質問だったが、これはなかなか無難で良い質問だったといえるだろう。

 直接彼女のことを聞いてるわけでもなく、尋常ではない荷物を持っている彼女に対してへの質問としてはこれ以上なく自然で適切な質問だ。

 それに、僕自身彼女が何を買ったのか気になっていた。遠くからでは何を買ったのかまでは確認できなかったのだ。

 

「ああ……これは」

「うん」

「……恥ずかしい話なんですけど、私、出不精で。月に一回こうやって大量に買って、そのあとは学校以外家を出ずに一ヶ月生活してるんです。……一人暮らしってそこら辺が大変なんですよね」

「ひ、一人暮らし!?中学生で!?」

 

 何気ない質問でとんでもないことを聞いてしまった。高校生、大学生で一人暮らしを始めるといった人は多く聞くけれど、中学生で一人暮らしを始めるなんて人はなかなかいない。少なくとも僕の知っている人ではいなかった。

 

(……ああでも)

 

 僕がもしも藤恭に残るという選択肢をしていたのなら、僕も彼女と同じように一人暮らしをしていたのかもしれない。

 僕が選ばなかった未来。その道に進んだ彼女を見て、改めて僕は父さんに付いてきて良かったと思った。

 きっと僕は一人では暮らせない。僕は彼女のように何事にも動じず、受け入れることなんて出来ない。そんな風に強くなることなんて出来ない。僕に出来ることなんて、せいぜい取り繕うだけ。ただそれだけだった。

 僕に出来ない選択をした彼女は僕よりずっと大人に見えた。いつか彼女のようになれるだろうか。なれそうにない。そう思った。

 

「……巫士見さん?」

「ああ、うん、ちょっとぼぉっとしてた……えっと、なんだっけ」

「……もしかして、私が一人暮らししてる理由が、気になりますか?」

「え、ああ、うん」

 

 そういう訳ではなかったけれど、言われてみれば確かに気になる。中学生で一人暮らしなんて意味なくすることじゃない。それこそ、僕のように片親で、親が転勤するなんて事態でもなければ。

 彼女にも、そんな複雑な事情があるのだろうか。

 無表情の彼女の顔はいつもよりどこか切なげだった。確かに気になってはいたけれど、彼女に悲しい思いをさせてまでは聞きたくない。

 話したくなければ話さなくてもいい。僕はそう言ったけれど、彼女は首を横に振って、ぽつぽつと話し始めた。

 

「私の両親凄く遠くに住んでるんです。……簡単に会えないくらい遠くに」

「……うん」

「……私も出来れば両親と一緒にいたかったんですけど、そうもいかないみたいで。他の家族とか知り合いも住んでいないので、誰かの家でお世話になるわけにもいかないし……それに、私、仏頂面でしょう?私みたいなのと暮らすなんて、きっと、皆不快に決まってます。だから一人で暮らそう、って決めたんです」

「……そんな」

 

 泣きそうな声だった。彼女のこんな声、初めて聞いた。彼女からこんな声が発せられるなんて想像したこともなかった。

 何が"強い"だ。彼女だって僕と同年代の女の子なんだ。寂しいに決まっている。悲しいに決まっている。それを表向きの様子だけ見て、自分とは違うだなんて判断するなんて…………僕は馬鹿だ。大馬鹿者だ。

 

「……変な話、しちゃいましたね。こんな話、するつもりなかったのに……」

 

 彼女の声は震えている。ぼろぼろと彼女の瞳から大粒の涙が零れる。その涙が彼女の頬を伝って顎の辺りで合流し一つの小さな滝を作っている。身体の中から水がなくなってしまうんじゃないかというくらいの涙を流す僕は言葉を失う。

 どうすればいいんだろう。泣いている女の子に、僕は一体何が出来るんだろう。

 

「……わた、し……ふしみさんに、しんきんかん、わいてたんです……ふしみさん、は、わたしと、おなじ……ふんいきが、あったから……」

「…………!」

「……きょう、あえたときも、だから……うれしくて。ありがと、ございます。……こんな、わたしだけど、なかよくしてくれると、うれしいです」

 

 彼女は泣きながら、微笑んでそう言った。中学生らしくない大人びた笑みだった。彼女にこんな風に笑わせる世界を憎らしく思った。僕と父から母を奪った世界。理不尽が憎くて、憎くて、たまらない。

 僕が彼女を好ましく思っていたとき、彼女もまた僕を好ましく思っていてくれた。その事実が嬉しくて仕方がないのに、今、彼女に何も出来ない自分が悔しくて、悔しくて、その嬉しさを塗り潰す。

 

「……勿論。僕も今日望月さんに会えて凄く嬉しかった。望月さんといると、なんだか、僕は安心できるんだ。……不快なんかじゃない。少なくとも僕はそうだ」

 

 せめて、僕の正直な彼女への好意を伝えよう。優しい彼女は他人に気を使いすぎて、自分への評価があまりにも低すぎるから。僕の手にあり余るこの好意を彼女へと伝えよう。彼女が自分を嫌いにならないように。好きになれますように。

 僕の言葉を聞いて、彼女は笑った。お世辞でも嬉しいです、そう言って笑った。顔を涙でぐしゃぐしゃに濡らしたまんま、笑った。


「じゃあ……また学校で」

 

 いつか本当に彼女を笑顔に出来る日が来るだろうか。泣きながらなんかじゃない。本当の笑顔を。彼女に与えることができるだろうか。

 ……出来なくても、やるしかない。彼女にあんな顔をさせたままじゃ、僕が僕を許せない。

 車道越しにある家へと向かって横断歩道を渡っていく彼女を見つめながら、僕は父さんの言った"運命"という言葉を思い出していた。もしもこれが運命なら。彼女と僕が出会ったのが必然だったというのなら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それなら、ぼく、が、できること、は

 

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 *

 

 

 けたたましい音を立てながら大型トラックが三つ編みの少女の元へと向かっていく。運転手は意識がないらしく、スピードが緩まることはない。真っ直ぐに、まるで隕石のような勢いで、彼女を殺しに向かっていく。

 それを見ていた少年は、ほぼ無意識に走っていた。

 これが運命?

 彼女が死ぬことが運命?

 そんなの嫌だ。絶対に。絶対に!!!!

 自分でも驚くくらいのスピードで彼女の元へと走っていき──彼女を突き飛ばす。

 少年の必死の凶行は"彼女へと大型トラックがぶつかる"という無惨な運命をねじ曲げた。

 ねじ曲げた、だけだった。

 ミリ単位でズレた運命は緩やかにカーブをしながら、彼へと向かっていく。少年がトラックを避けることはできない。彼にはもう彼の運命をねじ曲げるだけの、スピードも、力も、時間も、何も残ってはいなかった。

 直感的に「ああ、死ぬんだな。自分は」少年はそう悟った。

 恐怖はなかった。怯える暇もないくらいすぐに死が彼に向かっていた。

 

 

 

 父さん、一人にしてごめん。

 

 

 

 そんな言葉が頭に浮かんできて、声にならずに、泡沫に溶けて、消えていった。

 

 

 

 

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溶解セレナード 夢埜ハイジ @yume_yumerati

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