〇〇〇、△△△、▽。
江東浪漫
第0話
目がさめると、何かがおかしい事に気がついた。見慣れた天井は自分の部屋である事に疑いの余地は無いし、特段体に不調が起きたわけでも無い。ただ、言葉を認識できなくなっていた。
枕元にある、腰の高さに合わせた本棚には、小学生の頃から集めた漫画や、一度か二度開いたきりの参考書などが収められている。だが、どうしても背表紙に書かれているタイトルが読めないのだ。
正確に言うと、読めないのではなく、認識することができない。全ての文字は見たことのない、文字とも、記号ともつかない、見ているだけで不安になる形をしている。その上、その文字の様なモノを凝視続けることができない。ソレを見ていると体の内側から崩れ落ちそうな、なんとも言えない不安体な感情が溢れ出しそうになり、意識を保つことができないのだ。
何が起きているんだ?まだ夢を見ているのか?
夢の中にいるような、あの温い感覚はない。
兎に角、服を着替えた。言葉以外、特段妙な事は無い。寝ぼけているだけの可能性もある。外に出る準備をした。
テレビは無い。貧乏大学生にはそのような高価なものは無かった。六畳一間の部屋には、小さな冷蔵庫、先輩から譲り受けた汚いちゃぶ台、実家から一緒にやってきた本棚と、懐中電灯の機能がついたラジオしか無い。
三八パーセントの残量が残ったスマートフォンを机から取り上げたが、真っ直ぐにパーカーのポケットに放り込み、あえて見ようとはしなかった。視界の端に映った画面には、見たことのないソレらが浮かび上がり、先程感じた奇妙な、そして堪え難い感覚を思い出したからだ。そして、ソレらが浮かび上がった場所には、今日の日付が映し出されるはずだった。
三年近く住んだ下町は、馴染みの街並みを残したまま、知らない世界になっていた。世界から文字だけが変容してしまったかの様に、景色のあちこちに潜む看板や、コンビニ、本屋など、文字という文字がソレになっているのだ。
突然、吐き気に襲われ、電柱に片手をつき立ちすくんだ。全く意味がわからない。
あ、あ、と声を漏らしてみる。自分の口から発する音は、頭の中にある言葉と同じだ。それだけは、それだけが今この瞬間昨晩眠りに落ちるまでの自分の存在を肯定してくれた。
トン、と数回。肩をたたかれる。日中の街中でいきなりえずいていれば無理もないだろう。振り返ると、馴染みのラーメン屋の奥さんだった。少なくとも、言葉以外は。
「◯◯◯、◯◯◯◯◯◯?」
立ちくらみで聞き取れなかったのかもしれない。そんな淡い希望は、繰り返し話しかけられるその音で打ち砕かれた。
「◯◯◯◯◯? ◯◯◯?」
心配そうな表情だ。素直に馴染みの大学生を心配してくれている顔だ。
「い、いや、すみません・・・。大丈夫です」
「◯◯・・・」
自分の口から出たその言葉に、馴染みのお店の奥様は絶句した様な、気味の悪いものを見るような、表情を浮かべた。
その時、ようやく鮮明に理解した。今この瞬間、自分だけが世界から弾き出された事に。
本当の本能的な恐怖を感じたことがあるだろうか?
一切の光の無い暗闇。閉鎖的な空間に永遠に閉じ込められる。大海原のど真ん中に置き去りにされる、などだ。
理由もわからないまま、世界から弾き出された。昨日まで当たり前のように話していた言葉は自分だけのものになり、見ることも、聞くとことも許されない、ソレらに全てすり替わっているのだ。
1か月が経った。
初めは何とか打開策を見つけようとバイト先や大学に顔を出したり、ソレらに規則性を見つけようとしてみたが、やはりこみ上げる不安感・気持ち悪さに耐えられず、見続けることや、声を聴き続けることができなかった。
気づけば1週間近く布団に潜りこみ、水道水の摂取と、排せつ以外では動くこともできなかった。
重い腰を上げて棚を開けると、ついに買いだめていた口にすることができるものは全て底をついていた。
まずいな・・・。
何度も自ら命を絶つことも考えたが、そんな勇気は持ち合わせていなかった。仕方なく身なりを整え外に出ると、久しぶりの日光に思わず目が焼けつくような感覚を覚えた。
この1か月、少しだけ良い兆しもあった。お金は、表面に記載されているソレを判別することはできないが、価値はあるようで、自動販売機に入れれば水を買うこともできた。よって、適当なコンビニで品物をレジに出せば、食べ物を手に入れることができることも容易に想像ができた。あくまでも、自分だけがかつて文字だったものの認識、そして口から発する音声の認識が一切できないだけで、世界は今まで通り動いているのだ。
なんの解決策も思いつかないが、命を絶つ勇気も、外で過ごす気概も無い。再度、向こう1か月持つくらいの、保存の効きそうな食材をカゴに詰め込んだ。とはいえ、部屋にあるお金ももう微々たるもの、実家に連絡する術もなく、先行きは真っ暗だ。
「○○○○○○○、○○○○。」
店員が何やら音を発している。どうしようもない不安に勝てず、目を背けながらレジが終わるのを待つ。
「○○○○?」
金額は分からない。とりあえず、お札を何枚かと、硬貨を数枚置く。
「○○! ○○○○!?」
店員がなにやら焦ったように音を出すが、イントネーションの感覚では、おそらく金額が不足している様子ではない。多いのだろう。
「っ・・・」
逃げるようにコンビニを小走りで後にした。
そのまま帰路につくと、後ろから追いかけてくる足音がした。
まずい、足りなかったか?
とはいえ、立ち止まって話を聞くこともできない、落ちた体力でできる限り走った。足音はなおも追いかけてくる。捕まるわけにはいかない。
「ー!!」
後ろで声がするが、部屋までもう少しだ。1か月先の命を保証する食べ物を抱きしめ、走った。
くそ。どこまで追いかけてくる気だ。角を曲がる際、路上のミラーで追手との距離を確認した。そこに映っていたのは、店員ではなかった。もちろん、警察でもなかった。
彼女は、黒花すずと名乗った。中学三年というには幼い顔つきながら、背は低くなく、強気な目つきをしていた。昔、自分のクラスにいればかわいいと思うようなその娘に、特段かわいさを感じている余裕はなかった。そのような些細なことよりも、馴染みのある言葉を発し、コミュニケーションが取れることに感動していた。
「ちょっと、聞いてるんですか!?」
虚ろな目でじろじろと体を見る男に引き気味の顔で、すずは問い詰めた。
「ご、ごめん。同じ言葉を話せることがこんなにすごいことなんだって、シンプルに感動してしまって・・・。」
「え? なんて言いました?」
ベンチの隣に座る女子中学生にきつめに聞き返される。久しぶりに発した言葉は音量もそうだが、いつの間にか自分で使うにも違和感があるのだった。
「いい、いや、なんでもない。それで、すず・・・ちゃんは今日突然言葉が分からなくなったのか」
「すず、ちゃん? こんな年上の人にちゃん呼ばわりされると気持ち悪いです。すず、でいいです」
「・・・はい」
すずは、眉を吊り上げて続けた。
「朝目が覚めたらいきなりお母さん、お父さんの言葉も、文字もわからなくなって。というか、わからない・・・というよりもわかろうと、聞こうと、見ようとする度どうしても体が受け付けなくて・・・。」
すずは、制服のポケットからスマートフォンを取り出すと、画面を恐る恐る薄めで見た後に、諦めたようにポケットに戻した。
「夢じゃないかと歩き回ってたら、レジで不審者・・・じゃなくて、不審な動きをする、私と同じ言葉をつぶやいているお兄さんを見つけたんです」
言い直した意味ないだろ。
とにかく、自分以外にも同じ状況になっている人がいることに安堵感を覚えた。
同じ症状の人がいるってことは、解決策があるはずだ。
「すずちゃ・・・、すず、残念ながら俺にも心当たりがまったくと言っていいほど無い。恥ずかしい話、1か月もこの状況から逃げるために引きこもってたくらいだ」
言い終わるかどうかのタイミングで、すずは口をはさんだ。
「1か月もなにもせずに? 頼りにならない人ですね・・・。はあ」
「あからさまに萎えるなよ・・・。とにかく、俺にもどうすればいいか皆目見当もつかん」
「うーん・・・、とりあえずへ部屋に行きましょうよ」
「ななな、え? なんだって?」
「こんなところで話してても仕方ないでしょう。一人暮らしなんですよね? 部屋に行きましょう。あ、ただし変なことしないでくださいね、絶対。私、未成年」
強気な目つきで見つめられたまま、言いたいことだけ言い捨てられた。
なんてこった・・・。去年新歓でつぶれた女の子を送らせられたときに立ち寄って以来の女の子だ・・・。あれを気持ち悪がられてサークルに行き辛くなったんだよな・・・。
とにかく、二人は一度部屋で今後の動きを検討することにしたのだった。
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「お兄さんが1か月かけて戻らないってことは・・・、本当に言葉がわからないままの可能性があるってことですか・・・」
すずは、ようやく異質な状況の本当の恐怖を感じたようだった。
「怖い・・・」
「だだ、大丈夫だよ。俺もどうすればいいかわからなくなってたけど、すず・・・も現れて、同じ状況が自分だけじゃないってわかったから」
とはいえ、ソレらを受け入れることができず、テレビやラジオなど、情報を収集する術がない。この1か月で分かったことは、今まで使用していた言葉だけがソレになり、その他は何の変哲もない今まで通りの世界であるということだ。
「しかしなんでまた、すずと俺だけが今まで通りの言葉を話せるんだろう・・・」
すずは、いつの間にか隣に座っていた。どれだけ強がっても中学生は中学生。大学生でも気持ちを保つことができない現象に、恐れないはずがない。
「怖い・・・」
「ひとりよりはましだよ。俺は、すずが現れてくれてよかった」
中学生に対して脈打つ心臓がばれないように、なるべく平静を装って声をかけた。いつしか、すずは服の裾をつかんでいた。30分前の強気な子はどこへいったのか、と久しぶりに自然と笑みがこぼれる。
「なにが可笑しんですか。通報しますよ」
「いや、ごめんっ。久しぶりに人と話せたのが楽しくてさっ・・・」
いったいどこへ通報するのやら。
「で、お兄さん・・・」
「どうした?」
「その、なんというか、とても怖い想像なんですが・・・」
すずから香る制汗剤の匂いで、自分の匂いや清潔感について意識するのだった。言葉と同じく、相手がいなければ次第に当たり前の事が崩れていくのだ。
「怖い想像? って、なんだ?」
「私だけ・・・、ううん、私たち二人だけが、おかしくなってしまったって可能性は無いでしょうか?」
「うーん、それは俺も最初考えたけど・・・、堂々巡りというか、俺が言葉だけおかしくなってしまったのか、俺以外すべてがおかしくなってしまったのか、それはどっちの立場に立つか次第だけなのかなって」
「?」
すずがきょとんと見上げる。
「と、とにかく、偶然にも自分と同じ言葉で会話ができるやつがいて本当によかった」
「私も・・・です」
それだけで、これまでの1か月が嘘のように、生きていける気がした。
「お母さん、お父さんにどう伝えればいいのかわからないけど、今のまま家でどうすればいいのかもわからないし・・・、その、しばらくここにいてもいいですか?」
「!? ここにって、おお、俺の部屋に一緒にってこと??」
「他にどういう意味があるんですか!」
強気な目で睨まれる。
「お兄さんしか味方がいないからと言って、変なことはしないで下さいよ!」
「あああああ、当たりまえだろっ、俺は大学生だぞ!」
急な女子中学生との同棲ライフの訪れに、口で何と言おうと卑猥な想像が頭を駆け巡った。
「それにしては怪しい顔してますが・・・。とりあえず、家に一度帰って着替えや、当分の食糧を持ってきます」
「送っていこうか?」
「大丈夫です。その代り、部屋を少しはきれいにしておいてください」
すずは、六畳一間の部屋に散乱した、脱ぎ捨てられた下着やアダルト雑誌を指差した。
「どわっ! ごめんなさい・・・」
「暗くなる前に行ってきます」
すずは、そう言い残して部屋から出ていく。
静まり返った部屋の中で、心の奥のほうから、温かい安心感と、昂揚感、この1か月失っていた人間的な、そして男性的な明るい感情が湧き上がるのを感じた。
これから、いつまで続くかわからない闇の中ではあるが、少し目つきと口が厳しいとはいえ、女子中学生の、美少女と同棲生活が始まるのだ。それも、お互い頼れるのは二人だけの。
なんてこった。そう考えると、この状況も悪くない気がしてきた・・・!
言葉は不思議である。
先の見えない状況にあっても、「大丈夫」と口にするだけで心が落ち着く。それも、自分に対してではなく、誰かに対して発することが、どれだけの意味があるか。
言葉とは、人の発する音声のまとまりであり、かつ世界、社会に認められている意味をもったもの、だ。誰かに認められ、お互いが相互にキャッチボールができるものを言葉という。そういう意味では、「言葉をきちんと使いなさい」「正しい言葉を使いなさい」などという注意をどこの国でも聞くものだが、そのようなことは一切意味のない指摘だ。誰かに認められ、意味を通じ合える、コミュニケーションのとれる言葉であれば、ソレは確かに言葉なのだ。
お互いが理解しあえる言葉が存在してこそ、「言葉をきちんと使う」「定義をしっかりと定めて言葉を表現する」ことができるのだ。
そういった意味で言うと、生き物はみな同じ言葉を使用しているのかもしれない。国の違いがあれど、お互いが意味を当てはめる言葉が存在する。猫や、イルカの言葉でさえ、ある意味では理解しているようなフリをすることができる。
一切の認識ができなくなったとき、言葉という世界から拒絶され、ソレを受け入れることができずに取り残されていく。
アダルト本を片付けながら、昔もらった本に書かれた難しい文章を読みながら、すずの存在の大きさを感じるのだった。
「たかが中学生と侮ることなかれ。誰ともコミュニケーションのとれない恐怖は大変なことだったしな・・・。」
この1か月を振り返り、ぞっとするような日々を思い出した。いつの間にか、独り言を呟けるまでに回復している自分に、少しおかしくなった。
「言葉も、文字も認識できず、コミュニケーションが一切取れないだけで、今まで顔なじみだったみんなが同じ生物とは思えなくなったもんなぁ。・・・すずも、本当は怖くて怖くて仕方ないだろうな」
年長者の威厳と懐の広さを見せるしかない、と意気込み、体の匂いを嗅いだ。ツンとした汗臭い匂いを感じるのも、1か月ぶりだった。
「しかし、この状況であれば大学生と中学生の同棲も成り立つんだもんなぁ・・・。いや、正確にはダメなのかもしれないけど・・・。」
それでもお互いしか味方がいない状況だ。言い訳ができることで急にすずの顔を思い出し、自然と頬が緩んだ。
部屋を片付け、狭いシャワールームの掃除を行い、ベッドに腰掛け、暮れていく外の景色を見ながら、これからの事に思いを馳せた。
世界に自分一人だけでない。それがどれだけ素晴らしいことかを身に染みて感じるとともに、すずのような存在が中年のおじさんなどでなくてよかった、などとさっそく贅沢な気持ちも湧き上がってきた。
カン、カン、と、階段を軽やかに駆け上がる音がする。ピントのずれたチャイムが鳴り、すずが部屋に戻ったことを告げた。
これから始まるのはひどく辛い、地獄のような人生なのか、はたまた自分の人生で今まで感じることのできなかった美少女との天国のような人生なのか。今日の朝までの自分が嘘のように生気の戻った顔で、扉を開けた。
すずの、少々きつめだが、吸い込まれるような瞳がそこにはあるのだ。
「お、おかえり。部屋は、片付けておいたからな」
すずを通そうと体を避けると、すずはきょとんとした顔で呟いた。
「△△△△△、△△△△△△△△△△△ ?」
〇〇〇、△△△、▽。 江東浪漫 @pikachi4869
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