ロビンズブルーと夜を往く

 星屑が、彼女の瞳に宿っていた。

 運命とやらと対峙したとき、人間の目はそれを走馬灯のように低速で再生する機能でもついているのだろうか。そう思ってしまうほど、その時の光景はあまりにもスローモーションだった。

 俺の視線の先には、鮮烈せんれつな戦闘を繰り拡げている女がひとり。淡雪あわゆきみたいに白い肌、躍る黒髪、しなやかに伸びる長い脚をもって、自分よりでかい男を躊躇ちゅうちょなく地に沈めていくその雄姿。獰猛どうもうな微笑みが浮かぶにしては可憐すぎる顔立ちは、神が丹念に命を吹き込んで創った芸術のようだ。中でもあの目が――星の瞳と称するに相応ふさわしい麗しの瞳が、俺の脳裏に焼きついて離れようとしない。

 もしも夜の女神なんてものがこの世に存在するのなら、それは彼女のことに違いない。そう確信してしまうくらいに、その女は美しかった。

 否、否、否、こんな表現では、彼女の素晴らしさを伝え切ることが出来ない。

 あの時の感動は筆舌に尽くしがたく、俺などの貧困な語彙力ボキャブラリでは一語に纏めることなど到底出来ようもない。第三者により鮮明に理解してもらうためにはもはや、俺はくだんの状況を一からまるっと説明させてもらわなければならない。


 今朝のことだ。

 昨夜、友人のシハナとトゥエと阿呆みたいに酒を飲み、二日酔いになった頭を覚ますために早朝から外に出ていた俺は、ボロアパルトメントからそう遠くない裏路地で女が数人の破落戸ゴロツキに囲まれている現場に遭遇した。当然、裏路地に人通りはなく、朝陽がかすかに射し込んでいるだけで酷く薄暗い。不用心に一人で出歩いている女子供に乱暴を働くにはうってつけの場所だ。誰かが偶然通りかかって、白馬の王子様よろしく颯爽と助けてくれるなんて確率はそれこそゼロに等しい。

 しかし、そんな場所に王子様でもないのに偶然通りかかってしまうのが俺であった。がんがんと痛んでおぼつかない頭で、それでも二日酔いの頭痛や身体の怠さや面倒さをひっくるめて天秤にかけるまでもなく、男らしくも「助けなきゃ」と思った俺は、ほとんど考えもなしに「おい、やめたほうがいいぞ」と破落戸ゴロツキ共に声を掛けた。流石に軽率だったかもしれないが、後ろ手に腕輪型の情報端末ウェアラブルデバイスを操作してシハナを呼び出すくらいの頭が残っていたことだけは褒めて欲しい。ただ残念なことに、喚きながら駆けてきた男二人の声が頭に響いて悶えているうちに、俺はまんまと頬を一発ぶん殴られる羽目になったのだが。

 別に勝算がなかったわけじゃない。むしろただの喧嘩なら大抵の奴には負けない自信があった。しかもここにいる連中は傭兵崩れの下っ端ギャングスタで、そこまで腕っぷしは強くないと記憶していたのだ。こうも情けなくぶん殴られてからだと言い訳にしか聞こえないかもしれないが――兎に角、二日酔いで頭もろくに回らず、先手を取られて頬を殴られた俺は王子様にはなれず、そのまま男共の気が済むまで、或いはシハナが駆けつけてくれるまで大人しくサンドバックになる予定だった。

 少なくとも、奥から男の呻き声が聞こえるまでは。

 俺だけでなく、俺をぼこすか殴りつけていた二人も仲間の弱々しい声に反応して同時に背後を見やった。そこには側頭部から路地の壁に激突したのか、壁にもたれる体勢からずるずるとくずおれていく男が一人。そしてもう片方の男はというと、さっきまで四人で取り囲んでいた小柄な女にあえなく蹴り倒されようとしているところだった。

 牽制として繰り出した軽い打撃技で射程距離に入ってからの、肩口を狙った大振りの蹴り。男は咄嗟に左腕を肩口に構えて防御ガードの姿勢を取るが、女の脚はそれを予測していたかのように奇妙にうねった。はじめからその腹積もりだったのか、変えられた軌道は確実に男の首を捉えている。へし折らんばかりの威力で振り抜かれた脚が、男の意識を見事に刈り取っていく。

 そうして大の男二人を十秒と経たずに地に沈めた女は、あっけに取られるほど無邪気で攻撃的な笑みを浮かべていた。

「なぁんだ、こんなもんか」

 地にした男を足蹴にして、彼女が呟く。

 まるで変声期の来ていない少年のような、甘くみ透った声だった。さっき見た攻撃性にそぐわないやわらかな声色に、思わず目を瞬かせる。

「やめたほうがいい、って、言われたのにな?」

 お仲間二人の無惨な敗北を見て固まっていたこちらの二人はその言葉で我に返ったのか、私刑リンチ中の俺を放置したまま野蛮に声を荒げて彼女に突っ込んでいく。血の気の多いことだ。にやり、と、彼女の口角がさらに弧を描いた気がした。

 すぐに独壇場がはじまった。容赦のない殴る蹴るの暴行を受けているのは、女ではなく男二人の方だ。彼女は男共の攻撃を難なくなし、かわしては、隙を見て拳や蹴りを叩き込んでいる。蝶のように舞い、蜂のように刺す――というのは、誰を指し示す言葉だったろうか。否、この瞬間においてはもはや、それは彼女のための表現に他ならない。だって、見ろ。殴りかかる拳を最小限の動きで避けてみせ、隙を逃さず鋭く的確な蹴りを相手の急所に叩き込み、即座に距離を取り次の敵を見据える華麗なヒットアンドアウェイ。ふさを離れて舞う花びらみたいに軽やかに翻弄し、圧倒し、追い詰めていくその様を。

 ノースリーブのシャツにホットパンツ、ショートブーツにモッズコートを羽織っただけの飾り気も可愛げも一切ない姿。容姿が整っていることは一目見て分かっていたが、それにしたって何故、彼女がこんなにも美しく見えるのか不思議だった。

 しかし、俺はその答えにすぐに気がつくことになる。ひどく愉快そうに躍動する彼女の瞳から、きらきらした粒子がこぼれ落ちていくのが見えたのだ。泣いているのか、と思ったが、どうやら違う。瞳はさながら夜空を反映したかのような深い群青で、そこに閉じ込め切れなかった星屑めいたきらめきが、仕方なく彼女の目からあふれて流れていっているように見える。砕いた宝石と見紛うばかりの金の粒子が、さらさらと、きらきらと、彼女の目から頬をすべり、空気に溶けて消えていく。

 なんて――なんて綺麗で、神秘的な光景だ。

 路地に射すわずかな朝陽を浴びたその目が、まるで曇りなき夜空のようにちりばめられた金を浮かび上がらせている。

 あまりに清艶せいえんなその光景に、俺の喉が無遠慮に鳴った。心臓の音が五月蠅うるさい。殴られた頬より身体が熱い。二日酔いで痛んだ頭は脳内麻薬によって一時的に鎮められ、代わりにとんでもない多幸感が脳みそに充満している。

 もしも明日世界が滅びるとしたなら、俺はこの女の隣に立っていたい。世界の果てまでこの女について行って、その行く末を見届けたい。この女の目が最後に映す景色の中に、俺という人間がいて欲しい。そんな衝動が血に交じって、俺の血管を駆け巡っているみたいだ。

 あの目の見つめる世界を見たい。あの目の見据える未来を見たい。あの目の見届ける最後を見たい。あの目に、俺が、映っているところを、見たい。

 こんなにも強く、何かに惹かれることがあっただろうか。

 今、この狭い路地に立っている者は彼女一人だ。踏んづけていた男から長い脚を退け、ひとつ溜息を吐いた彼女がこちらを振り向く。彼女は、やっと俺がいることを思い出した、といったふうな顔をして、ゆっくりこちらに歩いてきた。俺はその姿から目を外すことが出来ず、情けなく座り込んだ状態から立ち上がることも忘れ、近寄ってくる彼女の一挙手一投足すべてに見惚れていた。

 そのまま彼女は俺の前にすっとしゃがみ込むと、にこりと、さっきの攻撃的なものとは違う屈託のない笑みを浮かべる。

「莫迦だな、お前。助けようとして助けられるなんて」

 傷一つないしなやかな手が差し出され、俺を助け起こそうと近づく。

 いや、待て、ちょっと待ってくれ。


 彼女が俺の目の前で立ち止まって、

 彼女が俺の目の前にしゃがみ込んで、

 彼女が俺に喋りかけて、

 彼女が俺に綺麗な手を差し伸べて、

 彼女が俺の目を見つめている?


 縫い止められた視線が彼女の瞳に吸い込まれて、ばちん! と弾けた。

 すなわち、二日酔いとギャングスタに殴られたのとですでにダブルパンチを食らっていた俺の脳細胞は、奴らを蹴飛ばした彼女の無邪気な瞳にノックアウトされた。その結果、俺はなすすべなく鼻血を噴き出しながら卒倒したのである。

 笑いたきゃ笑ってくれ。情けないことはよく分かってる。

 しかして、星の瞳に真正面から見つめられた俺は、本当に、完璧に、徹底的に、完膚なきまでに――恋に落ちたのだった。


   ◇


 というのが目覚めた直後に超至近距離に顔があったシハナに「一目惚れした!」と叫んで盛大に平手打ちをかまされた後、懇切叮嚀に、脚色なく、分かりやすく、つまびらかにした説明であった。

「――それで?」

 額を押さえたシハナが問う。

「だから惚れたんだって」

 即答すると、シハナの眉間に峡谷きょうこくが出来た。

「あのさ、お前、やっぱ阿呆あほうだろ」

「なんで」

 スパァン! と良い音を立てて、蛇腹じゃばらに折り畳まれた極薄の木簡もっかんで側頭部をひっぱたかれた。透かし模様のように何かしらの文字が彫られた木扇子にも見えるが、持ち手から先の部分がよくしなる構造になっているのがいつ見ても謎だ。曰く、ハリセンという名称らしい。

 というか、朝から頻繁に叩かれすぎて、俺の脳細胞は三割ほど死滅したのではないだろうか。

「名前も年齢も出身も何やってるかも知らない初対面の女に惚れたァ⁉ 阿呆か!! そもそも自分からいざこざに顔突っ込んどいて何を呑気のんきにぶちのめされてんだ自分の調子考えてから行け阿呆め!! つか呼び出されて駆けつけたら近頃調子こいてるギャングスタに混じって鼻血出しながら倒れてやがるし心配するこっちの身にもなれやこの阿呆!! まず警邏パトロールが来ちまう前にうちまで運んでやった俺に対する第一声が『一目惚れした!』はねえだろ礼を言え阿呆が!! どこぞの道へ猛進しはじめたかと思ったわ!!」

「そんなに阿呆阿呆言うなよもう五回言ったぞ阿呆って……悪かった、ありがとう、あと俺は男色じゃない、断じて」

「知っとるわド阿呆」

 また言われた。いつもつんつんしているシハナの紅茶色の髪がいつにも増してつんつんしているような気がする。

 このように彼の口は悪いが、俺のことを心配して言ってくれているのは幼少期からの付き合いで分かり切っているので、吠えるような叱咤もありがたく頂戴しておく。髪と同じくらい鋭くなった目で俺をじっとり睨んでいるのもまたシハナの愛なのだ。多分。きっと。

 あ、溜息吐かれた。

 半ば呆れた顔になって、睨むのを止めたシハナが言う。

「お前、その女探すのか」

「そのつもり」

「見つけたらどうすんだ」

「求婚する」

「きゅ…………あー……好きにしろ。気の迷いとかじゃねえなら応援しなくもない」

「ありがとうシハナ!」

「けどお前が見覚えねえってんなら、この街の人間じゃねえだろ。旅行者ならいつまでこの街にいるかも分からねえし、さっさとしねーといなくなっちまうかもしれねえぞ。俺がお前を見つけた時にはもういなかったんだしよ」

 シハナ曰く、端末デバイスで呼び出されて駆けつけた路地には倒れているギャングスタ共と俺しかおらず、警邏パトロールが見つける前に急いで俺を回収してアパルトメントまで運んでくれたらしい。女らしい影はなく、唯一残っていた彼女の手掛かりとしては――。

「お前に掛かってたモッズコートが、女のもんってことしか分かってねえ」

 倒れた俺に彼女が掛けてくれたであろうモッズコート。彼女が羽織るにしては大きいサイズなのだろうが、俺にとっては小さいというのも、こう、ぐっと来る代物だ。心なしか甘いにおいもする。どうしよう俺変態みたいだな。

 コートをあらためてみると、身分証明、巡遊許可証パスポート生体診療録ヴァイタルレコード操縦士免許証ライダーライセンスWorldワールド Paymentペイメント――金銀貨幣を持たずとも自らの預金庫から勝手に口座間決済されるシステム――が統合されたIDタグネックレスがポケットに入れられていた。いくら生体認証と魔素マナ認証の二段階セキュリティで本人以外は実質使用不可とはいえ、これを失くせば生命線を失ったも同然だ。機構管轄の調停機関ピースメイカー、通称調停ドーヴに駆け込んで再発行してもらうのには時間が掛かるし、IGS――Infra Green System : 万物に与えられた霊力エーテル情報素子エレメントの微弱な波を取得して空間解析し位置を特定するシステム――追跡して捜索するのもそれなりに手間が掛かる。とんでもないものを忘れていったものだ。

「でもこれを忘れていったってことは、街から出る可能性はほぼないよな」

「あァ。手っ取り早いのはソイツを調停ドーヴに届け出て受け取りに来るのを待つことだが――俺らじゃ無理だ。俺は十年前からタグの更新も正規の住民登録もしてねえし、お前はそもそもタグ自体持ってねえ」

「身分証明出来ないもんなぁ……今更調べられて面倒なことになったらやだし……」

「じゃ、僕が届けるから、君は魔素マナの追跡でもしたら?」

「ああそっかトゥエに頼めば――……って、いつ来た?」

 気付けば背後に立って当然のように会話に参加している友人を振り返って見ると、にこにこと毒気無く微笑んで首を傾げられた。

「話の途中くらいから。シハナに呼ばれたんだけど」

 全然気付かなかった。いつものことだが、気配がない。この二人目の友人トゥエは癖のない黒髪に女みたいな顔立ちの好青年だが、あまりに神出鬼没過ぎてたまに怖い時がある。幽霊ゴーストか――旧世界の旧日本国にいたらしいNINJAニンジャって奴みたいで。

「トゥエ、もしも彼女がいたらすぐ連絡コールしてくれよ。すっ飛んでくから」

「はいはい。それにしても、君は一目惚れなんてしないと思ってたよ。初恋もまだだったでしょ?」

「だからこれが初恋なんだ。二人とも応援してくれ」

「恋なんか腹の足しにもならねえ、って言ってた奴の台詞とは思えねェよな」

「確かに今まで愛だの恋だの言ってきゃあきゃあ騒いでるやつはみんな病気だと思ってた。でもなんでああなるのか分かったよ。俺も病気だ! 恋の病だ! しかしこれは、なんか悪くない気分だぞ! むしろ、かなりイイ」

「末期だな」

「重症だね」

 何とでも言ってくれ。俺は目覚めてしまったのだ。恋とやらの感覚に。

「童貞の拗らせ」

「痛々しいねえ」

「ぐっ……」

 前言撤回。何とでも言われるのはちょっと、いやかなり胸にくる。特に童貞という単語がキツい。俺だって何も好き好んで十九まで不純異性交遊なるものに及ばなかったわけではないのに。

 自尊心が無意味にダメージを負った気がするが、気を取り直して、IDタグをトゥエに手渡す前に両手の中に閉じ込めて意識を集中させる。ほう、と蛍のような薄緑の光を発すると同時に、タグに残っていた所持者の魔素マナ追跡トレースされ情報が網膜に転送される。自分の視覚上でその残滓ざんしを辿ることが出来るよう調整を施せば、空間に滞留した魔素マナが超微弱発光して対象の行方を追うことが出来るのだ。

 ただし、これをするにはある条件が伴う。

 追跡の対象となる人物が、規定以上の魔素マナを体内に有していること。でなければ、追うための道標になる光が稀薄すぎて痕跡を辿ることがままならなくなる。

 けれども、やはりと言うべきか。薄々気づいてはいたことだが、その懸念は杞憂だったようだ。

「視える……視えるぞ……!」

 仕事上、こうして特定個人の追跡のために魔素マナを視ることは少なくない。基準として視える光は散りかけの線香花火程度に幽かなものだ。しかし彼女の魔素マナは違った。金色に明滅する光。卒倒する直前に視た、あの星の粒子がはっきりと灯っている。

「ていうか、視えすぎてるけど!」

「そこまで追えるってこたァ、魔力領域オド魔素マナを余剰放出してるってことかよ?」

「やっぱり目から魔素マナこぼれてたんだ、俺の女神!」

「それって魔術師なんじゃない?」

 魔術師。百年前まではそこかしこにいたらしいが、現在ではとんと絶対数が減っている種族。

 魔素マナは森羅万象すべてが持ちうる霊力エーテルのうち外界、つまり大気中に満ちているエネルギーのことを指す。人間は大なり小なりこの魔素マナを体内に吸収できる魔力領域オドを有しているが、その中でも魔力領域オドがより発達しているとされ、魔素マナを取り込むことで魔法のような能力を発現させる者たちのことを、人は《魔術師》と呼んでいた。

 特に有名なのは旧英国領と旧日本国領の魔術師たちか。旧世界においても神秘を内包した島国アイランディクに住まう人間は、その神秘性を身に宿していたものらしい。旧日本国――現エオス領の魔術師は過激すぎて怖いって噂もあるが。

「聞いた限り、魔術師にしちゃ肉体言語上等! って感じの人物像なんだが」

「確かに。俺の女神は生身でも強かった」 

「まあ魔術師がみんな頻繁に魔術使うわけでもないし、遺伝子治療ジーンセラピーしてるナノマシンサイボーグなのかもよ」

「つかお前その俺の女神って言うのやめろや。かゆくなる」

「ヒッドイ」

 軽口を叩きながら、IDタグをトゥエに手渡す。

 彼は指輪型の端末デバイスから手製のプログラムを起動してタグの情報を読み取る。断っておくが、個人でIDタグの情報を抜くことは完全に違法だ。当人は手慣れたもので、調停ハトにバレないよう端末デバイスをこれまた違法改造しているのだが、良い子は決して真似すべきでない。ちなみに俺たちは良い子ではないのでやっても構わない。

「あれ――Unknownだ」

 トゥエが不思議そうに首を傾げる。

「身分証明から何から、厳重にロックされてる」

「ロックだァ? ただの旅行人じゃねえのか?」

「わからない。よっぽど秘密主義なのか、それにしても名前すら出てこないなんて――」

 端末デバイスのスクリーンを覗き込めば目に入る《Unknown》の文字。

 個人情報パーソナルタグが違法プログラムを介してでも抜き出せないのは、秘匿情報として厳重に鍵が掛けられているからだ。それには高い身分か、或いは莫大な金が要る。そうでなければ、公共奉仕レイトゥルギアを重ねて世界貢献度を阿呆みたいに上げ、個人の価値を世界統一機構に承認させるなんて荒業をやってのけるしか――。

 なんにせよ、と、トゥエが愉快げに口角を上げてこちらを振り向く。

「君の女神、もしかしたらとんでもない人物なのかも」


   ◇


 IDタグとモッズコートをトゥエに託し、星の光を辿る。

 一緒に探してくれると思っていたシハナは丁度仕事が入っていたと言って、そっちに掛かりっきりになると断られた。なんでも、今夜開催される祝祭フェストに乗じて鴉片ドラッグ旧遺物アンティークを捌こうとしている阿呆なギャングがいるようで、その仔細を探って依頼主に報告することになっているらしい。普段なら二人バディで依頼をこなしているが、今日に限っては「いらない」と言われてしまった。

 依頼主の上は調停ドーヴだろうな、と苦笑いしながら街を歩く。IDタグを持たない俺や更新から逃げつづけているシハナみたいな野良犬アウトローは、最終的には秩序に報酬エサを貰うしか生きていくすべがない。元々秩序の外にまで出たいと思って野良になったわけではないけれど、表の些細な相談からちょっと非合法イリーガルなお仕事まで、何でも引き受けるフリーの仕事屋として裏世界すれすれを維持しながら生きるのも仕方のないことだった。もう少し賢ければ他にも道があったのかもしれないが、十年前の俺たちは残念ながら幼かったのだ。

 不倖だとは思っていない。十年前、捨て犬みたいに彷徨さまよっていたのを情報屋であるトゥエの爺さんに拾われてなきゃ野垂れ死んでいたかもしれないし、むしろ幸運だったと言える。爺さんには助手か――体のいい使いっ走り程度に扱われていた気はするが、そのおかげで無秩序でも立ち回れる生き方を覚えられたことは確かだ。

 大通りメインロードを練り歩けば、祝祭フェストの準備に勤しむ街の住民に声を掛けられる。花屋の姉さんたち、細工士のおっちゃんたち、魔機巧マギウス技師クラフトの青年団。街中を飾りつけている民の表情は一様に朗らかで、夜店の設営をしている大人も仮面を被って走り回っている子供もみんな楽しそうだ。平和の空気が満ちている。

「またふらふらしてんのかい何でも屋! 夜には顔出しなよ」

「用事が終わったらね!」

「何でも屋のにいちゃん! ねえ見て仮面! かっこいい?」

「かっこいいじゃん。はしゃぎ過ぎて失くすなよ?」

「えへへ、はーい!」

 顔見知りと二、三言葉を交わし、自慢げに仮面を見せて去っていく子供たちに手を振る。

 いい街だ。ここの人たちはみんな優しい。昔と違って、なんとなくでも世界に溶け込んで生きていられることは、俺にとってありがたいことだった。

 ただ――それだけでは満たされない感情が、俺の中に巣食っているのも事実だ。

 外の世界に憧れた、自由な生き方に憧れた、幼い俺の――。

 途端、視界に重なるようにしてぽつぽつと灯っていた星の光が密になった。近くにいる。きょろ、と辺りを見回してみるが、人が多くて中々見つからない。普段から人通りが多いのに、今日は祝祭フェストでさらに混雑を極めている所為だ。魔素マナを追跡している限り完全に見失うなんてことはないと思うが、それでも気が急いてしまう。

 そんな俺の耳に、雑踏を裂くようにして聞こえた声があった。

「おっちゃぁん。苹果アップルパイ一つ」

 ソプラノの喉をすべるような甘い少年じみた声。

 彼女の声だ!

「あいよ! お、嬢ちゃんめずらしいね、硬貨ケルマかい?」

「タグ失くしちゃってさ。銅貨エレクトロン三枚?」

「二枚に負けてやろう」

「太っ腹。愛してるぜ」

「ははっ! よき一日を!」

 声のした方へ急げば、財産もほぼ電子化した現代ではめずらしくなった硬貨ケルマでパイを買っている彼女の姿があった。旅客用に売られている白いレース生地の仮面を顔につけている所為で星の瞳は隠されているが、その出で立ちは間違いなく彼女だ。

「あのっ!」

 声を掛けると、苹果アップルパイを頬張っている彼女がこちらを振り向く。

「あの、俺、今朝っ」

「……ああ! ぶっ倒れたヤツ! 丁度良い、探してたんだよ」

 探してた? 彼女が? 俺を?

 そんな嬉しいことがあっていいのか。俺が彼女を探していたのと同時に、彼女も俺を探してくれていたとは。ぶっ倒れたヤツ、という情けない印象を残してしまっていることは悔しいが、こんな人混みの中でそう時間も掛からず再会出来たうえ、覚えていてくれたことが素直に嬉しい。

 思わずにへら、と頬が緩む。ああ、やっぱり彼女は俺の女神――。

「コートとタグ、返してくれ」

「…………そうですよね」

 ごもっともな指摘であった。何だか変に舞い上がってしまった自分が恥ずかしい。

 どうやら俺にコートを掛けてくれた後、情報端末ウェアラブルデバイスの類を持っていない彼女は最寄りの警邏けいら隊を呼びにその場から離れていたらしい。その間にシハナが来て俺だけコートごと回収してしまったから、男共は連行されたもののコートとタグは紛失届を出す羽目になった、と。

 しかし肝心のコートとタグはトゥエが調停ドーヴに届けに行ってしまって手元にない。そのことを彼女に伝えれば、怒るでも呆れるでもなくけろっとした表情で頷く。

「届けてくれたんならいいや。明日にでも取りに行くよ」

「えっでも色々困るんじゃ」

「別に困らないよ。宿にはもう登録してるし古いタイプのキーだからタグは要らない。支払いも硬貨ケルマがあるから問題ない。一日くらい平気」

「や、でも、なんというか、何かお詫びを」

「じゃ、奢ってくれ」

 パイの最後の一口を嚥み込んだ彼女がにっこり笑う。

「この後の食事代、お前が持ってくれ。それくらいでいいだろ?」

 つまり、

 それは、

 祝祭フェストを一緒に回るということで、

 それを許されたということはつまるところこれは、

 デートなのでは⁉

「喜んで!!!!!!!!」

 力いっぱい頷けば、彼女は仮面の奥で目をぱちぱち瞬かせ、そしてまた面白そうに笑った。


   ◇


「それにしても、青年。あんまり無茶するもんじゃないぞ」

 オープンカフェのテラス席で、チョコレートパフェをつついている彼女が言う。

 今朝のことを言われているのだろう。彼女からすれば俺は、弱いくせに正義感だけで突っ込んで来て、結局何も出来ずにのされてしまったどうしようもない奴だ。

「あれはちょっと、調子が悪くて」

「自分の調子を維持出来てない状態で喧嘩を売るなって言ってるんだ」

「ぐうの音も出ません」

「まあ、正義感があることはいいことだけどな」

 惚れた相手に助けられただけでなく注意されフォローまでされて、出掛かったぐうの音と共に自分の頼んだアイスコーヒーを嚥み下す。今更言い訳を重ねても格好のつけようもない。華麗にギャングスタ共を行動不能にしてみせたのは俺ではなく彼女なのだ。

 それにしても、彼女の膂力りょりょくは何処から来ているのか。

 並んで歩いてみて分かったのだが、彼女は思っていた以上に小柄だ。俺の背丈が一八〇センチくらいだから、胸あたりに頭部が来るところから考えると彼女の背丈は一六〇センチもない。顔も小さく手足がすらっとしている所為で背丈があるように見えていたが、イメージからそう思っていただけらしい。シャツから出た腕やホットパンツから伸びた脚は細身というよりは華奢で、とても男を殴って蹴り倒せるようには見えなかった。

「あの、もしかしてナノマシンサイボーグなんですか?」

 ナノマシンやバイオニクスによる生体部品を移植し、視聴覚を鋭敏化したり戦闘能力を向上させる遺伝子を組み込んで肉体の改造強化を施した者、それがナノマシンサイボーグ。

 対し、完全に機械による改造をしていて、脳以外の部位の故障なら容易に換装出来る純粋な機械化が施された者をサイバネティクスサイボーグと呼ぶ。比較すると、馬力は当然サイバネティクスサイボーグの方が勝るが、生体機械であるナノマシンサイボーグは完全に肉体として機能するため、見目も変わらず故障も少ないという利点がある。

 彼女が肉体改造を施しているなら、ナノマシンサイボーグの方だろう。

 しかし、彼女は頷かない。

「残念だが、私は違う」

「あんなに強いのに?」

「強いことがイコールサイボーグ手術を受けていることにはならないだろう。私は生まれてこの方身体のどこも弄ったことがない、正真正銘生身の人間だよ」

 言って、パフェグラスの中層にあるブラウニーを口に放り込む。

「戦い方なんて、どこでも身につけられるもんだ。こんな平和な街じゃ無理かもしれないが、世界規模で見れば紛争はなくなってないんだからな。最低限自分の身を守るためには必要な技能だよ」

 お前も護身術くらい身につけた方がいいかもな? とにんまり笑われる。

 もしかして、思った以上に戦い慣れているひとなんだろうか。

 IDタグが読み取れなかったことを思い出す。必要なのは、高い身分か、莫大な金、もしくは個人の価値を世界統一機構に承認させるほどの世界貢献度。

 例えば、世界中を渡り歩いて無法区劃の紛争を鎮圧したりだとか――。

 いや、さすがにそれはないだろう。年若い女性一人でそんなことが出来たらそれこそスーパーヒーローだ。俺はこのひとのことを何にも知らないんだし、あんまり邪推するのは良くない。だってまだ名前すら知らないんだぞ。

 名前すら、

 ――――俺まだ名前も訊いてない!?

「名前なんて言うんですか!?」

「は? ……アズって呼ばれてる」

「アズ!! 名前も素敵だ……あっ、年齢は? 出身は? 好きなものは? 何してるひとなんですか?」

「待て。いつからここはお見合い会場になったんだ?」

「だめですか? せめて何してるかだけでも」

「……旅人だ」

「旅人!? 旅してるんですか!?」

「そうだな。世界中気になったところに片っ端から。とは言っても、旅をはじめたのは一年前くらいで、まだ全然巡ってないんだが」

「なんで旅しようと思ったんですか?」

「なんでって、」

 ぱちくりと目を丸くしたアズが一瞬言葉に詰まり、言い淀む。言いにくいことだったろうか。しかし彼女はスプーンをくるりと宙に回してほんの僅かに思案したあと、一拍置いてあっさり応えた。

「探してるんだ」

「何を?」

「景色だよ。理想の景色。身体が感動で震えるくらいの」

「理想の、景色」

 仮面の向こうの彼女の瞳が、瞬間、金にきらめく。

「私はね、世界の果ての、理想郷が見てみたいのさ」

 子供のように無邪気で鋭い目が、また真っ向から俺を射抜いた。旧世界の物語で言うならば、冒険に心躍らせるシンドバッドのような、不可解な謎に浮き足立つホームズのような、好奇心から不思議の国を彷徨さまよったアリスのような、期待を秘めた表情だ。

「……それって何処にあるんですか?」

「わからないから探してる」

「世界中を?」

「そうだ。お前にはないか? 見たいもの、焦がれるもの、自分が終わりを迎えるその時、最後にこの目に映したいもの。私は私の最期に相応ふさわしい景色を手に入れたいんだ。どこにあるかわからないなら、この目で探すしかないだろう」

 見たいもの、焦がれるもの、自分が終わりを迎えるその時、最後にこの目に映したいもの。

 それなら俺も知っている。

 ――あの目の見つめる世界を見たい。あの目の見据える未来を見たい。あの目の見届ける最後を見たい。あの目に、俺が、映っているところを、見たい――

 何せ俺がそれを思い知ったのは、このひとを知ったその時だ。

 それに彼女のその有り様は、かつての俺が憧れた、自由な生き方そのものに思えた。

「俺も」

「ん?」

「俺も一緒に旅に連れてってくれませんか!?!!?」

「なぜそうなる?」

 めっちゃくちゃ厭そうな顔をされた。事を急ぎすぎただろうか。しかしそれ以外に言うことが出てこないのだ。だって俺の見たいものを見るためには彼女の隣にいることが絶対条件で、そうするためには彼女の旅に付いて行くしかなくて、ええと、そうだ、告白!

 俺としたことが告白がまだだった!

「一目惚れなんです!!」

「だから、なぜそうなる」

「あなたに一目惚れしました!! だから、俺もあなたの見るものが見たい!! 旅に同行させてください!!」

「――なるほど、お前、莫迦ばかなのか」

 今朝のシハナとおんなじテンションで、パフェのグラスを空けた彼女が深い溜息を吐く。

「断る」

「なんで!」

「メリットがない。お前を連れてって良いことがあるか?」

「護衛役として!」

「私より弱い護衛はいらん」

「なんでもやります!」

「足手纏いになる」

「じゃあ伴侶にするのはどうですか!」

「お前やっぱり相当莫迦だろ」

「旅と結婚を前提にお付き合いなどは!」

「だからいらん! 食い下がるようならお前との縁はここまでだ」

「そんな――」

 殺生な、と言いかけたところで、左腕からヴヴッと振動が伝わる。端末デバイスにシハナから緊急の通信が入っているようだ。

 こんなときに! と思ったが、シハナから緊急通信が入ること自体めずらしい。依頼中に何かあったのだろうか。

 嫌な予感がして、アズに軽く断りを入れて応答する。

「お前今どこにいる」

 指向性を持った音声投影によって耳に直接シハナの声が反響する。声がいつもより固いのは、余程緊急ということなのか。

「何処って……大通りメインロードのカフェテリアだよ。女神を見つけて口説いてるとこ」

「だからその女神ってのやめろ――一緒にいるのか?」

「いるけど、どうした? 応援に行った方がいいか?」

「いや、俺はいい。問題はそっちだ」

「俺?」

「いいか、よく聞けよ」

 シハナから教えられた内容に、顔から血の気が引いていく。額を押さえてアズに視線を送れば、彼女も訝しげに俺を見返した。もしもシハナの言っていることが本当なら、今俺たちがここにいるのは――。

 大気中に満ちた魔素マナが、奇妙に揺らいだ気がした。テラスから見えるぎりぎりの遠さにある建造物、日が暮れてきて薄暗くなった景色のその一角、屋上に位置するその場所で一瞬。

 何か、光った。

「アズ――!!」

 俺の声に反応して瞬時に身を翻そうとする彼女。

 パァン!! という破裂音と共に、彼女の目の前で何かが弾けた。四方に砕けた破片から見るに、銃弾か何かだ。しかもこれは旧遺物アンティークの銃に使われていたタイプのものじゃないか。

「お前、」

「逃げますよ!」

 彼女の手を引いて踵を返す。破裂音に集まってきていたウェイトレスに食事代金を硬貨ケルマで投げ渡し、そのまま店を飛び出して路地の方へ走る。

「何が起こってる!」

「狙われてるみたいです!」

 シハナから入った緊急の内容。

 彼が探っていたくだんのギャング。祝祭フェストに乗じて鴉片ドラッグ旧遺物アンティークを捌こうとしている阿呆なギャングの下っ端で、その取引情報の一部を握っていた奴らが、今朝アズが蹴り倒したあのギャングスタ共だったらしい。調停ドーヴに回された連中からその情報が抜き出されて計画は破綻。しかし搬送途中で逃げ出したそのうちの一人が一斉逮捕から逃れた残党を煽って、計画がバレる発端となった俺とアズを血眼になって探しているという。ギャング共の大半は捕まったが、肝心の鴉片ドラッグ旧遺物アンティークは押収し切れていない。おそらくは、押収し切れていないそれらを利用して、俺たちに報復するつもりなのではないかと――。

「完全に逆恨みじゃないか!」

「ですね!」

 喋っている間にも、走る脚は止めない。空気中の魔素マナの揺らぎが強くなっている。敵意や殺意が空気に乗ってこちらに近づいてきているのが分かる。

 思ったより、数が多いかもしれないな。

「何処に向かってる」

「こっからそう遠くないんですが、丘の方にある廃ビルに。街中で銃を乱射されたら今日の祝祭フェストがおじゃんになる!」

「なるほどな。しかし廃ビルに行ってどうする、囲まれたら厄介だぞ」

「多分友人が調停ドーヴに連絡してくれてます。どうせなら一網打尽にした方が早い」

「随分強気じゃないか。さっきの魔術があるからか?」

 彼女の言葉が鋭くなった。見れば、真顔でこちらの表情を窺っている。言葉よりも明確に「教えろ」と訴えかけてくるその目に、俺は苦笑いで返すほかない。

 気づかれてたか。

 先ほど彼女を狙った銃撃。その銃弾を破裂させたのは、俺の魔術によるものだ。彼女が身を翻すより先に発動していたそれが、放たれた鉄の塊を捻じ切って四散させた。

「お前が銃弾を粉砕したんだろ」

「俺がやらなくても避けられてたと思いますけど」

「お前が先に気づいて叫んだからな。あれはなんだ? どうやった? お前魔術師だったのか?」

「えへ、お見合いのつづきみたいですね」

「はぐらかすな」

 じとっとした目で睨まれてしまった。

 でも、やっと俺に興味を持ってくれたみたいで、これはこれでうれしい。

 言うかどうかは迷ったが、どうせ彼女の旅に同行するつもりなら隠してたって仕方ない。そう判断して、なおも廃ビルに向かって走りながら、俺はさっきの事象の種明かしをすることにした。

「不可視の鎖ですよ」

 不可視の鎖、それが俺が唯一まともに扱える魔術だ。視えない鎖で拘束したり、締め上げて粉砕したり、そのまま打撃したりする。もう一つ別の能力も付随させられるが、基本的な効力はそれだけだ。さっきのは、銃弾の撃ち込まれる予想領域を鎖で締め上げて粉砕したというだけ。自らの手元に鎖を出して操るのでなければ何処に展開するかという予測が必要だが、慣れてしまえばわりと容易い。

「魔術師ってほどじゃないですが」

「なるほど。お前が今朝来たのは別に無謀じゃなかったんだな」

「あ、いや、二日酔いで調子最悪なままぼこぼこにされたのは事実だから、実際無謀に終わったんですケド……」

「謙遜するな。弱くないということは分かった」

 パァン! と、背後からまた破裂音がした。

 廃ビルの入り口まで辿り着いて振り返ってみれば、丘を駆け上がってくる何十人というギャングスタの姿があった。そのすべてが五月蠅うるさく叫び声を上げ、こちらに銃を乱射しながら向かって来ている。

「うわ、思ったより多い」

 まだ銃弾はここまで届かないが、無駄撃ちしまくるあのガンギマリ状態、まず間違いなく鴉片ドラッグをやっているな。

 階段を駆け上がり、屋上のドアをくぐる。空はもう日が落ちて夜になっていて、端から見下ろす街の灯りが祝祭フェスタのためにいつもより眩しく光っているのが分かる。ギャングは全員俺たちを追い詰めることしか頭に無かったようだ。急いで逃げた甲斐あって街中では大した被害もなく、祝祭フェスタが中止にならなかったことには正直ほっとした。

 問題は、今追って来ている数十人のギャングスタをこぞって無力化出来るかどうかなのだが。

「隠れててもいいんですよ」

「いいよ。何かやるんだろ? 取りこぼしがあったら手伝ってやる」

「頼もしい。さすが俺の女神」

「女神ってなんだ」

「アズのことです」

「むずがゆいからやめろ」

 そんな軽口を叩いているうちに、わらわらと屋上に雪崩れ込むようにギャングスタ共が走り込んできた。走り込みついでに発砲されると構えていたが、奴らは俺たちを追い詰めた優越感からにやにやと笑いながら距離を詰めて来るだけだ。

 ――これで全員か?

「間違いねえ。こいつらですぜ」

 そう言葉を発したのは、今朝方アズにぶちのめされた奴の一人だ。残党を煽って来たっていうのはこいつか。

 俺たちを囲い込んだギャングが口々に怒りの声を上げる。

「お前らの所為で台無しだ!」

「コイツら売り捌けなくなっちまっただろーが!」

「特にそこのアマ! 代償は払ってもらうぜ!」

「代償もなにも、お前らがちょっかい掛けたのが発端だろうが。他人ヒトの所為にすんな」

五月蠅うるせえ!! 痛い目見せてやる!!」

 アズが煽ったことで頭に血が上ったのか、連中が一斉に銃を構える。

 いい陣形だ。俺を中心にして半円を描くように固まったギャングスタ共およそニ十人ほど。綺麗な円を形成してくれたおかげで、大分やりやすくなった。不可視の鎖を手元に出して、細く長く伸ばしていく。視えないっていうのは便利だな。相手からすれば、俺は丸腰にしか見えないんだから。

 撃て!! ――という合図が出る寸前、あらかじめ伸ばしておいた鎖を大きく横薙ぎにして、ギャングスタ共の胸のあたりを捕らえるように一斉に捕縛する。一網打尽という言葉がこれほどしっくりくることは他にないだろう。胸から腕にかけてを視えない鎖で拘束されたギャングスタ共は混乱状態に陥っている。当然だ。今、彼らの胸から腕にかけては、まるでその部分の感覚が消え失せてしまったかのように、自分の意志で動かすことが出来ていないのだろうから。

「何をした?」

「呪縛の一種ですよ。視えない鎖で拘束したものの機能を奪ってる」

 同じようにもう一度鎖を横薙ぎにして、今度は纏めて脚を拘束する。足の感覚が消え失せた奴らはそのままどうと倒れ込み、罵声を上げつづけるだけの芋虫と化した。

「縛られれば、自力で動くことが出来なくなる」

「それで一網打尽、てか。見事だな。その鎖、物理的な攻撃だけかと思っていたが」

「まあ、基本は。こっちは魔素マナの消費が激しいから、やりすぎるとしんどくて」

「なんで物理で締め上げなかったんだ?」

「だってほら、あの銃ぜんぶ旧遺物アンティークだし、いかにも高価たかそうで……」

 万が一にも弁償、なんてことになったら困る。切実に。

 兎も角、これで危機は去った。あとは調停ドーヴが駆けつける前にここからずらかるだけ――。

 グンッ

 振り向き様、アズに腕を引っ張られてその場から仰け反る。何が、と思ったのと同時、自分の立っていたところの混凝土コンクリートがとんでもない音を出して陥没したのが見えた。

「ヒェッ!? 何!?」

「迷彩だ」

 アズに引っ張られるままその場を離れる。

 真横から破裂音が二回響いたと思うと、次いで機械の砕けるような音がした。横を見ると、アズも旧遺物アンティーク所持者なのか、奴らの持っていたのと似た銃を構えている。撃ったのは光学迷彩の機器を壊すためだったのか、さっきまで自分たちのいた空間がジジジッと揺らぎ、そこに全身機械の人間の姿が浮かび上がってきた。

 サイバネティクスサイボーグ!?

「姿を隠して隙を窺ってたみたいだな。取りこぼしだぞ」

「すみません!」

 鎖を薙いだ時はあの半円の中にいなかったのか、その時から姿を消していたのか。不可視の鎖は拘束対象を視界に入れて、その位置を把握していなければ縛ることが出来ない。

 でもまさか、あのキマりきった軍団の中に光学迷彩で姿を消して静かにしてるサイバネティクスサイボーグがいるとは思わないだろ!!

「来るぞ」

 強く地を蹴る音。こちらに飛んでくるサイボーグに対し迎撃態勢に入る。

 鋭い音がして、アズの持つ銃と機械の腕がぶつかり合った。一瞬の静止を狙って鎖を薙ぐが、捕らえられたのは右腕だけだ。拳を受け流されたように見せかけて、アズの脚が今朝の要領で蹴りを頸部に叩き込もうとうねるが、それも寸でのところでかわされる。動きが速すぎて呪縛の方はこれ以上出来そうにない。物理的な打撃を試みて不可視の鎖を叩き込むが、四肢が微妙に削れるだけで完全に動きを止めることまでは望めない。

 サイバネティクスサイボーグは全身機械で出来ている所為で急所らしい急所は頭部しかなく、頭部を狙う以外で戦闘不能にするには腕や脚を破壊する以外ないのが厄介だ。

 とんでもない速さでの攻防が繰り拡げられているが、生身の状態でサイボーグの拳を避け、そのまま手首を掴んで背負い投げするアズには恐れ入る。一体どうしたらそんな芸当が出来るのか。彼女の身のこなしに今朝のように見惚れてしまいそうになるが、いけない。突っ立っていたら邪魔になるだけだ。それに、早くこいつをどうにかしないとずらかる前に調停ドーヴが来てしまう。それでは困る。

 何とか鎖で拘束し、左の腕も圧し潰す。しかし奴の動きは鈍らない。そのうちサイボーグは今度は俺を狙いすまして地を蹴り、一瞬のうちに肉迫してくる。鎖を使いすぎた所為で思考が麻痺して反応が遅れた。重たい蹴りが腹部に叩き込まれ、そのまま後ろに吹き飛ばされる。

「っおい!」

「――――っぐ、へいき、です」

 とは言ったが、吹っ飛んだ俺に追いすがるようにサイボーグが再度距離を詰めようと迫っている。先に俺を無力化することを選んだか。体勢を立て直す間もなく距離を取れない俺は、奴が殴り掛かる瞬間を狙ってどうにか呪縛で動きを止めようと構えた。

 だが、サイボーグが俺に辿りつく直前、俺が鎖を薙ぐより早く、その機械の身体は赤い閃光と共に爆発四散した。

 飛び散る火花と、砕け散る部品。辛うじて形を保った頭部だけが、がらんと硬質な音を立てて床に転がり落ちた。ぱらぱらと砕けたサイボーグの奥に見えたのは、こちらに向かって銃を構えた、俺の女神の姿。

「やっちまった……赤いと三倍速いけど威力の加減がなあ……」

 レースの仮面を外し、そう言いながら歩いてくる彼女の瞳が、また星屑を零すようにきらめいている。やっちまったと言うわりに彼女の声色はひどく愉しげで、そのまま俺の目の前にしゃがみ込むと、彼女は今朝と同じようにして俺の目の前に手を差し伸べた。

「私がお前を助けたのは二度目だな?」

「いや……ほんと、情けない限りで……」

「だがまあ、お前がそれほど足手纏いにならないらしいことも分かった」

「え?」

 彼女の手を借りて立ち上がると同時に、空の方から破裂音がした。さっきの状況が状況だったので一瞬びくっと身を強張らせてしまったが、目の端に映った鮮やかな光が、それが銃声でないことを教えてくれる。

「花火か」

 アズが呟き、そちらに目を向ける。

 夜空に次々に咲いていくのは、今夜の祝祭フェストでも目玉とされている花火だ。遮蔽物のないここからの眺めは一段と良く、その美しい色とりどりの光がさっきまでの緊張を徐々に解きほぐしてくれる。

「なあ」

「はい?」

「お前を旅に連れてってやる」

 花火のほうを見つめたまま、アズが俺にそう言った。

 一瞬何を言われたかが分からなくて、ぽかんと彼女の顔を見つめてしまう。

「なんだその顔。行きたくないのか?」

「え、いや、え!? い、行きたい!! 行きたいです!! でもあの、ほんとに!?」

「ああ。旅は道連れって言うしな。お前が一緒にいれば、またこういう良い景色が見られるかもしれない」

 にこりと笑う彼女の瞳からは、未だに金の光が溢れている。花火の色が彼女の頬に反射され、頬をすべって空気に溶けていく星の粒子がイルミネーションみたいに七色に瞬くのが、息を嚥むほどに美しかった。

 これから先、この目に映ることを許されたという事実に胸が高鳴る。

「そういえば、お前の名前は?」

 すっかり訊くのを忘れてた、と言って、彼女が首を傾げながら俺に尋ねる。

 そういえば、彼女のことを訊くのに夢中で、自分のことはほとんど話していなかったか。

「リィンです。俺の名前」

「リィン……」

 彼女は、俺の名前を確かめるように何度か呟いて、それからこう言った。


「星が瞬くような名前だな」


 瞬間、俺の脳はまたしてもとんでもない衝撃を受け、今度は鼻血こそ噴き出さなかったものの、あまりの尊さが心臓にクリティカルヒットをかまして思いきり跳ねた。頬に熱が集中して今にも逆上のぼせそうだ。このままいけばいずれ語彙力ボキャブラリも死ぬであろう。

 星の瞳を持った女神が、俺の名を、星が瞬くような名だと言う。

 だめだ、魔術も連発しすぎた所為もあるが、あまりにも嬉しすぎて頭が全く働いていない。脳を占めているのは溢れんばかりの多幸感と、やはりこのひとが俺の女神だという確信だけ。

 見たいもの、焦がれるもの、自分が終わりを迎えるその時、最後にこの目に映したいもの。どこにあるかわからないそれが俺の目の前に現れてくれたことは、きっと俺の人生最大の幸運だ。

 夜空を閉じ込めたような愛し仔の青ロビンズブルーの虹彩。星屑の如く流れ落ちる彼女の魔素マナ。今度は俺が、彼女の理想の景色を探す助けになろう。星の瞳が目蓋を閉じる、その瞬間まで。

 花火を嬉しそうに見つめるアズの隣で、俺は人知れず、そう固く決心した。


 いつか――彼女の求める理想郷を、彼女の隣で見るために。

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星と彼方のエンドスケープ 比良坂月子 @tetraptera

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