ロマンチックは冷蔵庫の中、腐っていくのを待つばかり
朔
1
朝。目をさましてから、キッチンへ向かう。パンを焼いて、卵を焼いて、ソーセージを焼く。
そうして油の匂いがほのかに部屋に充満した頃、ベランダにつながる窓を開けて、皿に並べた目玉焼きとソーセージを、パンに挟んで頬張る。窓のそばに座ると四月の風が優しくて、季節の匂いが乗った空気は柔らかくおいしい。
食べ終えて皿を片づけると、容器に詰めてある砂糖が残り少ないことに気がついた。棚にしまっておいた砂糖の袋を取り出して、注ぎ足す。
「ナミくん、ごはんできたよ」
できた料理をサランラップで包んで冷蔵庫に仕舞い、廊下の先にある叔父の部屋をノックする。この時間ならば、多分彼は徹夜明け。情緒があやしい時間だ。
やはり、ノックしてしばらく待っても、返事がこなかった。
「ナミくん、ごはん、冷蔵庫に入れておいたからね。ちゃんと食べてね」
しかし返事はない。ときどき、扉の向こうで死んでいたらどうしようと思うことがある。でも、大事な仕事に水を差すのもなんだか気が引けるので、わたしは滅多にこの扉を開けない。
諦めて学校に行く支度をすると、玄関で物音がした。髪を結びながら来客を確認する。シゲくんだった。
「なんだハル、また鍵かかってなかったぞ」靴を脱ぎながら、背の高く恰幅のいい男がやれやれと息を吐いた。「強盗が入ってきたらどうするんだ」
シゲくんはナミくんの幼馴染。大学生で、たしか社会学かなにかを研究している。短髪のとげとげした頭は、この間触らせてもらったけれど、案外柔らかい。
「大丈夫、盗むものなんてないから。それに、ナミくんが鍵を失くしたって」
襟を整えてそう言うと、シゲくんは大きなため息をついて、ずんずんと廊下を奥に進んだ。
「おい、ナミ開けろ」
そうしてナミくんの部屋の前に立つと、先ほどとは打って変わって、低い地鳴りみたいな声を出した。
「どうせ起きてんだろ。起きないと今度から本の買い出しやめるぞ」
シゲくんの言葉に、扉の奥でガタッと大きな音が鳴った。よかった、ナミくん生きてるみたいだ。
ばたばたと音を立てて扉が開くと、中からぼさぼさ頭の背の低い男が泣き喚きながら雪崩てきた。
「それはないよシゲ、おれが外嫌いなの知ってるじゃんか」
「鍵、失くしたんだって?」
出鼻をくじかれ、うう、と言い淀むナミくん。深いクマの上にある大きな目が伏せられ、泳ぐ。シゲくんはナミくんの扱い方をよくわかっている。
「……わざとじゃないよ。だって、使わないから」
「だってじゃねえ。ハルちゃんいるんだぞ。お前一人ならまだいいけど、危ないだろうが」
「でも、おれが常に家にいるから、別になくても……」
「そういう問題じゃないだろう」
顔も声も恐いけど、シゲくんは絶対に怒鳴らない。だから、こうして毎日のようにナミくんを叱りにくるシゲくんを、恐いと思ったことはない。
大きなシゲくんと小さなナミくんは並んでいると少し親子みたいで、仲がいいなあ、としみじみ思った。
二人はそれからも口論を続け、その間にわたしは支度を済ませた。
「ナミくんシゲくん、行ってくるね」
廊下の先に向かって声をかけると、二人揃って「行ってらっしゃい」とこちらに手を振った。
小さく手を振り返して玄関を出て、白く塗装されたアパートの階段を降りる。道に出ると桜の花びらが視界の上をひらひらと舞い、今日から新学期が始まることを告げているみたいだった。
通い続けて三年目の中学校は、ナミくんの家から徒歩十分くらいの距離にある。ちち、と鳥が鳴き、さわさわと桜の枝が揺れる。この通学路には慣れたけれど、桜を見ながら通るのは、初めてだった。綺麗だ。
「茜」と後ろから声がかかり、振り返る。自転車を降りて近づいてきたのは、去年同じクラスだった友だちの美波。おはよう茜、ともう一度呼ばれる。
おはよう、と返して、久々に呼ばれた自分の名に妙に驚いた。
――ナミくんやシゲくんが呼ぶハルという名は、小説家であるナミくんが勝手につけたものだった。初対面のその日もナミくんはあの廊下の奥の部屋に独り籠り、鬱屈とした形相でノートパソコンに向かっていた。声をかけるのも憚られる様子だったけど仕方がないので名乗ると、怪訝な顔をされ、「君は茜って顔じゃないよ」と断言された。じゃあどんな名前が似合う顔なのかと訊くと「ハルって感じ」と言うので、音が柔らかくて気に入ったわたしは以来、あの家では「ハル」として生きている。
春休みの間はずっとナミくんの家で過ごしていた。だからか、茜、という響きは耳に新しく、どこかぎこちなく聞こえた。
「そういえば茜、通学路この道だっけ?」
美波が訊く。ショートカットが揺れて、少し、桜みたいな音がした。
「ううん。二年が終わってから、叔父さんの家にお邪魔してるの」
「へえ、それまたなんで」
澄んだ瞳で訊ねられ、どきりとした。
「ちょっと、家が忙しくてさ」
言うと、美波はああ、と目を伏せた。
「そっか。じゃあ仕方ないね。ていうか、クラスまた一緒になれるといいね」
そうだね、と返して、気を遣わせてしまったな、と反省する。
美波はその後部活の話を展開し、どうやら今年は凄腕の一年生が入ってくるらしいとわかった。まとめられるか心配だ、と部長の彼女は言いながらも、目は期待に満ちていた。
その輝きに、今日はせめて家に帰ろうかな、となんとなく思った。
始業式が終わり、クラスの離れた美波に声をかけようと隣の教室を覗くと、「今日は部活のことで顧問の先生と話があるから、先に帰って」と言われた。彼女の率いる写真部は毎年様々な賞を受賞している力ある部ではあるけれど、初日からそれほど忙しいのか、と少し驚いた。
期待の一年生とやらに鼓舞されて、力んでいるのかもしれない。「頑張りすぎないでね」と声をかけ、言われた通り、一人で帰ることにした。
帰り道、惰性で足がナミくんの家に向かっていたところ、そういえば今日は家に帰ろうと思っていたのだっけ、と思い出した。でも、空が青くて午後が麗らかだったので、やっぱり一旦ナミくんのところに戻ってからでもいいかな、という気になった。こういう天気のときは、あのベランダから眼下の街を眺めるのが気持ちいいのだ。
アパートの五階にある玄関は相変わらず開いていて、「ナミくん、帰ったよ」と中に向かって叫ぶと、「はあい」と声が返ってきた。どうやら部屋から出てきているらしい。
玄関にシゲくんの靴はない。いつも通り、ナミくんの説教を終えて大学に向かったのだろう。
靴を揃えて廊下に上がると、向かって右側の部屋にリビングとキッチンがある。その、家具もまともに揃っていないリビングで、ナミくんはラップを剥がして目玉焼きとソーセージを頬張っていた。
「おかえり、ハル」
食べ物を咥えていても伝わるその響きは、ナミくんの柔らかい声がさらに優しくなって、わたしはとても好きなのだ。
「ただいま。お仕事は、上手くいったの?」
荷物を置きながら訊くと、眠たそうだったナミくんの表情は一気に冴え冴えと青ざめていった。
「きいてよハル、今度のコラムにエッセイを載せろっていうから気合入れて書いたのに、内容が怨念こもりすぎてて気持ち悪い、全文書き直せって言うんだよ」
どうせ誰もおれの気持ちなんてわからないんだと喚くナミくんは、いつも通り絶好調。調子のいいときはだいたいこうしてフローリングの上でじたばたと暴れている。その姿は小説家というよりは詩人のようで、わたしは彼を宥めながら昼食の準備を始めた。
初めてナミくんを見たときは、彼が少しおそろしかった。ぼさぼさに伸びた前髪の奥には暗闇をたたえたまんまるの双眸が覗いて、部屋が薄暗かったせいかやけに光って見えた。見つめられると自分の中をすべて見透かされているみたいで、これが文学者の目か、と唾を飲んだのを覚えている。
そうしてあのときに感じた作家の片鱗は、普段はナミくんの小さな身体になりを潜めているようで、一緒に暮らしているとときどき姿を現すことがあった。
「ハルだって、人間がほんとうのところで独りじゃなくなる瞬間なんて、あるわけないと思わない?」
このように。
「どういうこと?」
訊ねると、ナミくんはぜつぼうした瞳をこちらに向けた。そうして、中学生にも伝わるように言葉を選ぶため、少しの間沈黙した。
わたしはナミくんの操る言葉が好きなので、スパゲティを茹でながら、彼の言葉をしばし待つ。
春の午後がナミくんのいる場所にありったけの陽射しをやさしく注ぐ。伏せた瞳はフローリングを見つめ、しかしここにはない遠くを見つめている。ひだまりで思考する彼は、立派な文学者だった。
ぐつぐつ、と熱湯が音を鳴らす。
やがてスパゲティが完成してナミくんの隣に腰かけると、風に乗って声が届いた。
「人間って、肉体的にはいくらでも近づけるけど、精神的にはずっとひとりぼっちだなっておれは思うの。世界で一番愛し合ってる二人でも、心が通じ合ってる二人でも、魂は別々のものだから、二人の精神が溶け合うことはないんだよ。一緒にはなれない。ずっと孤独、ひとりぼっちだ」
それがすっごく寂しいことだなって、おれは思うの。ナミくんはそう言った。
わたしはなるほど、と言いながら、スパゲティと言葉を咀嚼した。しかし、ナミくんの言っていることは多分、よくわかっていない。いつものことだけど、ナミくんは当たり前のことを、大げさに言っているだけなのではないかと感じることがある。今回もその一例。
でも、そういうときは大抵、あとから振り返って、その本当の意味を実感することが多い。だからきっと、ひとりぼっちで寂しいというのも、近いうちにわかる。
考えて、わたしは残りのスパゲティを平らげた。
「ナミくん、さっきのをエッセイとして書いたの?」
「そうだよ」徹夜明けの酷い顔でナミくんは振り返る。「でも、こんな当たり前のことで悩んでる暇があったら、もっと読んでいて楽しいものを書けって言われたんだ」
「じゃあその人は、きっと孤独じゃないんだね」立ち上がって、わたしは二人分の皿を洗いにキッチンに戻った。
わたしの言葉に目を丸くしていたナミくんは、しばらくすると、そっか、大人はそういうのを諦めてるから、受け入れられるし孤独じゃないんだ、と何やら納得したように呟いた。ナミくんも年齢的には大人であることは、言わないでおいた。
その後、すっかり家に帰ることを忘れていたわたしはリビングに唯一ある家具、ソファーの上でうたた寝し、静かに夕方を迎えた。
物音がして目を覚ますともう六時半で、シゲくんが玄関から入ってくるところだった。まだ鍵見つからないのかと小言を言いながら、シゲくんは奥の部屋に籠っていたナミくんを引っ張り出してくる。ナミくんは捕らえられた猫のように不機嫌そうだった。
それから、仕事が終わっていないと渋るナミくんの尻をシゲくんが叩き、三人で夕飯の準備をし、三人で食べた。皿洗いが終わってすぐにナミくんが部屋に戻ると、シゲくんはひと仕事終えたようにベランダに一服しに向かった。
その横顔が少しやつれて見えたので、わたしは後を追ってベランダに出る。
「シゲくん、忙しかったら毎日来なくてもいいんだよ?」
わたしに気づいて風下に回ったシゲくんは、ふー、と淀んだ煙を吐き出した。
「いいんだよ、俺が来ないとあいつ、多分飯も食わないだろ」
苦笑したシゲくんは、ほのかに煙草のにおいがする。大人のにおい。じじ、と火が鳴る。
「それに、ハルちゃんも心配だから」
「わたしは大丈夫だよ。ご飯だって、わたしが作れるよ」
言うと、シゲくんは微笑んだ。目尻がくしゃっとなるこの笑い方が、強面のくせに優しそうで、わたしは好きだった。
「あんまりなんでも
大事な親友の姪っ子なんだし、と言って、シゲくんは火を消した。親友の姪なんてただの他人の気がするけど、シゲくんが言うとなんだかとても親しい関係のように聞こえてくるから不思議だ。
シゲくんは部屋に戻ると、じゃあ俺は帰るわ、と言って、早く鍵見つけろよと奥の部屋のナミくんに念を押した。わたしはしばらくベランダに残って、煙草の残り香を嗅いでいた。やがて水のようにひんやりと冷たい風が通って、においはどこかへ連れ去られた。
静かな春の夜はしんしんと深まり、街は月の光をたたえていた。
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