桜の木の下の約束

氷堂 凛

桜の木の下の約束

2015年春

中学校に入学して初めての陸上地区IHインターハイ。自分の本気を発揮できず地区大会を突破することが出来なかった。ただ自分を呪った。どうして一番力を発揮しなければならない時に、出すことができないのかと。

 競技場の側にある人影のない桜の木の下で蹲り泣いた。

『どうしたの?』

 そういって、見たこともない少女が話しかけてきた。僕はまだ、絶望の底にいたので返事をすることが出来なかった。

 それを見て少女は黙って僕の隣に腰を下ろした。

『そのジャージは山川第三中だね?私は、山川第二中!お隣だね!』

 そういって彼女は僕に微笑みかけた。

『だから、なんだよ』

 僕は咄嗟にきつい口調で、彼女を睨んでしまった。

『そう、怒らないでよ~。その様子だといい記録出なかったんでしょ?』

 痛い所を突かれ、さらに不快感が増す。

『みたら分かるだろ!もうほっといてくれよ』

 本当にコイツはなんなんだよ。

『私ね、この地区IHにすら出られなかったんだよ。地区IHくらいなら軽く突破できる記録持ってるんだけどね』

 怒りが胸に渦巻きながらも、彼女の寂しそうな雰囲気が無駄に胸に響く。

『なんでだよ』

 少し気になったので尋ねてみた。

『病気でね。生まれつき心臓が悪くって。お医者さんに君はもう走れない、って言われてね。ほんと不幸だよね』

 病気……そんな悲しい事実にも関わらず、彼女の顔は明るく生き生きとしていた。

『でもね、これも運命なのかなぁ~って思ってたら、少しずつ元気出てきてね。それでもやっぱり陸上好きだから、自分は出れないけど仲間の応援に来てみたら、元気に走っている人をみて、それはそれで悔しくなってきて、仲間のところにいるのもしんどくなってきて、ここに逃げ出してきたわけだよ』

『どうして、応援になんて来たの?好きだからって、悔しくなるのは分かり切っている事じゃないの?』

 自分がそんな状況になったら、なにもかも嫌になって絶対に来ないだろう。

『そうだなぁ~やっぱり諦められなかったからかな?陸上が自分の青春だったからね。苦しい日もあったけど、タイムが上がることがうれしくて、周りに認められていく自分が大好きで、一種の承認欲求に溺れていただけなのかもね』

 その気持ちは大いに分かる。誰かに認めてほしい。陸上というひたすら自分と戦い続ける個人競技なら尚更だ。

『大切な陸上が、取られちゃって、あんたはこれからどうするの?』

『そうだなぁ~走れない自分が何をしたいか、かぁ。よくわからないかな~でも、私は絶対又走るよ。誰よりも速く。人間の限界に挑戦し続けるよ。病気なんて一瞬で治してみせるよ!』

 そんな彼女が眩しかった。どんな過酷な状況も打破していこうとするその意志が僕の心の中からはいつの間にか失われていた。ただ結果に固執して、その間のプロセスの大切さを忘れていた。

『ね?君スプリンターだよね?』

 おそらく側においてあるスパイクから予想したのだろう。

『そうですけど』

『実は私もスプリンターなんだ!そうだ、五年後、この桜の木の下で私と勝負してよ!』

『何をいっているのですか?なんで僕がそんなこと……それに五年後って絶対忘れてますよ。』

『私はまた走れるようになるために頑張れる。君は、私に勝つためによりいっそう頑張れる。どうこれってWin-Winの関係でしょ?』

 そんな彼女の笑顔をみると、とてもじゃないが僕は断れなかった。

『じゃあ決まりね!5年後。2020年の夏 高校地区選手権の日の午後7時にここで待ってる!』

 そういって彼女は歩いて去っていった。

 半強制的に結ばされた約束。2020年の夏という事は高校三年生か。ところで彼女は一体何年生で何て言う名前なのだろうか。それすらも分からない。山川二中とか言ってたっけな。


 そこから時は過ぎ2020年夏。

 僕はあの日以来、陸上に対してイチから向き合うことにして、基礎から見つめなおした。その成果もあって、記録はどんどんと伸び、地区では有名なスプリンターとして活躍した。

 そして、高三になった2020年。日本は新型ウイルスの影響で各地にて外出自粛要請。さらに政府の政策にしびれを切らした若者らが、次々と東京の重要施設へ放火。その際、運悪く理化学研究所も被害に遭い、有毒物質が街中にばらまかれてしまった。東京は封鎖され、完全に荒廃した都市と化した。

 その影響で、今年一年の陸上競技大会の中止が決定。例に漏れずあの約束の地区選手権も中止が決まった。

 そして今日はその地区大会の日。現在神奈川に住んでいる僕は死を覚悟して約束の場所へと向かうことにした。

「母さん行ってくるよ。ありがとうね」

「突然お礼なんて変な子ね?はやめに帰ってきなさいよ」

「うん」

 最後の最後まで嘘つくなんて、ごめんね。こんな出来の悪い子で。父さんは三年前に他界し、それからは母さんが女手ひとつで育ててくれた。感謝してもしきれないよ。

 そして僕は電車へと乗り込み、東京に一番近い京急川崎駅で降りた。東京と神奈川の間には高いバリケードが設置されていた。誰にもバレないように、なんとかして乗り越え半年ぶりに東京へと足を踏み入れた。

 そこから多摩川を泳いで渡り、大田区を越え、ひたすら歩いた。止まることなく約束の地へ向かって歩き続けた。僕は遂に、あの競技場へとたどり着いた。久しぶりに帰ってきたその場所は、かつての面影を消し、炎と真っ黒な煤と煙に包まれていた。

 約束の時間まではまだ1時間ある。

 こんなにも東京が火の海に包まれているのに、桜の木は燃える事無く、堂々とそこにいた。あの時、ピンク色に染まっていた木は緑色へと姿を変えていた。何かを語りかけるように、風でゆらゆらと揺れる。


 変わり果てた景色に黄昏ていると午後7時の鐘が鳴った。

 しばらく待ったが彼女は来なかった。こんな状況になったのだから、仕方ないか……

 むしろ、彼女は僕がこの約束を守るなんて思ってもみなかったことだろう。彼女と出会ったその日から、自分が走るときは、どこか彼女が横で並走してくれていた気がした。

 だからこそ、自分は頑張れた。勉強も友人関係も何もかもを犠牲にして陸上に集中できた。そうそれはあなたが僕に、困難に打ち勝つという事を教えてくれたから。もう一度再会して、お礼を言うために日々頑張れた。呼吸がだんだんと苦しくなる。大気中に含まれている有毒物質がここにきて効いてきた。

 最後にせめて彼女の声が聞きたい。そう思い、僕は山川第二中へと電話をかけた。

「すいません一つお尋ねしたい事があるのですが」

「はい?どのようなご用件で?」

「五年前に陸上部に所属していた、心臓の悪い女の子の連絡先を教えていただけませんか?」

「一応個人情報なので、お答えはできませんが、あなたは一体?」

「彼女と大切な約束を交わしたものです。でも、連絡先が分からなくて……お願いします」

 電話対応してくれた先生は何か納得し、どこか寂しそうに「わかりました」とあっさり連絡先を教えてくれた。彼女の名は白井櫻しらい さくらという事も教えてくれた。さっそく、教えてもらった電話番号に電話をしてみる。

「はい白井です」

「すいません櫻さんの友人なのですが、櫻さんいらっしゃいますか?」

 ご家族の方だろうか?男の人の声が聞こえたので、とりあえず友人という設定にしておくことにした。

「櫻になんの用ですが?冷やかしの電話ならいりませんよ」

 突然と男の声が強張った。冷かしの電話?

「彼女と大切な約束を交わした者です。お願いします。彼女に代わっていただけませんか?」

「大切な約束……まさか!」

 突然として、男は電話口から離れ、母さん!と叫んだ。

「変わりました。櫻の母です。もしかしてあなたが、桜の木の下で約束を交わした男の子ですか?」

 その約束を交わしたことを何故だか知っているお母様に「はい」と答えた。

 すると、櫻さんのお母さんは突如として泣き始めた。

「あの、すいません。どうかされましたか?」

「あぁ、櫻ぁ。櫻ぁ。よかったね。あなた。彼は約束を忘れてはいなかったよ」

 後ろでお父さんの泣く声も聞こえた。一体これは?

「そうですか。櫻の約束を守ってくれたんですね」

「はい、それで肝心な櫻さんは?」

 なにがなんだかよくわからない。すると、櫻のお母さんが、事の真相を話してくれた。

「櫻は、先日の理研爆破事故によって亡くなりました。あなたとの約束のために心臓病を克服して、なんとか走れる体に戻ったところだったんです。いつも、あの娘はあなたの話を私たちにしてくれました。彼はきっと立派なスプリンターになっているだろうから私も負けないようにしないとって」

「そうですか。櫻さんが」

 彼女が勝手に結んだ約束なのにどうして、あなたは約束を果たしてくれないんだよ。

「でも、あの娘はきっと、あなたが約束を覚えていてくれて喜んでいると思います。それと、今は残念ながら入れませんが、あの娘はあなたと約束を交わした桜の木の下に眠っています。都市封鎖が解除されたら、いつか会いに行ってあげてください」

 僕は礼を告げて電話を切った。ここに僕が既にいるなんて見当もつかないだろう。

 目の前の土の下に彼女が眠っている。

 どうしてだよ。確かにここで待ってる、とあなたはいった。でもこれじゃ、競争なんてできないじゃないか……

 僕はそこで初めて涙を流した。一度会っただけの他人だが、どうしても彼女の事が諦めきれなかった。自分の人生の光となっていたんだと思う。彼女と会ってからの5年間で僕はいつしか、彼女を好きになっていたのだろうか。もう何も考えられない。

 体は確実に蝕まれている。意識が朦朧とし始める。脳裏に彼女の笑顔が浮かぶ。

 僕はついに立つ気力も無くし、桜の木の下へ倒れた。

「ねぇ、櫻さん。僕強いスプリンターになれたよ。絶対にあなたに負けないよ。だから勝負しようよ。何メートルでもいいからさ。一緒に走ろうよ……」

 僕の体温は、櫻さんの眠る土と同じように冷たくなっていった。

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