5
家には十時半頃についた。この時間なら母も起きているはず。唾を飲み込んで、わたしは重たい扉を開けた。
中は相変わらず薄暗く、空気が淀んでいるのが肌で感じ取れた。自然と、意味もなく、音を立てないように慎重に歩みを進める。
母は以前と同じように、ダイニングのテーブルに座っていた。椅子に腰かけ、何をするでもなくただうなだれている。その異様な光景に怖気づきながらも、わたしはなんとか声をかけるため近づいた。
しかし、わたしのその気負いも、数秒後には見事に打ち砕かれる。
母は、啜り泣いていた。どうして、どうして、とうわ言のように繰り返しながら。
その背中は記憶の中より数段弱々しく、少し押せば今にも折れてしまいそうだった。こんな、簡単に壊れてしまう。唇が震えて、上手く声が出せない。
わたしはたまらず母の手を掴んだ。
「おかあさん」
なんとか言葉になった五文字を、震える声で読み上げた。それでも、母の瞳はわたしを見ない。わたしを映さない。こんなにそばで、呼んでいるのに。
その後何度もおかあさんと繰り返し、そのたびに返事がないことに心が軋んだ。そして十回目くらいでようやく、母の目に光が戻った。
「…………茜?」
「お母さん」
その頃には、ほとんどすがりつくような体勢になっていた。
「お母さん、茜だよ、ここにいるからね」
ぎゅっと手に力を込める。何か、伝わるようにと願って。
ぼうっとしていた母は、そうしてだんだんと意識のようなものを取り戻していった。やがて再び泣き始め、「ごめんね、ごめんね茜」と繰り返すようになった。
そんな姿にわたしは、母を一人にしておくことは正解じゃなかったのだとようやく気づいた。いくら本人が一人になりたいと言っていても、無理矢理にでも引き連れて一緒に生活するべきだったのだ。
どうして、こんなことにも気がつかなかったのだろう。
息を吸う。
恐ろしく無音で薄暗いこの部屋で、わたしは母を抱きしめた。そして、ナミくんの家に連れて帰ろう、と、そう決意した。
連絡するには家の主人であるナミくんが好ましかったが、多分この時間はまだ熟睡中なので、仕方なくシゲくんにメッセージを入れた。でも、シゲくんはあまり携帯を見ない。課題に取りかかっているならなおさらすぐに返信が来るとは思えなかった。
その予想は的中して、わたしはしばらく近所の公園で母と二人で待つ羽目になった。あの家にいるのは精神の衛生上良くないと判断して、わたしが母を連れ出したのだ。ベンチに座っている母は、今は放心しているように大人しく、しかしまたいつ心が決壊するかと思うと気が気ではない。
返信を待ち望んでいると着信音が鳴ったので、わたしはほとんど反射的に携帯を掴んだ。けれど画面に表示されたのは美波からのメッセージで、「今すぐ話をしたい」という旨だった。
今はとても適切な状況には思えなかったが、美波がこんなメッセージを送るのは珍しい。何より最近の様子や香山くんの言葉を鑑みて、わたしは公園でなら、という条件つきで承諾した。
数分もしないうちに美波は公園にやってきて、母の姿を見ると怪訝な顔をした。顔色は普段通りに見えるけど、少し表情が硬い。
わたしは母に「ちょっと友だちと話してくるから、ここで待っていてくれる?」と訊いた。母は一度頷いて、ほんの少しだけ頬の筋肉が弛緩した、気がした。
わたしたちは母に声が届かず、けれど視界に入る場所まで移動し、立ったまま話し始めた。案の定美波は母のことを訊ねてきたので、あまり時間のないわたしは「ちょっと家庭で色々あって」と言葉を濁した。幸い、美波はそれ以上その話題に触れてこなかった。
「私、羽鳥に好きだって言ったの」
唐突に本題に入った美波に、わたしは言葉を失った。美波は構わず続ける。
「でも、羽鳥は他に好きな人がいるって……。だから、振られちゃった」
美波の目にじんわりと涙が滲む。そして、ほろ、ほろ、とそれは零れだした。やがて声を上げて泣き出した美波に、わたしはかける言葉を見つけられず立ち尽くした。
こんなの、どうすればいいんだ。
わたしまで泣きそうになって、顔を上げた美波の揺れる瞳と目があって、せり上がってくる罪悪感に、気づいたら母の手を掴んで逃げ出していた。
もうシゲくんの返事など待っていられない。早く、安全な場所に帰りたい。
その一心で、呼び止める美波の声も振り切った。
ナミくんの家に戻ると、廊下の奥から玄関まで、激しい口論の声が届いていた。もうすでに泣き出しそうなわたしは、今度こそ膝から崩れ落ちそう。
母をリビングのソファーに座らせ、恐る恐るナミくんの部屋へと向かう。ナミくんの部屋なんて、初対面のとき以来。
扉を数センチ開くと、普段の二人からは想像できない音量の声が耳を襲った。
「ナミは夢を見過ぎなんだよ。ロマンチックは小説の中だけだ。現実で大切な人と精神が溶け合えないだなんて、当たり前のことなんだよ」
「だからそう考えるのはその寂しさを見て見ぬ振りして生きてる大人のものだって言っただろ? おれはそんな悲しい大人、なりたくないね」
「なりたくないとかじゃないんだ、ならないと誰も愛せないだろう。俺はお前が大切だよ、ナミ。人間として。ナミの言葉を借りるなら、ナミの魂を愛してるよ。恋とか友情とかじゃなくて、純粋にナミの、魂を愛してるんだ」
ナミくんは苦しそうに叫んだ。
「おれはそれが受け入れられない! だって、そう感じていたって、結局おれはおれでしかないんだ。お前とは別の魂なんだ。おれは、どれだけ人を好きになっても、ひとりぼっちなんだ」
「…………ナミくん、シゲくん」
蚊の鳴くような声で、わたしは呼んだ。すでに、涙は溢れていた。
気づいた二人は一斉に口を止め、顔を強張らせてわたしを見る。
「なんで、上手くいかないのかな……。わたしの周りの愛は、なんで、こんなに上手くいかないのかな……」
お父さんとお母さん。美波と羽鳥くん。ナミくんとシゲくん。そして、わたしとみんな――。
絞り出した声は震えていて、余計に心を掻き立てた。喉が焼けるみたい。
「ハル、」
叫びに近い、でもさっきよりも切ない声で、ナミくんはわたしに抱きついた。
「おれはハルが大好きだよ。ハルって人間が好き。ハルの魂を、愛してる」ナミくんはわたしに擦り込むように、何度も繰り返した。「ハルは、おれに愛されてるよ」
ナミくんの言葉に、立ち尽くしていたシゲくんもはっとして、こちらに駆け寄った。そして、その大きな腕で、痛いくらいにわたしたちを抱きしめた。
「俺もだよ、ハルちゃん。俺もハルちゃんが大好きだ。ハルちゃんの魂も、ナミの魂も、どっちも俺には大切で、どっちも大好きだ」
「おれたち、血は繋がってないけど、家族だよ」
わたしは涙が止まらなかった。最早悲しいのか嬉しいのか、寂しいのか頼もしいのか、絶望しているのか幸福なのか、よくわからない。よくわからない涙を、わたしは流し続けた。延々と。多分、わたしの世界が一つ終わるくらいまで。ひたすら流し続けた。
その間中ずっと、二人の力強い腕は緩まらなかった。
泣き疲れて眠った翌朝、わたしは重い身体を引きずっていつものリビングに向かった。
扉を開けると部屋が眩しくて、わたしは目を細める。そして、光に目が慣れてくると、そこにはシゲくんがいて、ナミくんがいて、お母さんがいた。三人とも、テーブルに腰かけている。
「ハルちゃん、おはよう」
「おはよう、ハル」
「茜、おはよう」
春にふさわしい柔らかい声に、わたしは再び涙が溢れた。今度は、紛れもなく、嬉し涙だった。
苦笑したお母さんに連れられ、わたしはテーブルに座る。一晩経って、お母さんも落ち着いたらしい。「ごめんね、迷惑かけて」その言葉に、わたしはついに脱力した。
シゲくんは嬉しそうに朝食をよそう。しかしその横で、ナミくんはすでに何やら食べていた。
「おいナミ、何勝手に始めてんだ」
シゲくんが小突く。
「だって、昨日から何も食べてないし……。ちょうど冷蔵庫に入ってたから、食べていいのかなって」
ナミくんが口に運んでいたのは、先日わたしが羽鳥くんから受け取ったカップケーキだった。わたしがどうしようかと散々考えあぐねていた、カップケーキ。腐ってしまえと願った、カップケーキ。
わたしはおかしくて、なんだか馬鹿らしくて、思わず吹き出した。泣いていたわたしが唐突に笑い出したものだから、その場にいるみんなが目を見開く。わたしはそれがさらにおかしくて、発作みたいに笑い続けた。
同級生にもらったカップケーキは、甘い物好きの叔父に食べられてしまった。ロマンチックなんてありはしない。
でも、せめてカップケーキが腐る前に食べられたのは幸いだったんじゃないかな、と、ナミくんの幸せそうな笑顔を見て、わたしは思った。
ロマンチックは冷蔵庫の中、腐っていくのを待つばかり 朔 @Wasurenagusa_iro
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます