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 翌朝、客間で目覚めるとわたしはいつも通り朝食を作り、少し早めに家を出た。ナミくんに声をかけると「いってらっしゃい」と返事が返ってきたので、今日はきちんと朝ごはんを食べてくれるかもしれない。

 階段を降りて学校とは反対の方向に五分ほど歩き、十五年近く過ごした我が家が見えた。ナミくんのアパートと比べると随分と立派な一軒家だが、久々に門の前に立ってみるとやけにみすぼらしく見えた。

 鍵を開けて中に入る。廊下は暗かった。母はまだ起きていないのか、物音一つしない。

 リビングやキッチンにはやはり誰もおらず、そのまま階段を上がって自分の部屋に入った。今日から授業が始まるのに、教科書を何冊か置いたままだということを思い出したのだ。探り当てて、薄手の洋服も何着か掴む。

 手提げに荷物を詰めて部屋を出る。すると、扉を閉めたところで部屋着姿の母と鉢合わせた。表情は暗く、目に生気がない。こんな母は初めてだった。少し、緊張する。

「あら、おはよう」

 掠れた声は、アルコールのせいだろうか。力なく、聞き取りにくい。

「……おはよう」

「冬哉のところはどう?」

 ナミくんのことだ。本名なのに、なんだか新鮮な音に思えた。

「楽しいよ。わたしの知らないこといっぱい知ってるから、話が面白い」

 そう、と母は言うと、「あの子、生活能力がないから、きっと茜も大変だろうと思ってたの」とこぼした。

「私がしっかりしてないばっかりに、ごめんね」

 母は生気を吐き出しているのではないかと心配になるほど重々しいため息をつき、ゆったりと階段を降りていった。随分と痩せた後ろ姿を眺めて、わたしはなんと声をかけるのが正解か、ずっとわからないでいる。

 父と母の離婚が決まってから、そろそろ一ヶ月が過ぎる頃だった。昔から父は気性の荒い人で、彼が暴れまわるたびに母は手を焼いていた。その限界がついに訪れたのだと思う。三月の頭、母から別れを切り出すこととなった。父はすんなりとそれを受け入れ、母は大変参っていたらしく、しばらく一人で過ごしたいと、わたしを春休みから叔父のナミくんの家に預けている。

 母をダイニングのテーブルに落ち着けるとお茶を淹れ、しばらく彼女の対面に座って過ごした。どうするのが正解か、どうすることも今は正解にならないのか、何もわからない。せめて、傍にいることが正しいのかと思った。

 リビングは変わりないようで、不自然なほどに物が移動していない。わたしがナミくんの家に移った頃と、ほとんど同じ状態だった。薄暗いこの家で、何もせず、ただこうして過ごしていたのだろうか。ぞっとした。

 ち、ち、と時計の音ばかり大きく聞こえて、十分くらいそうしていると、学校に行かなければならない時間がやってきた。立ち上がって、「学校、行ってくるね。また来るから」と聞こえているのかわからないけれど囁くと、少しの間のあと、「ごめんね。ありがとう、茜」と、部屋の暗がりに紛れて表情の見えない母が言った。

 普通なら、母の声で名前を呼ばれて少なからずほっとする場面だと思う。でも、わたしは何かがおかしいのか、呼ばれ続けてすっかり自分の名前は「ハル」だと思っているのか、全然安心できなかった。それどころか、なぜか不安がじわじわと胸を覆った。茜、という響きが、違和感のように引っかかる。自分の名前だというのに。

 嫌な感覚を抱えたまま、わたしは家を出た。外は春らしく朗らかで、なんだか胸焼けがした。


「写真部の被写体を頼めない?」

 学校が始まって一週間ほど経って、わたしは美波に頼まれた。被写体自体は一年生の頃からよく美波に頼まれていたので別に構わなかったけれど、今回は新入生からも希望があれば撮らせてあげてほしいとのことだったので少し緊張していた。

 集合場所は学校の近所にある公園で、桜を撮り収めるのが目下の目標らしい。被写体のわたしは余裕があれば、という程度の心構えでいいと伝えられた。

 放課後公園に到着すると、美波の合図で部員が思い思いの場所に散っていった。今年は新入部員が三人入部し、内一人が有名な写真家の息子らしい。みんながそわそわと視線を送っていたので、誰がそうかはすぐにわかった。

 向こうで背の高い桜の枝をレンズ越しに覗いている、まだ学ランがパリッとしている少年。香山くんと言うらしい。目がきらきらと、景色を切り取ろうとしていた。

「彼も、たまったもんじゃないよね」

 横から話しかけてきたのは、副部長の羽鳥くん。重たそうなカメラを手に抱えて、写真を確認していた。

「たまったもんじゃないって?」

 訊くと、羽鳥くんはきょとんとした顔を上げ、眉を下げ笑った。

「だって、父親が有名ってだけであんなに注目されて。僕だったらいやだなあ」

「確かに」

 なるほどと言葉を飲み込んでいると、羽鳥くんは、茜ちゃんは? と目を細めた。

「茜ちゃんは、確か叔父さんが小説家だよね。そういう視線、嫌に感じたことない?」

 訊ねる瞳がやけに真剣だったので、これは真面目に答えなくてはいけないものだと直感した。少し考える。

「……わたしは別に、辛く思ったことはないよ。ナミくんとわたしは親戚同士だけど違う人間だし、それを無理やり関連づけてなんでも考えようとする人は、それがわかってない人なんだよ」

 いつか、ナミくんが言っていた。血の繋がりがあったって、違う人間なのだと。血の繋がっていない他人と何も変わらないのだと。人の繋がりは、血ではなく心で決まるのだと。なんとなく、その意味が今、わかった気がした。

「だから、本当は有名な写真家の子どもだから写真が上手いとか、有名なバイオリニストの子どもだから演奏が上手いとかじゃなくて、その子がただすごいんだって、ことなんじゃないかな。って、なんか話が逸れてるね、ごめん」

 自分でもよくわからないけれど多くを語っていたらしく、羽鳥くんは呆然とわたしの方を見ていた。わたしは急に恥ずかしくていたたまれなくてしばらく黙っていると、羽鳥くんは、そうか、そうだよね、と何かとても得心していた。

「ありがとう、茜ちゃん。なんか、ちょっとすっきりした」

「あ、そう? だったら、よかった?」

 変な語尾になったけれど羽鳥くんは気にしておらず、ただ、瞳の奥が少しだけ明るくなったので、まあよかったのかと思った。そういえば、羽鳥くんのお父さんも有名な会社の社長だったような気がする。けれどよく思い出せなかったので、関係ないかと思考をやめた。

 会話が途切れてさわさわと風に吹かれていると、茜、と日向の方で美波が呼んだ。わたしは羽鳥くんに別れを告げて彼女のもとへと向かう。

「茜ちゃん、ほんとに、ありがとね」

 最後に羽鳥くんがそう言って、わたしは会釈して美波と合流した。

「羽鳥と何話してたの?」

 興味深そうに話題を振る美波は、わたしを桜の樹の下に置いて数歩離れた。

 どんな話をしていたのかと訊かれても上手く形容できず、わたしはしばらく唸って、「なんか、わたしたちは誰が親とか関係なく、ただすごいんだ、って話?」と言った。我ながら意味不明な回答だった。

 さすがの美波も今回は意味を汲み取れなかったようで、ファインダー越しに怪訝な顔をしていた。ぱしゃ、ぱしゃ、とカメラのシャッター音が連続で鳴る。

「よくわかんないけど、なんとなくわかった気がする」

「ほんと?」

「たぶん」

「すごい」

「友だちだからね」

 なるほど、と言ったものの、自分と美波の立場が逆になったとき、同じことができるとは思えなかった。やっぱり美波がすごい。

「羽鳥の写真、見せてもらった?」

 位置を移動しながら、美波が訊く。わたしは首を横に振る。

「見せてもらいなよ、きっといい写真撮ってる」

「そうなの?」

「きっとね。羽鳥はすごいから」

 美波は、嬉しそうに、柔らかく笑う。

 なんとなく、美波は羽鳥くんが好きなのだろうな、と思う。なんとなく。

「じゃあ、最後に一枚」

 腰を落として構えた美波の髪に、桜の花びらがひらひらと落ちた。逆光でよく見えなかったけど、髪飾りみたいで可愛かった。

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