序章
第一部『初対面』
城ヶ崎冷夏は、その名の通り、冷たい心と、夏のように熱く煮えたぎる欲望を兼ね備えた人物だと思う。少し言葉を交わしただけで、あの女の価値観が狂っていることだけは理解できた。
それは、突然の夕立に見舞われた、四月二十日の出来事。
夕食の買い出しで、家から徒歩中数分のスーパーに行った俺は、傘を忘れたので、店の前で雨宿りをしていた。
「こんにちは、菊地直哉くん」
「……えっ、と–––」
目の前に現れたのは、雨に打たれてびしょ濡れになった城ヶ崎冷夏。
感情の篭っていない声音で、しかしどこか気さくな挨拶をしてきたが、勿論、以前に会話をしたことなど無い。
ほぼ初対面といっても過言では無い相手に戸惑い、加えて紫色の下着が透けて見えていたので、俺は慌てて視線をそらした。
「あら、案外シャイなのね。大きな体の持ち主なのに」
「いや、それとこれとは関係な……っ⁉︎ おい、こんな場所で何考えてんだ⁉︎」
その場所は、人目のつかないどこでもなく、ただの街中のスーパー前。
唐突にシャツのボタンを外し始め、豊満な胸の溝を見せつけてきた城ヶ崎の行いは、奇行としかいいようがなかった。
「だって、濡れてるから仕方ないでしょ? 周りからのいやらしい視線も嫌だし……あ、そうだ。菊池くんの服、脱いで私にくれないかしら?」
「は? と、とにかく、急いで店の中に–––」
「店の中に行けば、服、くれるの?」
「ちがっ……あぁ、もう! いいから来い!」
買ったばかりの品を放って、代わりに色白な手を連れて帰った。
今思えば、結構な力で掴んでしまったと思う。しかし城ヶ崎は、何一つ文句は言わずに、歩調を合わせ始めた。
「やっぱり、菊池君は優しいのね。噂通り……」
目論見通り。そう言わんばかりの呟きだった。
あの時の城ヶ崎の表情は、きっと悪巧みが上手くいった猫のように歪んでいただろう。
「いいから。黙って足動かしてくれ」
そんな顔を見ないように、俺は真っ直ぐ家路を辿った。
〜〜〜
「菊池流道場、か。へぇ〜だから菊池君は、剣道が上手なのね」
「……あ、あぁ。そうかも、な–––」
俺の家は、剣道の道場を営んでいる。
規模は小さく、母さんの死が原因で、師範代である親父が意気消沈しているここ数年は、さらに経営が厳しい。
高校の剣道部の主将で有段者の俺が、なんとか切り盛りしているのが現状。しかし、実績の少ない高校生を信頼してくれる親御さんは少なく、生徒数はたったの二人にまで落ち込んだ。
最後まで残ってくれているのは、中学一年生の椎野林檎と奈倉為吉。
ほぼ家族のような弟妹弟子、基、生徒たちに留守番を頼んだ俺は、このずぶ濡れの美少女のことを、どう説明したものかと頭を悩ませていた。
何を隠そう。家の目の前まで来て、ようやく己の言動の不一致に気づいたのだ。
(スーパーの中に入るって言ってなかったか、俺?)
買い物袋の代わりに、学校で一番の美少女を連れ帰ったなど、愚行にもほどがある。客観的にみて、俺は目先の性欲に負けた獣と同じだ。
中学生で性に盛んになり始めている弟子たちには、とてもでは無いが見せられない。十中八九、いらぬ誤解を招いてしまうだろう。
俺が頭を抱えていると、城ヶ崎は肩を落とし、二歩ほど後ろに下がる。
「入れて、くれないの?」
「いや、なんと言うか、その–––」
「あ、やっぱ師匠! おーい林檎、師匠が帰って来た、ぞ……って、えええええええええええええええっ⁉︎ 誰っすか、そのお姉さんは⁉︎ もしかして、彼女……いやいやいや、直哉さんには美穂ネエが–––」
坊主頭の為吉は、その視線を城ヶ崎さんの胸元に向けた。
鼻の下が伸び、若干股間が膨らみかけたところで、どたどたどた、と後方から迫り来る気配に背筋を凍らせる。
あたふたとし、なぜか俺の元へと駆け寄ってくると、背後に隠れた。
「り、りんご……違うぞ、俺じゃなくて師匠が……」
黒髪ポニーテールの少女が出てきて、謎の言い訳を始めた為吉。
椎野林檎は、しかし落ち着いた面持ちで、傘二本を手にやって来る。
「おかえり直哉さん。風邪ひいちゃうから、早く入ったら?」
「あ、あぁそうだな。全くもってその通り、だ……」
俺に穴開きビニール傘を乱暴に渡し、もう一本の黒い傘と共に、城ヶ崎を迎えに行った林檎。
「寒くないですか?」
「うん、大丈夫。気にかけてくれて、ありがとうね」
「いえいえ。間違えて拾ってきちゃった野良猫は、面倒見ないといけないですし。人間として当然ですよ」
(り、林檎ぉっ⁉︎)
「あら、それはそれは……じゃあ、もしよければ餌ももらっていいかしら、人間のお嬢さん?」
「残ってるドッグフードでいいなら」
「えぇ。構わないわよ」
すると、俺にしがみついている為吉が小声で、
「女、怖ぇっ!」
「い、今は黙ってやり過ごせ。悪いのは全部俺だ」
「マジ、師匠のせいですよ⁉︎ 林檎、めちゃキレてますって! ただでさえ、今日試合に負けて苛立ってたのに……」
「……お、おう。それは、間が悪かっ–––」
「あとで謝ってください!」
「分かってる。分かってるから、今は……許せ」
傘もささずに、女二人が家に入っていく様子を眺めていた俺と為吉。
よくこんな師範の道場に通い続けてくれているな、と今更ながらに思う。
それは剣道の腕前の話ではなく、人間性の問題。
人を見抜く力と状況判断能力では、弟子たちの方が幾分か上だと感じた。
城ヶ崎さんは奪いたい 朝の清流 @TA0303
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。城ヶ崎さんは奪いたいの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます