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 いつもの癖で扉を開けようとすると、珍しく鍵がかかっていたので驚いた。一瞬、部屋を間違えたのかと思って焦り、部屋番号を確認してそうではないとわかった。

 しばらく呆けていると扉が開いて、シゲくんが現れた。

「ハルちゃん? おかえり」

 鍵、持ってなかった? と訊ねるシゲくんに、そういえば大家さんから鍵をもらったのだったと思い出した。

「忘れてた」と呟くと、シゲくんは少し気がかりな顔をした。しまった、と思う頃には、「何かあった?」と訊かれてしまった。

「なんでもないよ。ちょっと勉強が忙しくなってきて、疲れてるのかも」

「そう?」

 そうだよ、と言って、わたしはリビングに上がった。ソファーにはナミくんが座っていて、シゲくんが淹れたであろうミルクティーをちびちびと飲んている。

「おかえり、ハル」

 まるで何かの合言葉のように、その声は優しく響いた。どうしてわたしの名前はハルじゃないんだろう。近頃はそんな考えばかりが脳裏にちらつく。

「ただいま、ナミくん」

 床に荷物を置いて、わたしはナミくんの隣に腰かけた。反発力の低いソファーに、わたしはまたも沈んでいく。悪いものを吸い取られていくように、急激な眠気に襲われて。

「ハルちゃん、紅茶だよ」

 キッチンから戻ってきたシゲくんは、両手に持っていたマグカップの片方をわたしに手渡した。

「お疲れだね」

「……うん。ありがとう」

 湯気が湿っぽくて温かくて、息を吹きかけて霧散したかと思うとすぐにまた立ち昇った。啜った表面はちょうどよく甘い。ほっとする。

「ちょっと詰めてよ」

 例の笑顔でシゲくんはそう言った。そうしてわたしがナミくんの方に詰めると、シゲくんは大きな身体をわたしの左隣にねじ込む。はは、狭いな、と笑うシゲくん。ぎゅうぎゅうと押し合って、反対の右隣では、小さな身体のナミくんが呻き声を上げている。苦しそうな顔を見て、くすりと笑ってしまった。

 なんだかわたしたち、歪な家族みたい。

 こういうことを思うのは、両親に失礼だろうか。失礼かもしれない。最近のわたしは、嫌なやつだ。

「なんかいいな、こういうの」

 背もたれに身体をあずけて、シゲくんが言う。

「冗談じゃないよ。おれは今にも潰されそうだよ」

「いや、そうじゃなくて」シゲくんが苦笑する。「なんかこうやって、花の金曜日って呼ばれる夕方にソファーでだらだらするの。ひとりじゃ虚しいけど、二人が一緒だと楽しいな」

 口を閉ざしたナミくん。少しむすっとしている。

「お、無言は肯定の意と取るぞ」

「うるさいぞシゲ。調子に乗るな」

「そんなこと言っていいのか? 今夜はキムチ鍋にするぞ」

 ナミくんの肩がびくりと震えた。

「それはずるい……」

 はは、とシゲくんが笑う。

「嫌なら、ナミが料理をできるようになればいい」

 うぐぐ、とナミくん。ついに言い返せなくなってしまった。

 シゲくんはいたずらに成功した子どもみたいに笑っている。からからと。

 この時間がずっと続けばいいのにって、思ってしまうのは、もしかしたらわたしだけではないのかもしれない。

 そう思うと、自然と顔がほころんだ。

「ハルちゃんがいなかったら、ナミはきっと生きていけないな」

「……ハルには感謝してるよ」

 二人がこちらに視線を向ける。

「……ナミくんは、生活能力が皆無だからなあ」

 これからも、この幸福な空間に、毎日帰ってこれればいいのに。――なんて。わたしはここの家の子どもではないから、いつか本当の家に帰らないといけない。お父さんの出て行ってしまった、本当の家に。愛のなくなってしまった、本当の家に。

 ――本当の家族って、なんだろう。

「なんかおれ、眠くなってきた……。ちょっと寝ていい?」

「なんだ、徹夜明けか?」

「うん……。やっとエッセイ、オーケーが出たんだよ。これでようやく、眠れる……」

 言い終わらないうちに、ナミくんは眠ってしまった。三角座りのまま器用に頭をソファーにもたれかけ、マグカップは太ももとお腹に挟まれて絶妙なバランスを取っている。中身がこぼれないようにそっと抜き取り、わたしはダイニングのテーブルまでそれを運んだ。

 空っぽのリビングを見て、コーヒーテーブルでも買った方がいいなと思う。夕方の陽光が射し込むこのフローリングも、嫌いではないけれど。

「じゃあ、ぼちぼち夕飯の準備でもするか」

 立ち上がったシゲくんが、ナミくんにブランケットをかけた。

 穏やかな三人のリビングに、夜のしじまがやってくる。


 翌朝、土曜日。いつもより長く眠っていた。起きると部屋は静かで、まだナミくんは起きていないのかなとぼんやり思った。

 かれこれ一ヶ月以上使用した客間はとても馴染み、もう自分の部屋のようだった。ちち、と外で鳥の声がする。窓に阻まれ音が遠い。

 リビングに部屋着のまま出ると時計の針は九時半を指していて、シゲくんがソファーでノートパソコンと向き合っていた。

 わたしに気づくと「おはよう、ハルちゃん」と笑い、朝食を作りに席を立ってくれた。手伝うよと言ったけれど、いいから座ってて、とソファーに座らされた。

 ソファーにはブランケットが放置されていて、そういえばシゲくんは昨夜、この家に泊まったのだと思い出した。部屋がないとはいえ、ソファーで寝かせた人を働かせて、かなり申し訳ない。やっぱり手伝う、と駆け寄って、わたしは紅茶を淹れた。

「ナミは今日、昼過ぎまで寝るだろうから」

 そう言って、シゲくんは形の整ったオムレツをラップで包んだ。仕事が終わって徹夜明けのナミくんは、泥のように眠る。まるで溜まった疲れを一気に削ぎ落とそうとしているようで、そうやって不規則な生活が生まれるんだとシゲくんによく怒られている。

 朝食はわたしの提案で、窓を開けてそのすぐ傍で食べた。さらさらと流れる風が頬に心地いい。暖かい朝だった。桜は完全に散ってしまったけれど、春の空はどこまでも青い。

「いい天気だな」シゲくんは早々にオムレツを食べ終えて、空を見上げていた。「こういう日は外に行きたくなる」

「じゃあ、ナミくんが起きてきたら三人で出かける?」

 うーん、とシゲくんは唸る。

「いや、やめとく。課題がまだたんまりあるんだ」

「そっか」

 わたしもオムレツを頬張って、完食する。

「じゃあ、わたしはお母さんのところに行ってこようかな」

 さわさわ、と風が吹いて、カーテンが微かに揺れる。この時間は陽射しが射し込まないけれど、部屋は十分に明るかった。

「それくらいなら、俺も一緒に行こうか」

 さりげなく、シゲくんは訊いた。春の空に視線を置いて、しかし意識はこちらに向けて。その横顔に、少しの間の後、わたしは答えた。

「大丈夫だよ。一人で行ってくる」

 言うと、そっか、とシゲくんは立ち上がった。わたしの分の食器も持って、キッチンで洗ってくれる。わたしはしばらくそのまま柔らかな風を受けて、踏ん切りがつくと、やっと着替えるために立ち上がった。

 支度を済ませて戻ってくる頃にはシゲくんは課題を再開していて、邪魔したら悪いかと静かに玄関に向かった。

「ハルちゃん、気をつけてね」

 靴を履いていると後ろから急に声をかけられて、わたしはびくりとした。けれど振り返るとそこにはわたしの好きなシゲくんの笑みがあって、なだらかに心は落ち着いた。

「行ってきます」と元気よく言うと、もっと大きな笑顔が咲いた。

「行ってらっしゃい」

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