ゾウ島に行きたくて
七折ナオト
ゾウ島に行きたくて
6年生のアキラくんがゾウ
4年生の夏休みが終わった始業式の日、チャイムギリギリに教室に入った僕に、駆け寄ってきたよっちゃんがそう言った。
「え…。アキラくんが?」
全く予期していなかった言葉を投げつけられて、頭の中が真っ白になる。
「うん」
よっちゃんは周りの様子を確認してから、まっすぐに僕の目を見て大きく頷いた。
「そんな訳ないよ、だって…」
そう言いかけて、僕はランドセルをその場に放り投げて6年生の教室へと走った。とにかくアキラくんに会って本当のことを聞きたかった。
「涼ちゃん、待って」
よっちゃんの声が背後でむなしく響く。
全速力で駆け込んだ6年生の教室は空っぽで誰もいなかった。始業式の準備ですでに体育館に移動しているらしい。息が切れて喉がカラカラだった。近くの水道で一口水を飲み、体育館へと急いだ。
「アキラくん、今日来てなかったね」
始業式が終わり教室に向かう途中、よっちゃんが心配そうに顔を覗き込んできたが、振り向かずに黙って歩いた。自分のことで精一杯だった。朝から頭の中がぐちゃぐちゃで、どうすればいいのかわからない。
「よっちゃん、このままゾウ海岸に行こう」
教室に入る直前、僕が意を決して言うと、まるでそう言うと知っていたみたいに、すぐに「うん」と声が聞こえた。
教室のドアの前には、朝放り投げたランドセルがそのままに横たわっていた。
『ゾウ島まで泳いで行く』
これがこの辺りの小学生みんなの憧れだった。海岸から見ると横を向いたゾウに見えるこの島の本当の名前は誰も知らない。
誰が始めたのか、昔から小学生の間で脈々と受け継がれてきたこの挑戦は、もはや伝統と言ってもよく、「今年は誰々がゾウ島まで行った」というのは子どもだけでなく、大人からも関心を浴びていたし、ある種この町の風物詩でもあった。
こんな片田舎の町では海で泳ぐ意外に遊びがなく、みんながこれに熱中した。
が、去年の夏、事件は起きてしまった。
予報を大きく外れて曲がってきた台風の影響で、普段は穏やかな海が荒れて、小学5年生の子が流されたのだ。
それ以降、ゾウ海岸への道は封鎖されていたし、この夏はゾウ島の話題はタブーのようになっていた。
だからこそアキラくんがゾウ島に行ったとは思えなかったし、行ってないと信じたかった。
この町には二つの海岸がある。夏になると観光客も来る
南浜の端まで行くと小さな崖があり、そこに掛かった木製のハシゴを登ると、やっと一人通れる位の獣道の入り口がある。抜け道と呼ばれるその道に沿って小山を超えるとゾウ海岸へと行き着く。
特に看板がある訳ではないし、抜け道も30分は歩かなくてはいけないため、偶然行き着くことはまずないし、地元の人でもゾウ海岸まで行く人はほとんどいない。
でもだからこそ地元の子どもにとっては格好の遊び場だった。抜け道の途中には、秘密基地を作った後がいくつも残っている。
「どうするの。やっぱりハシゴなくなってるからゾウ海岸には行けないよ」
南浜の崖に着いて、よっちゃんが口を開いた。
「よっちゃん、あっち。あっちの岩を登ろう。あれさえ越えられれば、抜け道に繋がるから」
何層もの巨岩が重なってできた崖にはどうにか登れそうな箇所はある。僕は封鎖されてからも、一度だけここに来たことがあった。
岩の上から手を伸ばし、よっちゃんの短い手を引っ張り上げる。よっちゃんはあまり運動神経がよくない。
岩を登った先には飛び降りなきゃいけない場所があり、そこでよっちゃんは相当に
背丈ほどに伸びた雑木林を掻き分けながら少し進めば、すぐに抜け道へと出る。ここからは小さい時から何度も通った道だ。もちろんよっちゃんとも何回も来ている。それに僕とよっちゃんとアキラくんと
ゾウ海岸まで出ると誰も入れないはずのそこには人影があった。
——アキラくんだ。
何となく、アキラくんがいる気はしていた。でも本当にいたことには驚いたし、戸惑いもした。
「涼太…。よっちゃんも一緒か」
先に声を発したのはアキラくんだった。久しぶりに会ったアキラくんの声は低くなっていて、別人のようにも思えた。
待ち望んでいたアキラくんが目の前にいる。でもいざ目の前にしたら何を言えばいいのかわからなくなって、その場に立ちすくむことしかできなかった。
しばらくの間、三人はゾウ島を眺めていた。海は深く澄んでいて、静かに
「ねぇ、アキラくん…。本当にゾウ島に行ったの?」
頭の中で何度も再生した言葉を、やっとの想いで口にした。これを確かめないことには何も始まらない。
でもアキラくんは黙りこくっている。
「ねぇ、何とか言ってよ!」
つい強い口調になってしまった。また長い沈黙になる。
「行ったよ」
アキラくんは観念したように小さく頷いた。こっちを見ることなく。
「なんで…」
怒りのようなものが湧き上がってきて、感情のコントロールが効かなくなった。いや、あの日からずっと制御なんかできていないのかもしれない。
「なんでそんなことするんだよ。ゾウ島に行ったら隆太が喜ぶとでも思ったのかよ。ふざけないでよ。せっかく忘れようとしてるのに。アキラくんだってそうじゃないのかよ」
想いが溢れて止まらなくなった。裏切られた気がして、傷つけたくなった。これが八つ当たりなのもわかっていた。一番悪いのは自分なのだから。でも言葉を止めると今にも泣き出してしまいそうで、責め続けるしかなかった。
去年ゾウ島へ向かう途中に流された隆太は僕のたった一人のお兄ちゃんだ。
僕たち兄弟はゾウ島に心底憧れて育った。
「俺は絶対にゾウ島へ行く」
これが隆太の口ぐせだった。同級生のアキラくんといつも競うように海で泳いでいて、どっちが先にゾウ島に行けるかという話をいつも楽しそうにしていた。
僕はそんな二人に憧れていたし、二人と一緒に泳ぐのが何よりも好きだった。
でもそんな楽しかった日々をぶち壊したのは、他でもない僕自身だった。
「今度の晴れの日にアキラくんがゾウ島に挑戦するんだって。だから今のうちに行かないと負けちゃうよ」
そう隆太に伝えて、はやし立てた。
「最近は天気があんまよくないからな。アキラと一緒に行くことになるかな」
「なんでよ。隆太の学年はまだ誰も行ってないんでしょ。一番になるって言ってたじゃん」
渋る隆太に対して僕は食い下がらなかった。どうしてもお兄ちゃんには負けて欲しくなかったのだ。
「そうだよな…。じゃあ行くか」
少し悩んだ素振りを見せたが、隆太は優しくそう言った。隆太は誰にも負けない自慢の兄だった。
翌日のどんよりとした雲の下、二人でゾウ海岸に行き、僕は隆太の挑戦を見守っていた。隆太の背中が見えなくなって、僕はワクワクしながら帰りを待ちわびた。アキラくんはどんな顔するかな。その瞬間が待ち遠しかった。
でも、隆太は帰ってこなかった。どれだけ待っても一向に現れない。それでも帰ってくると信じて疑わなかった僕は、雨が降っても、暗くなっても、海岸で隆太の帰りを待っていた。よぎってきた不安を何度も、何度も押し殺しながら。
結局、探しにきたアキラくんが来るまで待ち続けていた。
「なんで助けを呼ばないんだよ!」
怒鳴りつけてきたアキラくんの顔を見た時、とんでもないことをしてしまった事にやっと気づいた。
「隆太が…。隆太が…。」
一度泣き出したら止まらなかった。家に帰ってからもずっと泣き続けた。隆太が帰ってこないことが怖くて、悲しくて。何もできなかった自分が情けなくて、許せなかった。
でもどんなに涙を流しても何も変わらなかった。
僕が隆太を殺した。
その重く沈んだ錨のような事実だけが、僕の心の奥深くに残り続けた。
2020年夏。僕はゾウ島まで泳ぎきった。隆太が死んだ時と同じ5年生になっていた。
「涼太も行けばわかるよ」
僕が責め立てた後、アキラくんはそれだけを言い残した。
隆太を奪ったゾウ島のことなど考えたくもなかったが、その言葉は呪いのように頭から離れなかった。
ゾウ島に行けば何か変わるかもしれない。
日が経つにつれ、次第にそんな想いへと変わっていった。悩んで、悩み抜いて、ゾウ島に行こう。そう決心した。
ゾウ島に行くためによっちゃんとまた泳ぎ始めると、それがどうしようもなく楽しくて、あの頃の気持ちが蘇ってきた。
でも楽しいと感じれば感じるほど隆太のことを裏切っているようで胸が痛んだ。これは隆太のためだ、そう自分に言い聞かせて泳ぎ続けた。
あれ程強く望んでいたゾウ島はなんてことのない普通の島だった。
心のどこかでゾウ島に行けば隆太に会えるんじゃないかと、いつしかそんな幻想を抱いていた。
でも、もちろん、隆太はいない。
そんな現実を突き付けられただけだった。
それでも何かあるんじゃないかと闇雲に歩き続けると、他の木とはどこか違った、優しさに満ちた大木に行き着いた。そして大木に寄り添うようにして、木片が突き刺さっている。
近づいてみると木片の表面には『リュウタ』と下手くそな文字が彫られていて、その下には見覚えのある防水の腕時計が転がっていた。
隆太の宝物だ。確かあの日も隆太はこの時計をしていたはずだ。
隆太もゾウ島に来てたんだ。
予期せぬ出会いに、今まで考えないようにしてきた隆太との思い出が溢れ返ってきた。
本当に隆太に会えた。
ゾウ島に来ても良かったんだ。
色んなことが許された気がした。隆太の分も生きたい。そう思えた。
隆太の時計を持って、海の方へと歩き出す。
早く帰ろう。僕の帰りを待ってくれてる人がいる。
もう一度時計に視線を落とし、海へと飛び込んだ。いつの間にか流れていた大量の涙は、海に混じってどこか遠くの方へと運ばれていった。
ゾウ島に行きたくて 七折ナオト @jack_kkbk
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