第35話 閉ざした記憶の歯車

 俺の目の前にそびえ立つ扉──教室と同様にスライド式である──を前に、俺の足はすっかりすくんでしまい、情けないことに全く動けないのである。


 俺の体は特にどこか弱い部分があるわけでも怪我を頻繁ひんぱんに負うこともないので、この部屋、保健室に入ることはそれほど無い。あったとするなら視力検査の時くらいだろう。


 しかし視力検査の時はいつも本を片手に順番を待つので、あまり保健室がどういった部屋だったか覚えていないのだ。


 これまで利用したことがなかったからこそ、この扉を自力で潜るには相当の覚悟と決意が必要である。まぁ大袈裟なんだが……。


「あら?どうしたの?怪我?」


「うぉっ!?」


 突然後ろから声をかけられたので、情けない声が口から出たのかと、自分でもわからない声が腹から出たのではないかと、錯乱する頭を知りもしない保健室の先生が、俺の慌てぶりに思わず笑いながら挨拶する。


 当然俺が保健室の前で立ち止まっていることから用があるのだろうことは必然であるので、保健室の先生──名前は確か橋本先生──が扉を開けてくれ、中に入るよう促す。


 上履きを脱ぎ、扉の前にある棚に丁寧に入れ、ドキドキしながら入室した。


「はい、これ書いてもらえるかな?」


 決して若いと言えない橋本先生が自然と顔を近づけて1枚の紙切れを手渡しされた。

 確か四十歳を数年前に迎えたとクラスのやつが言っていたのを思い出した。

 本当に四十歳代なのか?デマではないのかと疑いたくもなるほどに、シワが無くハリのあるその綺麗な顔立ちの橋本先生にドキドキしてしまう。

 お、俺のお母さんと本当に近い年齢なのか!?二十五歳と言われても信じるぞ!?と頭の中で混乱する。これがゲームなら間違って自分を攻撃することもいとわない。


「どうしたの?ほら、早く書いて。もう」


 四十歳代には似つかわしくないその発言は何故か橋本先生だと許せてしまうのがあら不思議だ。

 はっとして、受け取った紙切れに名前やら学年やらと色々必須項目と書かれた物と紙に印刷された指示に素直に従いボールペンを走らせる。


「あの、書き終わりました」


「ん?はい。ありがとね」


 ニコッと笑う橋本先生の笑顔にうっかり恋に落ちてしまいそうになるのを寸前のところで踏みとどまり、ゴクリと唾を飲んだ。

 踏みとどまったつもりだった。思わぬ追撃が被弾してしまった。


 橋本先生が椅子に座って紙切れを書いていた俺から紙切れを受け取る時だった、何故か前かがみの姿勢になって髪を受け取ったのだ。


 何が起こったのか。直前わからなかった。ただわかるのは、この視界いっぱいに広がる桃源郷を忘れぬように目に焼き付けたのだ。


「こーら!どこ見てるの?」


「あっ、はい!すみません!」


 めっ!と俺の方に綺麗で雪のように白い指が俺を制した。あぁ、恋に落ちたかも。

 仮病で熱が出たとかなんとか理由を無理やりこじつけてでもこの涼しい空間に設置されるベットで寝てやると息巻いていたはずだった。


 でもそんなことは一瞬のうちに捨てたように忘れてしまい、本当に熱が出ているんじゃなかろうかと思うくらいに顔が暑いと思った。


 どれだけ最新技術を持ってしてでも、このほとぼりを冷ます機能は、着いていないようだ。


 真っ赤に染まってしまった顔を見て、熱を測ることも無く急いでベットで寝て欲しいと橋本先生に急かされ、俺は気がつけば布団の上に寝そべっていた。


 俺は橋本先生に会うためだけに暑さを我慢してここまで来たのだろうだなんて馬鹿げたことを考えていた。

 はぁ、なんで俺はもっと早くに保健室を訪れなかったのだろうかと後悔もしていた。


 今はこの室内には俺以外に誰もいない。橋本先生も体育館で終業式に参加しているのだ。もし、誰か保健室に来ることがあったら対応を宜しくと何故か信用されている俺は任せれしまった。嬉しさのあまり後先考えずに「任せてください!」と言ってしまった自分を殴りたい。


「あぁー、体調悪いんだからくれぐれも無理はしないでね、って!くぅー、やっべ胸が暑いぜ」


 テンションが自分でも信じられないくらいに爆上がりしたその高鳴りを、俺は知らない。


 それにしても、本当に誰が来たらどうしようかと思っていた刹那、いきなりベットとベットを隔てるカーテンがさささっと音を立ててオープンされた。


「えっ!な、なにっ!?」


 誰もいないと思っていたら動かしてもいないカーテンが突然横にスライドしたことに思わず、またしても情けない声を上げてしまった。


「ちょっと、静かにしてくれない?」


 俺が寝転んでいたベットの横には、俺が来る前からずっと寝ていたのか、その女が俺に対して鋭い声色で俺をとがめる。


 これには思わず謝る他ないだろうと思い、それと独り言を聞かれてしまったという羞恥心を紛らわすために、注意された傍から少し大声で謝った。


「あ!いやその!すまん!」


 どこか懐かしいと思わせる雰囲気を漂うその女子は、改めて俺の顔を見て、何か思うことがあったのか少し考えるように見つめた後に、「あっ!」と言った。


 あっ?なんだ?と不審に思ったと同時にベットの傍に置かれる机の上にはティッシュ箱と丸メガネが置かれているのが視界に入り込んだ。


 そう言えば、この大人びて見える顔に、艶めく黒髪。鈴が鳴るような綺麗な声色。

 どこか随分前に知っているような、それでも最近知ったような、不思議な感覚に囚われて彼女の顔を俺も見つめ返していた。


 彼女は「んんっ!」と喉の調子を確かめてから、もう1度俺の方を見て、こう言った。


「おはよう。高梨君…だよね?なんの本読んでるの?」


 俺は今本を読んでいない。手元に本があるわけでもなかった。でも彼女がそれを言いたいことじゃないことは、当然俺にはわかった。俺だからこそ、わかったのだろう。


 それは、いつかの再現のようだった。まるであの日の出来事を繰り返しているようだった


 頭の中でいつの間にか、すっかり閉ざしてしまっていた記憶の歯車の数々が、もう離れないぞというくらいにがっしりと噛み合うのがわかった途端、俺もついつい「君は……」と、声が出ていたのだった。


「ふふっ、思い出してくれたかな?」


 少し大人びているからこそ、そのおどけた口調が見かけとのギャップを生む。腰まではいかないだろう1本1本手入れが行き届いている黒髪がぱさりぱさりと顔が動く度にそれに動じて揺れる。


 心が惹かれながらも、彼女の頭髪のように揺れる想いを抑え、やっとの思いで返事をする。


「おはよう。あってるよ」


 その俺の台詞を聞いた彼女はニコリと花が咲いたような笑顔で笑ったのだった。

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オタクとギャル。応援役の俺。 やで。 @yademaru

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