風のようにはなれないけれど
幸 石木
風のようにはなれないけれど
『遅くとも、2021年夏までに東京オリンピック、パラリンピックを開催すると……』
「……」
私はベッドの上で片足をさすりながら、テレビから流れる五輪延期のニュースを見ていた。
中止じゃなくて延期なら良かった、と思う人もいるだろうけど、私は素直にそう思えなかった。
「リカ、元気出して、来年はあるっていうなら良かったじゃない」
一緒にテレビを見ていたお母さんが、私の肩を叩いて元気づけようとしてくれる。
私は、それでいいけど。
私は今年、馬術競技でパラリンピックに出場する。はずだった。
だけど……。
私の相棒、ロータスは今年20歳になる。
******
この頃になると、馬術クラブの近くに桜が咲く。
舞い散る薄ピンクの花びらを鼻先に乗せて、こちらに首をかしげる馬たちに、私は毎年萌えを感じている。
いつもは馬房でぼーっとしているお馬さんたちも、どこか楽し気に、活発に動き出していた。
「ただの発情期だろ」
「先生、私まだ19なんで、にやにやしながら言うのはやめてもらっていいですか?」
「はは!よし!せーのでいくぞ…せーの!」
ぐわっと足を持ち上げられて、私はロータスの背中に跨った。
ロータスは私の、背が低いとはいえ45キロはある体重を難なく支える。
そんなロータスのたくましい背中に、私はずっと跨ってきた。
指の無い右手にリストバンドで固定した鞭をふるって、ロータスに指示を出す。
EからB、BからD……。
私とロータスは馬場に置かれた各ポイント間を
私は17歳の時に、右手の指と、右膝から下を病気で失くしてしまった。
小さいころから馬術を学び、大会でも優勝経験のあった私は、リハビリも兼ねてその後も馬術をやり続けた。
「あっ」
ロータスが躓き、私は大きくバランスを崩した。
どうにか落馬しなかったものの、馬場の外から見ていた先生がすぐに駆け寄ってくる。
「大丈夫か!?」
「はい、大丈夫です。あの……」
「やっぱり、ロータスはもう歳だ。まだ二時間ちょっと常足で歩いただけなのに、息が上がり始めてる。加えて息の入りも悪い。視力も落ちてきているようだし。やっぱり――」
「違うんです!私が、ミスをしたからです!ロータスのせいじゃ、ないです……」
私はそう言って唇を噛んで俯く。
「いいや違う。これはロータスの明らかな衰えだ。――君は代表選手なんだ。いつまでも年老いた馬にこだわっていては……」
「――そんなの、分かってますよ!!」
つい熱くなってしまって、今日の練習はそれで終わった。
ロータスは今年で20歳になる。
それは人間で言うと60歳くらいになる。おじいちゃんだ。
私が出会った頃、ロータスはまだ11歳だった。
『一個上のお兄ちゃんだと思って、安心して身を預けてごらん』
自分の倍以上も大きいロータスを見て、怖がっていた小さな私に、先生がそう言ってくれたことをよく覚えている。
「来年、無事に五輪が開かれるとしても、本番は馬を変えるしかないぞ」
その日の帰り、先生が私を呼び止めて告げた。
「どうしてもですか?」
私は語気を荒げてしまったと思う。
しかし先生は、私以上に強い口調で告げる。
「そうだ。ロータスはもって今年いっぱいだ。もう調子を整えるのも難しい。――君も分かっているだろう。ロータスでは良い成績は取れない」
先生の言うことは正しくて、何も間違ってなくて。
私は、何も言い返せなかった。
「……はい」
「新しい馬は用意しておく。それでいいな」
強い風が吹いて、杖を突く私の足元を揺らいだ。
夕方になれば、まだ冬の残りが体を冷やす。
「リカー!そろそろ行くわよ。帰りの値引きセールに間に合わなくなっちゃうわ!――先生それじゃ、またよろしくお願いしますね」
お母さんが私を呼んで、そして先生に頭を下げた。
「はい、それじゃまた、お気をつけて」
******
「リカ、どうしたの?」
「えっ?」
晩ご飯の後、塞ぎ込んでいた私に、お母さんが話しかけてきた。
「もしかして先生に何か言われた?」
「……うん」
「そう。……そんな時はこれよ、リカの好きな桜餅!」
お母さんは私の大好物、桜餅を私の前に置いた。
「いらない」
桜餅から桜肉を連想してしまった。
まったくもってお母さんは間が悪い。
「あらら……馬術の後にこんなに不機嫌なんてめずらしい」
「そうかな?」
「そうよ。リカは馬バカじゃない」
馬バカって、変なの。
「あ、笑った。やっぱり馬の話には弱いわね」
「……ねぇ、ロータスのことどう思う?」
「おじいちゃん馬。――あんた、ロータスで来年も頑張る気なの?」
こういう時のお母さんは、容赦がなくて好きじゃない。
「ううん……。新しい馬を用意するって先生が」
「だからか。ほんと馬バカね」
「馬バカ馬バカって。私は本気で悩んでるんだよ!?」
「……分かってるわよ。そういうところが馬バカって言ってるの」
お母さんは桜餅を手に取って食べ始める。
「桜餅でも食べて、すこし落ち着きなさいな」
******
「Accepted!」
審判員のコールが響いた。
今日のロータスは調子絶好調だった。
審判員のコンディションチェックを難なく通過し、私はロータスとパラリンピックの馬場に出る。
「リカもロータス号も最高の状態だ。このまま自由演目をトップで駆け抜けて、そのまま金メダルだ!」
私をロータスに乗せながら先生が言う。
「はい!頑張ろうねロータス!」
私は彼のふさふさのたてがみを撫で、硬い皮膚を叩く。
ひひんっと短く、彼はやる気満々にいなないた。
柵で囲まれたサークルの外を通って位置に着く。
音楽が流れ始めて、それに合わせてサークルの中に入り、すぐにピタリと静止する。
今までで最高の、キレイな静止。
そして私と彼のダンスが始まった。
軽くステップを踏むような速足。息を合わせてリズミカルに。
彼のしっぽもリズミカルに、美しく揺れる。
曲のテンポに合わせて、彼と私にしかできないダンスを踊り続ける。
私は彼の柔らかい足運びの邪魔をしないように、それでいて彼の手を取ってリードするかのように。
サークルの外の観客も審査員も、きっと私たちのダンスに夢中になっているはず。
曲の盛り上がりと共に、速足からスキップするような大きなステップへ。
そして曲の終わりと共に、ピタリとポーズを決めて、万雷の拍手が私たちを包む。
最高の一瞬がそこにあった。
「やったよ!ロータス!あなたのおかげ……」
そこに彼はいなくて、私はいつの間にか杖を突いて立っていた。
薄暗がりの中で、私は彼を探して、その名を叫ぶ。
ひひんっと彼のいななきが聞こえて、ひだまりの中に彼はいた。
二年前のあの日の彼が、私を待っていた。
「ロータス!」
私は彼の名前を叫ぶ。
そして私は彼の元へ駆け出した。杖はいらなかった。
彼は出会った頃の、私の倍以上も大きく、たくましいあの姿でそこに立っていた。
あの時の、鹿毛のきれいなロータスがそこにいた。
「ロータス」
いつの間にか、私は10歳の小さい私になっていて、けれど怖がらずに彼に近づいていく。
「ずっと私の、お兄ちゃんでいてくれたね」
私は、彼を強く抱きしめた。
「私が、病気で指と足を失っても、ずっと側にいてくれたね」
彼がだんだん小さくなって、今の彼の姿に戻る。
老いた彼の姿に戻る。
「ありがとう。……ごめんね。私、あなたがそんなになるまで、支えてもらってばっかりで。疲れちゃったよね。――だから、バイバイ」
私は彼を離し、自由にさせる。
「私、もう大丈夫だよ。私、もう、一人で頑張れるよ」
でも、彼はどこにも行かず、私の側に立っていた。
「いいんだよ。もう、お兄ちゃんじゃなくて、いいんだよ」
彼は私の顔を見て、私の涙をすくいとる。
そしていつまでも、私の側を離れなかった。
******
次の日、私は乗馬クラブに向かうと、まっすぐにロータスの馬房を訪れた。
「……」
夢で見た昔のロータスと今のロータスを比べる。
やはり、衰えは目に見えて現れている。
「ねぇ、どうしてあんな夢を私に見せたの?」
ロータスがそのつぶらな瞳を私に向けて近づいてきた。
昔と変わらない、まつげの長い、強気な瞳。
老いても変わらない、情熱の瞳。
そして馬房から鼻を出して、私に擦り付けてくる。
「よしよし。――ロータスもまだ、やる気だもんね」
「独り言をつぶやくにはまだまだ若いぞ、リカ」
「きゃっ!?」
いつの間にやら近くに先生が立っていた。
「今日は練習はないはずだけど、どうした?」
「……夢を見たんです、変な夢。――でもおかげで決心がつきました」
私はあの夢に、なぜか勇気をもらえたのです。
「私、来年もロータスと、パラリンピックに出ます」
あの夢での出来事を、正夢にしようと思うのです。
「リカ、昨日も話して納得しただろ。何度も言うけど、ロータスはもう――」
「私、ロータスとだから、ここまで馬術を続けられたんです。辛いことがあっても、乗り越えていけたんです。だから、せめてパラリンピックまでは」
風のようにはなれないけれど、彼と駆け抜けていきたいのです。
一つ大きくいなないて、ロータスが私の肩に顔を乗せた。
私はそれに、笑って応える。
一息に長い溜息を吐いて、先生はロータスを撫でる。
「おまえはホントに、一生のジョッキーに出会えたな。――リカ、本当にそれでいいんだな」
「はい!」
私は彼と、夢の舞台で踊りたい。
桜を散らす暖かな風が吹いて、花びらを馬房に連れてくる。
私とロータスの新しい一年が始まろうとしていた。
風のようにはなれないけれど 幸 石木 @miyuki-sekiboku
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