3
その日の夕飯はカレーだった。ナミくんは甘口がいいと言い、シゲくんは辛口がいいと言い、だったら間を取って中辛にしようとわたしが言って、その場は無事に収まった。
「ナミくん、仕事は順調?」
向かい側に座っているナミくんは一人だけ水の消費量がおかしく、若干涙目になりながらくぐもった声を上げた。
「あんまり……。なんか、コラムは小説じゃないから割り切って書けばいいやってこの間思ったんだけど、それだとおれが書く意味ってなんなんだろうとか思い始めちゃって、もっと鬱屈としちゃって、もっと怒られちゃって……」
「小説家なのに、そういうのも書かなきゃいけないんだもんね」
「そうなんだよ、おれは小説家なのにこういう真っ当な仕事も引き受けなきゃいけなくて、でも真っ当に生きていけないから小説書いて生きてるのに……。なんか、堂々巡りだ」
わたしはじゃがいもを噛んで、上手くいかないもんだね、とこぼした。
「ほんとに……。世知辛い……」
「その調子で間に合うのかよ」割って入ってきたシゲくんは、福神漬けを鬼のように入れている。「なんでもいいから
「わかってるよ、でもそれじゃあ悲しいじゃんかあ」
うなだれるナミくん。ちらりとシゲくんを見る。でも、シゲくんは何も言わない。
カレーを大口で口に入れると、ごちそうさま、とすっかり完食した皿を片づけて、ベランダに一服しに行ってしまった。からから、と窓を開ける音が、なんだか遠い。
「シゲくん、どうかしたの?」
シゲくんの後ろ姿を見ながら、ナミくんに訊いた。
「シゲ? 別に、何も聞いてないよ」ナミくんはカレーを消費するのに必死のようで、コップの水をぐいっと飲んだ。「なんで?」
「いや、ただ、なんとなく。なんだろう。今日は、いつもみたく柔らかくないなって」
そう? と上目遣いでわたしを窺ったナミくんは、からあ、ともう一杯水を仰いだ。
「まあ、ずっと調子のいい人の方が怖いじゃん。疲れてるのかもしれないし。ハルがそう感じるなら、今日はそっとしておこう」
ナミくんにしては大人な対応に、わたしは面喰らってしまった。その隙にナミくんはルーを少し残した皿を下げ、ソファーにぐん、と沈んでいった。はあ、がんばった、と。
食卓に取り残されたわたしは急いでカレーを平らげ、ナミくんの隣に腰を下ろした。ちらりと見えるベランダでは、シゲくんが煙草を吹かしている。今日の夜空は、少し濃い。沈黙の、静かな色だった。
満腹で沈むソファーは逃れがたい睡魔を呼び寄せ、ナミくんはそれにいとも容易く屈していた。わたしは何とか堪え、まどろみの中、なぜか母の背中を思い出す。
そして、からから、と鳴る音で、はっと顔を上げた。
「なんだ、起きてたのか」
ベランダから戻ったシゲくんはカーテンを閉め、ソファーに置いてあったブランケットをナミくんに掛けた。その手つきはいつも通り優しくて、わたしはほっと一息つく。
「俺、これから片づけないといけない課題があるから。もう帰るね。ナミのこと、任せていい?」
うん、と頷くと、シゲくんは微笑んだ。
「ありがと。じゃあ、鍵、ちゃんと閉めてな。また明日」
荷物を背負って立ち去るシゲくん。玄関まで行って、じゃり、と靴を履く音がして、なぜだか妙に不安になった。
「やっぱり下まで送る」
リビングを出て駆け寄るわたしに、シゲくんはきょとんとした顔をする。
「いや、いいよ」
いいから、とわたしが靴を履くと、シゲくんはすぐに折れて、それ以上追求してこなかった。こういうところは、シゲくんのいいところだと思う。
玄関を出て、昨日大家さんにもらった鍵をかける。結局ナミくんは鍵を見つけられなかった。これを聞いたらシゲくんはまた大きなため息をこぼすだろう。そう思ってシゲくんの反応を待っていたのだけれど、鍵を見てもシゲくんは何も訊かなかった。
「シゲくん、何かあったの?」
階段を降りながら訊ねると、前を行くシゲくんはぎょっとした顔で振り返った。
「うそ、ごめん。出てた?」
「えっと……」意外な反応に、少し戸惑う。「なんかちょっと、ぴりぴりしてるなって気がしてた」
おずおずと言うと、シゲくんは「そっかあ」と脱力した。
「ごめんな、気、遣わせちゃって。全然、大したことじゃないんだよ」
言いながらも、シゲくんの瞳は陰って見えた。ゆったりと重い何かが流れる。その奥をどうにか覗こうとしていると、気づいたシゲくんが少し笑って、わたしに訊いた。
「ハルちゃんは、人ってずっと孤独だと思う?」
その問いは、先日のナミくんとの会話を思い出させた。ナミくん曰く、人間は精神的に溶け合えないから孤独なのだとか。
シゲくんがこんな話題を自ら取り上げるのは珍しい。
「ナミくんのエッセイ、読んだの?」
試しにそう訊くと、シゲくんはまたも驚いた顔をして、「そうだよ、よくわかったね」と降参の意を上げた。そして、なんかハルちゃん、変なところで鋭いの、ナミに似てきたなあ、と階段を降りたところで壁にもたれて煙草に火をつけた。こんなときも、シゲくんは少し離れて風下に立つ。
吹き出した煙はどんより重く、春の夜に溶けていく。
「ナミの言ってることもわかるんだけど、なんかそれって、仕方ないことだと思うんだよな。いちいち悲しんでたら、誰のことも愛せないじゃん」
シゲくんの目は細まって、だけど落ち着いている。何か大事なことを見極めようとしているみたいに。
「俺たちって、そんなにひとりぼっちかな」
煙を吐いたシゲくんの横顔を見て、わたしはしばらく考えた。まだナミくんの言葉を理解しきっていないわたしには、少し難しい。
結局シゲくんが煙草を吸い終える頃までたっぷり時間を使って、わたしは曖昧な答えを出した。
「人間が孤独かどうかはわかんないけど、ナミくんは、大人はそれを受け入れることができるんだ、とか言ってた気がする。だから、シゲくんがそう感じるのは、ナミくんに対してシゲくんが大人だってことなんじゃないかな」
最後の煙を吐き出して、シゲくんは伏せられた瞳で遠くを見つめた。目線の先は、足元のコンクリートなのに。
しばらく経ってから、シゲくんはわずかに微笑んだ。
「なるほどなあ」そうしてため息をつく。「やっぱナミはすごいな」
唸るシゲくん。わたしは、自分で言っておきながらもまだなんとなくしかわかっていない。人間は孤独で、ひとりぼっちで、でもそれを受け入れてなお誰かを愛せるのが、大人? そもそも、これはそんなに大事な問題なのだろうか。
わからない。でも、シゲくんは納得したみたいだから、結果オーライ。
「ナミの言い分、よくわかったよ。ありがとう、ハルちゃん」
柔らかく笑うシゲくん。中学生のわたしにも妥協して話さない。シゲくんのかっこいいところだ。わたしは、どういたしまして、と微笑んだ。
そのあとシゲくんはバイクに乗って、戸締まりしっかりな、と夜の街に消えていった。その後ろ姿を見送りながら、シゲくんは好きな人でもいるんだろうかと考えた。
いるのだとしたら、さっきの結論は少し、悲しいなと思った。繋がることのない両者の精神。愛し合っているのにひとりぼっち。それを、受け入れられる大人なシゲくん。
ちょっとだけ、夜が滲んで恐ろしかった。
学校が始まって三度目の火曜日。美波のクラスは調理実習があったらしく、休み時間にカップケーキをおすそわけしてもらった。授業で疲弊した脳に甘いチョコレート味は快楽で、思わず顔がほころんだ。
「茜ちゃん」
カップケーキを頬張りながら、顔を上げると羽鳥くんがこちらに向かって手を振っていた。よくわからずに振り返すと、彼は嬉しそうに駆け寄る。
「これ、調理実習で作ったんだ。そういえばバレンタインのお返ししてなかったし。ちょうどいいかなって」
そう言った彼の手元を見ると、口ぶりに不釣り合いなほど丁寧に包装されたカップケーキがあった。袋に描かれたクマと目が合う。
思わず一歩引いてしまった。
バレンタインなんて、二ヶ月近く前。少ない友達全員に配ったチョコも、一人小さな二口分。なのに、今さら、お返し。
わたしは口の中に残る美波のカップケーキを飲み込んで、恐る恐る受け取った。
「ありがとう……」
ちらりと羽鳥くんの顔を見るとにこにこと笑っていて、目がやけに熱っぽく見えたのは、わたしの思い過ごしだろうか。
嫌な感じがして、微妙な笑みを残してその場はすぐに立ち去った。横目に見た美波の表情は読めなくて、余計にわたしの胸をざわつかせた。
その日の昼休みは美波と一緒に昼食を摂ったけれど、特に変わった様子はなかった。そもそも美波が羽鳥くんを好きだという確証もないのだから、なんだか一人芝居をやっているのではないかともやもやする。きっと、カップケーキが甘すぎて胃もたれしているんだ。言い聞かせた。
しかしわたしの願いをよそに、羽鳥くんはその日以来頻繁に話しかけてくるようになった。友だちである以上邪険にするわけにもいかず、わたしはどうにもできずに曖昧な顔で対応し続けた。
さらに羽鳥くんはわたしと美波が話している間にも遠慮なく入ってくるので、わたしは気が気ではなかった。美波も羽鳥くんもわたしの友だちで何も問題はないはずだし、美波の様子もいつも通りなのだけど、その状況がわたしには一層もどかしかった。
いっそ全部が勘違いで、わたしの自意識が過剰なだけだったらいいのに、なんてことを願い始めた。
そんな中、数日が経った金曜日の放課後、わたしが校舎を後にして花壇の横を通っていたとき、茜先輩、と後ろから声をかけられた。振り返ると、例の写真部の一年生が立っていた。確か、名前は香山くんだったか。
「すみません、名字がわからなかったので」と苦笑しながら頭を下げる姿は、まさにこれから青春に挑む少年の輝きを放っていた。わたしは青春真っ只中のはずなのに、なんだか眩しい。
「いいよ、呼び方なんて気にしなくて」
言いながら、本当は自分が一番気にしていることに気づいていた。茜先輩、なんて。ハルの方が、よっぽど響きが綺麗。
「確か、香山くんだよね。どうしたの?」
「あ、えっと……。実は、この間写真部と一緒に公園に行ったじゃないですか。それで、僕も被写体として茜先輩を撮ってみたいなと思ったんですけど、どうにも声を掛けづらくて。さっき茜先輩が通りかかるのが見えたので、これはチャンスだと思って」
声をかけたんです。
きらきらと目を輝かせている目の前の香山くんからは、物凄い気負いを感じた。こういう熱意が、写真を引き立てるのかもしれない。
それにしても。
「わたしを撮りたいの?」
「はい」
そんなことを言うのは美波くらいだったので、少し驚いていた。
「なんでわたし? ポーズの取り方とか何もわかんない、ただの素人だよ?」
「いいんです、それで。茜先輩は、目が綺麗なので」
言われて、固まってしまった。目が綺麗なんて、香山くんの方がよっぽど似合う言葉だ。
「茜先輩は、深いんです。目の底が。考えの深い人は目も特別で、上手く言えませんけど、同じ世界にいるのに、全然違う世界を見ているような目をしているんです。なんでも見極めてしまうみたいな」
ナミくんのことだ、とすぐに思った。ナミくんは、いつもそんな目をしている。文学者の、特別な陰りをたたえた瞳。
もしかして人は、何かを考え続けている人に惹かれるのだろうか。だとしたら、わたしの目はきっと、今はとっても魅力的に見えるのだろう。
「ごめん、被写体はできない。わたしは、香山くんの写真に写るような特別な人じゃない」
わたしは、ただの普通の中学生だ。
顔を上げると、二人の間を風が通り過ぎた。桜はもうほとんど散ってしまって、でも春の匂いは風に残っていた。
「そうですか……」香山くんは残念そうに笑う。「じゃあ、仕方ないです。無理なことを言って、すみません」
わたしの方こそ、ごめんね。
お辞儀をして帰路につこうとすると、「そうだ、茜先輩」と再び声をかけられた。
そして香山くんの口にしたその内容に、わたしは頭からみるみると血が抜けていくのを感じた。
「最近、部長の調子が悪いみたいなんです。なんだか元気がなくて。でも話しかけるといつも通りの部長で、僕の思い過ごしかなと思ったんですけど。――茜先輩は部長と仲がいいみたいですし、何か知っているかなと思って」
「……ううん、何も知らない」
狼狽えながらもなんとか言うと、香山くんはいえ、こちらこそすみません、と会釈した。
わたしは、どうすればいいのだろう。香山くんと別れて、まだ明るい帰り道を、ぐるぐると終わりのない思考に捧げながら歩いた。
街の中心へと伸びる坂道を降りていく。この坂の途中にある道を曲がってすぐのところに、ナミくんの家がある。なんだか最近では、もうこちらが我が家なような気がしていた。
本当の家があるであろう、眼下の街が遠い。
歩きながら、羽鳥くんにもらったカップケーキを思い出した。受け取ったその日はどうすることもできず、ナミくんの家に帰って冷蔵庫の奥にそのまま突っ込んだ。あれから数日。手作りの贈り物は腐ってしまっただろうか。
いっそ腐ってしまったら捨てられるのに。そう考えている自分に、激しい嫌悪が湧いた。
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