その5
「そう。恋愛について、ね」
安芸先輩は顎に手を当て、長い睫毛を伏せて思案顔で頷く。絡み合った蔦の隙間から漏れてくる陽射しは、徐々に赤みを帯びてくる。それが彼女の頬を朱に染めているものだから、まるで恥じらう少女のようだ。
「えっと……。次の公演——タイトルとかはまだ秘密ですけど、恋愛がメインになります。あの、私がヒロインを演るんですけど——」
「まぁ、それは楽しみ」
「恥ずかしい話、生まれてこの方、恋なんてしたことなくて……。脚本読んでも原作読んでも、どう演じたらいいのかさっぱりなんですよね。今まではヒロイックとかミステリーとか、目的がはっきりしているって言うか——、とにかく、そういう演技を無我夢中でやってきたのに、今回は……。それで松岡に先輩を紹介してもらったんです」
先輩は時折穏やかに相槌を打ちながら、私の辿々しい説明を受け容れてくれる。もしかしたら、彼女は答えをくれるんじゃないだろうか。いや、それ以前に落胆されないだろうか。期待と不安がない混ぜになって足が震えてきた。
きゅっと胸を締め付けられそうになりながら、私のファンと言ってくれた彼女にするべきかという疑問を脇に押しのけて、一番の問いを口にする。
「失礼だったらすいません。先輩はその——、恋をしたことありますか?」
言った瞬間に後悔した。彼女の顔が曇ったから。
——どうしよう。想定していた中で最悪の事態だ。
なかったことにする言い訳を必死で考えてながら俯く私の頭に、涼しげな声が投げかけられる。
「恋かぁ……。人と付き合った経験はちょっとだけあるけど、改めて聞かれると難しい質問ね」
「……はい」
意外なほど真摯な眼差しに面食らってしまう。あの松岡ですら鼻から緑茶を吹いたんだ。普通なら到底相手にされないであろう質問に、しかし、この人は真剣になってくれている。
やがて、彼女の口からさらに意外な一言が紡がれる。
「——演技指導なら、できるかもしれないわ」
「え? ——演技指導ですか?」
鸚鵡返しに口にしてみるが、やっぱり意味を飲み込めなかった。
「あら。松岡さんから私のことを聞いてないの?」
「えーと……、恋愛事に詳しい先輩としか」
「——そうなの。ふふっ」
先輩が立ち上がる。そして、私に向かって右手を差し出してくる。足先から指の運びまで芝居がかっているその指先に、私は自分の指を乗せる。
「役、試しにここでやってみるというのはどう?」
先輩は自分のショルダーバッグから文庫本を取り出す。中を開いて見せてくれると、次の劇のテーマである揺乃先生の小説だった。
思いがけない偶然の一致——ではなく松岡の根回しを前に、昨日の惨状を思いだしてしまい、二の足を踏む。そんな私の意思など関係なく、彼女は私を引っ張って藤棚のアーチの下にある広い石道にやってくる。本来の場面は銀杏だが、代用ということだろう。
*
『ごめんなさい。二人で歩むのはここまで』
先輩の消え入りそうな背中。早くも役に入り込んでいる。痛切でいてどこか諦観の滲む後ろ姿だ。
『もう、別の道を歩みましょう』
夏の盛りと言うにはまだ少し早い頃。並んで歩いていた藤棚の半ばで、不意に立ち止まった先輩がそう告げた。並木の向こうにあるのは白煉瓦——歴史を感じさせるチャペルが佇んでいる。
遅れて足を止める。
その頃には、もうそれは手の中から零れ落ちている。温もりの残滓を追い求めて振り返った先にあったのは、胸が締め付けられるほどの寂しさを湛えた微笑。彼女が首を横に振ると、艶のある黒の腰まで伸びたストレートヘアの毛先が揺れる。
木漏れ日を失った藤棚は肌を刺すほどではないが寒々しい。私たちの間に降りた沈黙をよそに、部活に励む生徒の喧騒だけがけたたましく騒いでいる。
私は立ち尽くして言葉を紡ぐ。何も意味のない言葉をただ、彼女の中にあるであろう寂しさに寄り添うように。
「約束は、約束ですから——」
——私は彼女を愛している。きっと、彼女も。
そうならば、優しく諭すことも、冷たく突き放すことも、悲しみ泣き叫ぶことも、憤怒して怒鳴りつけることも、どれも正解に思える。
私の返答に先輩は小さく頷くと、綺麗に切り揃えられた前髪で表情を隠すようにして、背中を向ける。
ふと喧騒が途切れた。遠くからチャペルの鐘の音が聞こえてくる。
*
「——どうでしょうか……?」
「ええ。ダメね。今のあなたでは、一挙手一投足が芝居を壊してしまうかもしれないわ」
「はい……」
分かっていたことだけど、面と向かって言われるとショックだ。その上、先輩の演技は理想的だったと評するに申し分のないものだった。まだ脚本にもなっていない小説からここまで情景を引き出してみせるのか。私のちっぽけな自尊心はもうすっかり米粒より小さくなっていた。
「実は、私も同じことで悩んでいるの」
「え————!?」
それは、今日一番の思いがけない事実だった。あんなに素晴らしい演技だったのに。
「うーん。女の子か——」
値踏みするような視線を向けてくる彼女に、私は本能的な危機感を覚えた。
私が後ずさった分だけ、彼女も身を寄せてくる。
「私と付き合ってみない?」
「——はい?」
「私は恋人が欲しい、貴女は恋愛のことが知りたい。そんな二人が付き合う。分かり易くて良いでしょ?」
安芸先輩は目を丸くして、さも当然という顔で言う。
「いえ、さっぱり分かりませんよ……?」
恋人が欲しいなんて初耳だ。というより初対面だ。
そもそも私が相談したいのは、恋患いじゃなくて役作りのことである。人を好きになるってことが、どういう気持ちなのか知りたいだけだ。同じような悩みではない。断じて。
「決まり。今度からお昼一緒に食べましょ」
先輩の中では何かが決まったらしい。つま先で華麗にターンを決めると、颯爽と歩き去っていく。すらりとした後ろ姿が小さくなるのを、まるで映画か何かを観ている気持ちで眺めていた。
何も決まっていない私は、完全に置いてけぼりを食らったのだった。
*
翌日、始業のチャイムが鳴る直前に教室に駆け込んだ。隣の席で呑気に飲むヨーグルトを一気飲みしていた松岡の頭を一発叩いた。パーで。反撃の平手が痛い、たぶん夢じゃない。
いつも通りの事だけど授業は耳に入らず、不本意ながら演劇部の練習にさえちっとも身が入らなかった。部活の帰り際に、三年前の——私がめでたくも騎士の称号を賜った——脚本を読んで馬鹿笑いしている松岡の頭を叩いた。グーで。反撃の拳がとても痛い、おそらく夢じゃない。
安芸先輩には会わなかった。
——昨日のことは狐にでも化かされていたのでは?
そんな疑念を持ったまま帰宅の途についた。
***続く***
時に恋は物語のように 白湊ユキ @yuki_1117
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