#16 お姉ちゃん
女子寮の一室。退出していった3人を見送ると、さゆりとやよいは2人きりになった。部屋の扉を閉める音が、やけに長く響いた。
寮生の多くが部活動で留守にしているため、この時間はとても静かだった。嗚咽だけが部屋を満たして、2人を抱くように包み込んでいる。
「サ、ユーリ。さ、ゆっ……!」
見た目とは裏腹に、人一倍プライドの高いやよい。彼女にとって、他人に泣き顔を見せることは耐えられなかった。そして、そのことはさゆりもよくわかっている。やよいを心配してついてきてくれた3人をあえて遠ざけたのはそのためだ。
「……ほら、今は両隣もお留守だし、3人にもちょっと外に出てもらったし。……おいで、やよい」
さゆりは自分のベッドに腰かけると、両手を開いてその名を呼ぶ。少しためらいを見せたやよいだが、やがて目に珠のような涙を浮かべて駆け寄った。
「さー…………さ、さゆり、……お姉ちゃんっ……!!」
「よしよし。……あはは、鼻水すごいね」
一見するとそう違和感のない光景ではあるが、やよいはさゆりよりも1つ年上、立派な先輩である。
「……なんか、久しぶりだなあ。って、あたしが寮に入るって言ったときも半泣きだったっけ」
やよいと『さゆりお姉ちゃん』が出会ったのは、3年前のことである。さゆりは晴れて中学生となり、初めての夏休みを迎えていた。そんなとき、「近所に突然巨大な豪邸が建った」という噂が流れたのだった。
若干の好奇心から見物に行ったさゆりの目の前には、確かに立派な豪邸があった。さゆりが住んでいたのは都心からかなり離れた郊外にあるため、その建物はあまりに異質だった。
海外のホームドラマでしか見たことのない、小城のような家……さゆりのようなアパート暮らしの庶民には、結局、縁のない話だ。
夏休みも終わりが近づいた、ある日の夕方のことだった。さゆりは当時仲の良かった友達の家で遊んだ帰り、たまたま近所の公園に立ち寄った。
2つ並んだベンチの左側のほうに座り、持っていた缶ジュースを飲み干す。右手側のベンチには小学生くらいの女の子が座っていた。はじめは意に介していなかったが、
『……ぐすっ』
口の端から少しこぼれた果汁を啜る音に交じって、微かに少女の泣き声が聞こえた。
相手が子供とはいえ、初対面の相手には基本的に話しかけられない内気なさゆり。しかしよく見れば見るほど、その女の子は深刻な顔をして泣いているように思えてしまう。
気がつくと、さゆりは立ち上がっていた。
『……どうしたの? お姉ちゃんに話してごらん』
女の子は一瞬、びくっと震えたが、すぐに服の裾で涙をぬぐい、睨むような視線をさゆりに向けた。間もなく、細めた目じりから再び涙がこぼれると、女の子は悔しそうにうつむいてしまった。
『迷子かな? 一人でおうちに帰れる?』
さゆりができるだけ、優しい声色でそういうと、女の子は勢いよく顔を上げ、今度は涙をぬぐうことも忘れて、また鋭い目でさゆりを睨んだ。
『帰らない!』
なにか事情がある――さゆりはそう確信した。帰らない、と宣言したその目には、はじめに睨まれた時とは違う重みを感じたのだ。
『家出かあ……。じゃあ、お姉ちゃんの家に行こう。おうちに帰りたくないんだよね。そんな家、二度と帰らなくていいよ!』
家出をくわだてた子供への言い聞かせにしてはずいぶんと間違っているようだが、その言葉は彼女に響いたらしかった。つりあがった目は次第にゆるみ、目の前の『お姉ちゃん』をぽかんとした顔で見ていた。
見ず知らずの女の子を連れて帰宅した娘を見て、さゆりの母は少し驚いていたが、彼女は無類の子供好きであった。未だ警戒を解かない女の子をソファに座らせると、さゆりも見たことのないお菓子をどこからともなく取り出してテーブルに並べ始めた。
『あら、チーズおかきから食べるのね。……じゃあ、お茶もいれてあげないと。うふふ』
さゆりは、普段より半オクターブは上がった母親の声のトーンに終始苦笑していたが、女の子はその雰囲気に絆されたのか、徐々に表情を明るくしていった。
女の子は「やよい」と名乗った。さゆりもすっかり仲良くなり、「さゆりお姉ちゃん」と呼ばれるようになった。
しかし、日が沈み暗くなるにつれ、やよいの表情もつられるように暗くなった。そして日が完全に落ちたころ、彼女は寂しげな顔で「帰る」と言い出した。
『えっ、一人で帰れるの? 送っていってあげるのに』
さゆりの母の言葉も聞かず、淡々と靴ひもを結んで出て行ってしまったやよい。さゆりが最後に見た横顔は、公園のベンチで泣いていたときと同じものだった。
「――まさか、年上だったとはね」
不規則に肩を震わせて、さゆりの胸で泣き続けるやよい。
あれから程なくして迎えた二学期、学校は「小学生が転校してきた」という奇妙な話題で持ちきりとなった。まさかの再会に驚いたのは、もちろんさゆりだけではない。
「やっ、めてよ、……その、はなし」
半日だけとはいえ、お姉ちゃんと呼び慕っていたのが一つ年下だと知ったやよいのショックは、さゆりの受けたそれの比ではなかっただろう。
それでも、彼女はさゆりを「お姉ちゃん」と呼び続けた。
これはさゆりの提案だった。
語学研究部活動日誌 保津みづほ @midz_night
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