幽霊サイダー
藍依青糸
幽霊サイダー
緩く長い坂を自転車で登る。
午前中だと言うのにじりじりと肌を焼く日差しに、アスファルトから立ちのぼる熱。
ペダルをぐっと踏み込んで坂を登りきる。
背中に張り付くシャツに、黒い長ズボンが鬱陶しい。
自転車を停め、少しだけ開けられた門をくぐる。
「君、どうしたの? 今は夏休みだよ」
下駄箱に靴を入れた時、急に声をかけられた。声の主は黒い髪を短く揃え、スカートを折ってだいぶ短くした女子生徒だった。
「君こそ」
「私、
そう言って小さく舌を出した女子生徒は、裸足にビーチサンダルを履いていた。
「俺は、提出物出しに来ただけ」
せっかくの休みをこんなことで潰すなんて、過去の自分を殴り飛ばしたい。
進路希望なんて、適当に書いておけばよかった。
「君、数学得意?」
「.......普通」
「今先生いないの! 課題手伝ってよ!」
「俺達、知り合いだっけ?」
「初対面だね」
女子生徒は満面の笑みで俺の腕を取った。
「大丈夫! 高一の範囲だから!」
引きずり込まれたのは1年2組の教室。
そこは冷房が効いていて、とても涼しかった。
「ここがね、分からないの」
女子生徒は開いた問題集を指さす。
隣のノートには、たくさんの消しクズだけがのっていた。
「.......さん」
「え? なになにー?」
「答えは3だ。俺もう行くから」
「ええ? さんー? どうして?」
俺は女子生徒を無視して職員室へ向かう。
職員室にはほとんど先生がおらず、さっさと自分の担任を見つけて提出物を出す。
「おお、やっと出したか。
ん? お前、理系なのか?」
「はい。将来を考えると理系に行って何か資格を取ろうかと」
「そうか。お前数学得意だもんな。
でも、先生はお前のあの作文、嫌いじゃなかったけどな」
「.......どうも」
「まあ、お前が決めたんなら先生は何も言わないよ。しっかりな」
職員室を出て下駄箱へ向かう。
じっとりかいた汗が気持ち悪い。
そう言えば、職員室は冷房が入っていなかった。
「あー! 戻ってきたね、良かった良かった!」
先程の女子生徒が教室から頭だけをのぞかせて、俺を手招きする。
「なんで答えが3なの? 教えてよ」
「俺はもう帰る」
「私も帰りたいよ」
教室から冷たい空気が出てくる。
俺は、ちょうど真上に登った太陽の下自転車をこぐことを選択出来なかった。
ふらりと教室に入り、急激に汗を冷やしていく冷房の風を全身に受ける。
「ねえ、教えて!」
女子生徒が問題集を持って俺の前の席に座る。
俺はこの冷気を受ける代わりに、少しだけこの生徒を助けることにした。
「ここ、公式使って」
「公式ってなんだっけ?」
「.......」
俺はノートに公式を書いて、問題の数字を代入して計算する。
「おお! 出たね、3!」
にっこりと笑った女子生徒は、そのまま立ち上がって俺に言った。
「ねえ、桜を見に行こうよ」
「はあ?」
「桜! プールの裏にあるでしょ?」
「今夏だけど」
「見に行こうよ」
ぐっと腕を引かれて教室を出る。
俺は涼しかったから教室にいたのに、これでは意味が無い。
「おい、ちょっと待てよ!
なんでこんなに暑いのに外なんか行くんだ!」
「いいじゃんいいじゃん!桜見ようよ!」
ケラケラ笑って俺を外に連れ出す。
俺は上履きのまま裏庭の桜まで連れていかれた。
「咲いてないねぇ」
「当たり前だろ、今8月だぞ。」
「見たかったな、桜」
「春まで待つんだな」
「ねえ、ジュース飲もうよ」
「お前、勝手だな」
「サイダー飲みたい!」
女子生徒は近くの自販機でサイダーを買った。
「飲む?」
「俺達、初対面だよな?」
飲みかけのサイダーを差し出されて、俺は頭を抱えた。
「うん、でも数学教えてくれたから」
「.......そこじゃねぇ」
女子生徒は不思議そうに俺を見て、サイダーをもう一口飲んだ。
「飲みたくなったら言ってね。あ、体育館行こうよ!」
「俺はもう帰る」
「じゃあ音楽室なんてどう?」
「そういう問題じゃねえ! 俺はもう帰るからな!」
「.......美術室がいい?」
「.......違ぇ」
ただ、その時女子生徒が泣きそうな顔をしたから。俺は、なんだか悪い事をしている気になってしまった。
「.......一瞬だけな」
「やっぱり美術室だね!」
女子生徒は俺をぐいぐい引っ張って進む。
美術室に行ったあと、音楽室、体育館、図書室と散々連れ回され、今は屋上に座っている。
もう夕方だが、屋上の床に直で座っているとじわじわと熱が伝わる。
「夕方だねぇ」
女子生徒はケラケラ笑ってサイダーを飲んだ。
「ねえ、今日はありがとう」
「本当にな」
「君、いい人だね」
「.......別に」
またケラケラと笑ってサイダーを飲む。
「ねえ!」
「.......なんだ」
「私ね、幽霊なんだよ」
「はあ?」
ふふんっと胸を張って目を細めた女子生徒は、やっぱり頭がおかしいのかもしれない。
「私ね、幽霊なの。だからね、今日は学校を見られてよかった、ありがとう」
「暑さで頭やられたのか?」
「もう成仏しなくちゃ。ばいばい!」
「おい、ちょっと待て!」
女子生徒はビーチサンダルを鳴らしながら走って行った。
俺は何故か後を追いかけて走った。
「おい、待てったら!」
校舎の中に入ると、ぺたぺたという音は聞こえず、あの女子生徒も見当たらなかった。
さっき回った場所と、1年2組を見てみても見つからなかった。教室に冷房はついていなかった。
「.......嘘だろ」
急いで職員室に行って担任を問い詰める。
「田中夏美って生徒を知りませんか!?
多分高校1年生の!」
「田中夏美? 高校1年生にそんな奴いたかな.......。ん、そう言えば、ちょっと前に夏美って言う女子生徒がいたな」
「今はどこにいますか!?」
「学校やめたって聞いたけどな。確か病気か何かで」
「.......嘘だろ」
「お前、まだ帰ってなかったんだな。
もう学校閉まるから、早く帰れよ」
俺は夏の長い夕方の中、自転車をこいだ。
俺は本当に幽霊にあったのか。
もし本当にそうなのなら。
「もう少し優しくしてやれば良かったか.......」
あいつも学校に行きたかったのか。
数学だってちゃんと習いたかったのか。
俺みたいにつまらない奴じゃなくてもっとたくさんの友達と話したかったのか。
俺は、次の日もう一度学校へ行って、進路調査書をもらってきた。
それから、1年。
緩く長い坂を自転車で登る。
じりじりと肌を焼く太陽に、ベッタリと張り付くシャツ。そして、
「あっつーい! ねえ、サイダー飲もうよ!」
「うるさいぞ、幽霊」
「あはは、ごめんってばー」
俺の後ろに座った幽霊は、ケラケラと笑った。
「ねえ、サイダー飲もうよ!」
「お前、サイダー好きだな」
「やっぱり夏はサイダーでしょ!」
ぎゅっと俺の背中にしがみつくサイダー幽霊は、今年の春、桜の裏からひょっこり現れた。「びっくりした? 蘇っちゃった!」などとほざいたので俺は手に持っていたサイダーをかけた。
この幽霊は、現高校1年生として入学してきた。
夏に大きな手術をして、俺と同い年の17歳で高校に入り直したらしい。
「まさか本当に信じるとは! 結構ピュアだね」
「黙れ、サイダーかけるぞ」
「きゃーー!!」
ケラケラ、ケラケラと笑い声が響く。
あの日、教室の冷房が入っていたのはこいつの体調に気を使った先生がいたから。
冷房が消えていたのはこいつが教室を出た時に冷房を消したから。全く気づかなかった。
屋上から消えたのは、「普通にトイレ!」ということらしい。
「受験生つかまえて学校行くとか、お前やっぱり頭おかしいだろ」
「ええー? だって数学わかんないんだもーん!」
「補習しっかり受けろよ」
「また教えてよ」
「俺は文系なんだよ」
「未来の小説家だもんね!」
「サイダーかけるぞ」
長い長い坂を登る。
そして、桜の前でこいつはサイダーを買った。
「飲む?」
「いらねぇ」
「欲しくなったら言ってね!」
にこにこサイダーを飲んでいる幽霊。
なんだか無性にイライラしてきた。
「おい」
「なーに? やっぱり飲みたいの?」
飲みかけのサイダーを差し出されたが、それを押しのけてぐっと引き寄せる。
そして、そのまま桜色の唇を奪った。
しゅわっと爽やかな刺激と、甘ったるい何かが口を抜ける。
「幽霊サイダーだな」
「.......」
幽霊は頬を桜色に染めて、ちびりとサイダーを飲んだ。
幽霊サイダー 藍依青糸 @aonanishio
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