鳴子大神(休校中に起こったこと)

アーカムのローマ人

鳴子大神(休校中に起こったこと)

 この子を生みたまひしによりて……こやせり……かれ伊耶那美いざなみの神は、火の神を生みたまひしにりて、遂に神避かむさりたまひき……かれその伊耶那美のみことなづけて黄泉津大神よもつおおかみといふ……

——古事記より


 どうせ誰ともすれ違わないのでマスクはしていない。珍しいことに風から初夏の草花が香る。例年なら土曜の午前十時に国道沿いを歩けば排気ガスの臭いがするだろうが、空気は素晴らしく澄み渡っていた。何せショッピングモールの巨大な駐車場に停まっている自動車の数すら数えるほどなのだから。

 同級生である鳴子なるこらんから、疫病退散を祈る特別神事で太鼓を叩いてくれという依頼があったのは四週間前だった——こともあろうに僕らが通う大学の病院から。くだんの新型ウイルスがこの赤牟あかむ市で数十名の感染者を出していても、鳴子がかすれた声で陽性と囁くまで僕は真に危機を実感してはいなかったし、彼女が退院した頃には逆に僕の方が警戒心を強めており、神事は延期した方がいいんじゃないかとしつこく進言した。しかしいつも根拠のないことは言わない鳴子は今回に限って「早くしなければ」「遅すぎる」と繰り返し、僕もしぶしぶ認める羽目になった。


 鳴子の家に着くと、玄関で出迎えた彼女が二階の絨毯を敷いた大部屋まで案内してくれた。ここで神事を執り行うらしい。

「神棚みたいなものはないの?」

「そういうのは要らないの」

鳴子はあっさり言ってのけた。際立った美貌はすっかり元どおりで、浅黒い顔の中で大きな目と白い歯が悪戯っぽく煌めいている。

「あれ、近所の神社の神事じゃないの?」

「そうだよ、鳴子神社ってわかる?」

市内には確かにそういう名前の神社があった。僕はあまり興味を持ったことがなかったが盆踊りなどには人が集まることもある。苗字からしてやはり僕の同級生はそこの関係者なのだろう。詳しく知りたかったが鳴子は着替えると言うので、儀式が終わってからにすることにした。

 鳴子は亡くなった両親の知り合いである星沢ほしざわ北斗ほくとすばる夫婦と同居していて、この二人が神事の進行役だということだった。既に六人の男女が、隅の方で何やら話し合っている。部屋の中心から直径五メートル弱のスペースを円陣で囲むように、九人分の座布団が準備してあった。

「何があってもこの人達の言うことを聞いてね」

いつものにやにや笑いさえ封じ込めて真面目な顔で鳴子が言うので、僕も真面目な顔で頷いた。

「一度、合奏の練習もする?」

「時間があるなら」

「じゃあ、北斗さんに楽器を出してもらって。私は奥で準備してるから」

 鳴子は昴さんと立ち去り、北斗さんが僕を席に案内してくれた。彼が押入れから出してきたのは、デザインに妙な文様が使われている以外は僕が普段叩いている和太鼓と同じものだった。他の六人もそれぞれの席に着く。二人の男性は長い縦笛の係、他の四人が歌い手のようだ。このご時世に合唱は良くないんじゃないかと僕は思ったが、そんなことを言える雰囲気ではなかった。

「じゃあ、とりあえず最初から合わせましょう」

笛吹きの一人が言った。僕はあらためて緊張してきた。指揮者がいないので、テンポは僕の太鼓に掛かっているのだ——

 練習時間はあまり長くなかったが、短いフレーズの繰り返しなので本番も大丈夫そうだった。合唱は非常に古い言葉のようでほとんど意味を取れない。聞き取れたのは「ナルコ」「大神」「来ませ」「いあ」「ふたぐん(?)」くらいだった。最後の二つの意味を考えあぐね、自慢じゃないが成績は良かった古典の内容を思い出している時、身支度の済んだ鳴子と昴さんが部屋に入ってきた。

 鳴子の衣装は興味深い代物だった。基本的には神社の巫女さんのような緋袴を基調とした装束だが、通常なら純白のはずの上衣が真っ黒で、その上から勾玉を連ねた首飾りを掛けているので雰囲気が随分違う。いつも編み込んでいる長髪はそのまま下ろし、額の中心には縦に開く第三の眼を描いていて、日本というよりはインドかどこかの神に見えた。それともこの信仰は仏教とともにインドから伝わってきたのだろうか?十分あり得ることだ。

 昴さんが鳴子に扇を手渡した。真っ黒な地紙の上で銀の三日月が微笑むように輝いている。他の人達は部屋の扉を閉め全ての窓を黒いカーテンで閉ざした。天井の照明の明度も落とされ、適度に神秘的なオレンジ色の明かりがぼんやりと室内を照らす。換気した方がいいのではないだろうか。

「では、始めます」

北斗さんが静かに宣言した。まず鳴子が中央より少し後ろに立ち、全員がさっきの練習通りに座る。北斗さんと昴さんは鳴子の前、笛吹きの二人が両横、僕は後ろで、歌い手達はその間を埋めるように位置している。

 音頭を取るように一組の男女が声を張り上げた。

「いあ!」

それを合図に僕は太鼓を叩き始め、かくして歌舞は始まった。

 鳴子が床を踏み鳴らし、黒扇を翻して舞い始めた。時に軽やかに、時に力強く激しく体を揺らして僕の叩く太鼓のリズムに乗る。葦笛の音が高く響き、歌い手達が低く繰り返す古代の言霊に重なる。更にそこへ、北斗の朗々とした歌声が加わった。謎めいた歌詞は日本語ではなく、それどころか僕の知るどの言葉でもない。多くの音が狭い部屋の中で共鳴し合い、狂おしいほどの懐かしさでもって僕を満たしていく。僕が生まれたのは間違いなくこの土地であるはずなのに望郷の念が泉のように湧き出てくる。還りたい。どこか遠く、清々しい風の吹き渡る場所へ——!

 鳴子がくるりと半回転し僕と正面から向き合った。そして急に扇を取り落として崩れ落ちる。助け起こそうとしてばちを離す寸前、昴がきつく僕を睨みつけて制止し、彼女の横に来た。鳴子は異郷の歌を止めようとはしないが、それは徐々に旋律を失ったしゃがれ声のようなものになっていく。その言語の響きはひたすらに理解を拒絶するおぞましさに満ちていて背筋が凍った。知らない言葉を誰かが話すのを聞いているのは好きで心が和む。しかしそれには人間が話すいかなる言語の親しみやすさもなかった。

「あなたは、誰ですか?」

昴が鳴子に問いかけた。

「私は、鳴子蘭」

「いいえ、本当は何ですか?」

「私は、私は鳴子蘭……天地あめつち大王おおきみは千のかお持てる王女ひめみこを遣わし給えり……ああああ!こおろこ おらく せな よみつ いざあ なあ め いあ……ばいあぐうな!」

鳴子はうずくまってすすり泣く。それは悲しみとも痛みとも、もしかすると弔いとも解することができた。泣き声に低い呻きが割り込み徐々に支配し始め、そしてまた未知の言語で長々と何事かを語りだし、昴がそれに応えるように祭文を唱える。その間にも人々は異郷の歌を歌い(あの古語の合唱はいつしか止み、四人は北斗の歌に合流していた)、笛の中に通る息が音を立て、僕の太鼓は自ら脈打っているようにさえ思えた。

 それに気がついた時、危うく撥を持つ手を止めるところだった。もう一つの歌声が聞こえるのだ。男とも女とも言えない。強いて言うならば若い声だ。単独の声というよりは全ての音が正しく響き合った結果生まれたという感じがするが、明らかに自然現象ではない。なぜなら聞こえてくるのは意味のある言語で、人々の声に応答しようとしているからだ。

「見える……」

鳴子が呻く。

「何が見えますか?」

昴が問いかけた。

「あれがいる。冠を戴いて——自ら生まれ出た子——あああああ!最も若き災いの王、我が身を炎で焼いて生まれ出たもの……ああ、光が!病める太陽は輝けり……にぬ かだす よみつ いざあ なあ め……」

「来たれ、大いなる神使つかわしめ

昴がそう唱えた時、鳴子が顔を上げた。振り乱された髪の間で第三の眼が爛々と燃えていた。鳴子を恐れる日が来ようとは思ってもみなかった。彼女はいつもにやにや笑っている僕の同級生で、旅行とタイ料理が好きで、長い名前の昔の作家の本を僕にしつこく読ませようとしてくる、名状しがたい美貌以外はごく普通の大学生のはずだった。次の瞬間、彼女は今まで呻いていたのを忘れたかのようにすっと立ち上がると再び僕に背を向けた。

「何者であられますや?何処いずこの神におわしますや?」

昴の畏まった問いに彼女は滔々と答えた。名乗りなのだろうと思ったが、そんな神名を聞いたことはない。笛はより高らかに吹き鳴らされ、歌い手は声を張り上げる。今やその言語を理解していないのは僕一人だけのようだった。

 バチン、と音を立てて突然天井の明かりが消えた。驚きの声を必死で押し殺す。閉め切られた部屋の中は闇に覆われ、手元の鼓面すら全く見えなくなった。塗りつぶされたような暗闇の中で、輝きがうごめいた。鳴子の正面、上空にほっそりした人影が浮いていた。子どものように小柄で、金の冠(と言ってもそれは金属を粗雑に丸めて輪にしたような代物だった)を戴き肌も髪も激しく白熱していた。目を痛めることも恐れずに見上げた時の太陽に似た輝きが周囲を照らし出す中で、鳴子の姿はただの真っ黒な影だった。人型の光と闇が向かい合う。

 冠を被った輝きが声を発した。単語の意味を解することはできないのに、それがこちらにぶつけてくる情報の連なりは僕の頭の中に入り込んできた。

 その存在は求めていた。生存を(と言っていいのか。あれが生物であるのか僕にはわからない)、繁栄を、その目的のために必要な生きた体を——つまりは僕らを!それは寄生によって他者の力で自己を複製させて増殖してゆく存在であり、僕らのように個体の喪失という概念を持ってはいないようだった。しかし完全に一なるものでもない——複製を繰り返すごとに情報には変異が生じ、いずれは全くの別物になるのだから。

 鳴子はその要求を拒んだ。彼女はあれを排除しようとしていた。あるいは吞み込もうと?せめぎ合う光と闇を囲んで人々が歌う。彼らは原初の暗黒を称えていた。万物を産み出す混沌は自らの半身を強壮なる使者として遣わせり。大いなるかな黄泉鳴子大神よもつなるこのおおかみ、暗き地の母、我ら御子みこをして御身のもとへと帰らしめんことを乞う。いあ ばいあぐうな ふたぐん……

 「御子」の眼が僕を見た。どこもかしこも光り輝いていながら、そこだけは真っ黒だった。あれが僕を理解したとは思わない。神々にとって人間はあまりに矮小すぎるので彼らは僕らにさして関心を払わないという話を読んだことがあるが逆もまた然り、黄泉鳴子大神の落とし子は自らが必要としている肉体の持ち主について何の興味も持っていないようだった。あれの認識の中では生物は無窮に等しいのだろう。僕を天体とするなら「御子」は赤子のようなものだ。だが——凄まじい力だ。視線を外すことすらできない。それは僕に手を伸ばそうとしていた。太陽のような恒星のような毒々しい光。僕はふと、行けるならば星々の彼方までも行ってしまいたかったことを思い出した。

 ”そなた如きに渡すものか”

目の前の鳴子から鞭のようにしなる闇が伸びた。その闇は触手の形をとって光に絡みつき、逆さに持ち上げる。波となって細胞の一つ一つを震わせる「御子」の叫び声に僕は慄いた。黄泉鳴子大神が自らの子を頭から呑み込もうと背を反らす。僕には開かれつつある洞窟のような口が見えた。いや口なのだろうか?鳴子の顔にあるのは巨大なくらい穴だけで、そこに輝く塊が呑み込まれていく。闇が光を覆い、病める太陽は黒い海へと沈み、邪眼は更なる邪視により封じられ——今や全き闇の中に巨大な三眼が浮かび上がる。僕らはそれを視覚に依らず感じ取ることができる。今度こそは僕も声限りに、大いなる母の庇護を求め——

 いあ!

 そして蛍光灯が点灯した。


 「ねえ、ねえ!大丈夫?」

自らの貌を取り戻した鳴子が、眉をひそめて僕の顔を覗き込む。額の第三眼がまだほのかに燃えていたがそれは一瞬の後にふっと消え、縁取りの中に塗りつけられた顔料に戻った。

「うん、鳴子こそ疲れてるだろう?」

「丈夫だからこんなの何でもない。危ない橋だったのは事実だけど……もっと簡単に”切り替え”ができたら便利なのに」

「あの、あれは何?あの光の塊みたいなのは……」

僕は問いかけた。頭の中に流れ込んできた情報に裏付けが欲しかった。

「新型の災いだよ、勝手に生まれるの」

新しいiPhoneが出るよ、とでも言うような口調だった。

「鳴子神社に祀られているのは母なる黄泉の神、彼女は闇の中で百万の混沌を産み落とす、しかし子は時に母さえ喰らおうとする」

「倒したのか?」

「いいえ。親子は別物なのだから、私にあれの権能を支配することはできない。ただ争って元居た所へ追い返しただけ」

僕は畏怖の名残をぼんやり感じながら、きびきびと座布団や楽器を片付ける皆を眺めた。

「追い返したなら、また来るのかな」

「あるいは古の悪が蘇り、あるいは更なる厄災が産み出される」

鳴子は力無く微笑む。褐色の肌に汗が浮かんでいた。

「ごめんね、こんな時に集会なんて。守ってあげられてよかった」

本当にそうだぞ、と言ってやりたかったものの、あの光景を見て何か口出しする気分にはならなかったので僕はただ首を横に振った。

「これでも限界まで人数を絞ったし、血の儀式は省略したから……あ、人身御供ひとみごくうじゃないから心配しないで」

じゃあ何の血なんだ一体というのは気になるところである。

「他の人達は帰すけど、北斗さんがお餅を焼いてくれるから一緒に食べましょう」

鳴子はにやりと笑った。白い歯が光る。おお明眸皓歯!異界は既に退き、そこにいるのは綺麗な顔をした僕の同級生だけだった。


 その後の世界がどうなったかは、この手記を読む皆さんにはもうお分かりだろう!予定よりは少し遅れたが、僕は念願の交換留学でミスカトニック大学の門をくぐった。鳴子は旅行に行きたいのに休講のせいで休みが減ったとひとしきり文句を言った後、意気揚々とハイチに旅立った。

 僕の専攻は数学なのだが、最近は人類学部や考古学部で教えを乞うことが増えている。あの闇の中であったことは世界の他の場所でも起こりうるのではないかという仮説にいざなわれて閉架書庫の本をめくるたび、これ以上知ってしまっていいのかという疑念が胸を打つが、指は止まろうとしない。

 今学期が終われば僕は日本に帰る。既に旅から戻ってきた鳴子はあの、いかなる夜よりも深い笑みを浮かべ、土産の民芸品を飾った自室へ僕を迎え入れるだろう。黄泉大神、イザナミ、暗い地下から生死を支配する女神、千の貌持つ混沌の一面——

 僕は起こるべくして起こるであろうことを何となく予想している。

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