その4
ホームルームが終わると同時に、松岡と連れ立って教室を後にした。
その人は三年生だという。演劇部の先輩ならわざわざ紹介してもらうまでもない。ということはつまり、演劇方面に明るい人ではない可能性が高い。てっきり彼女のお父さんの知り合いにいる本物の劇団員を紹介してもらえると思っていたのに……。
早くも気後れしていた。演劇でないならば、消去法で——恋愛のプロということになる。彼女の言葉を信じるならだけど。何をされるか想像も及ばない。
高等部の校舎は中庭を挟んで、二棟に別れている。二年生の教室がある東棟から三年生の教室がある西棟へ。松岡と私はその一番奥にある教室に向かっていた。
途中ですれ違う先輩たちから、物珍しげな視線を向けられる。制服のカラーに入ったラインの色が学年によって違うので、どうしたって目立ってしまうのだ。私は条件反射的に萎縮してしまって、肩を窄めて俯きがちに歩く。一歩先を行く松岡は清々しいまでに堂々としていた。さすがに制服はちゃんと直していたけど。
ここまで来る頃には、正直言って、ちょっと胡散臭いと思っていた。大体、恋愛にプロもアマもないと思うんだけど。高校生の身の上で経験豊富なのも、それはそれで問題だと思うし。
めちゃめちゃ遊んでる感じの人だったらどうしよう……。話を合わせられる自信が全然ない。松岡には何を聞いてもはぐらかされるので、嫌でも嫌な想像が膨らんでしまう。
そんな私をよそに、
「いたいた。安芸さん!」
——ちょっと……!? 声でかいって!
その呼びかけは広い廊下に思いのほか反響して、当人以外の注目も集めることになった。身体の全方位がちくちくする。通し稽古で台詞を思いっきり噛んだような居心地の悪さ。しかし次の瞬間には、腰まで伸びた黒髪が揺れる見返り姿によって、すっかり吹き飛ばされていた。
親友は廊下を走るという校則違反を犯して駆け寄っていく。安芸先輩もまた、こちらにゆったり歩いてくる。ぴんと張った背筋、その足の運びに至るまでが、完成された美しさを放っている。
いつしか廊下の人の流れも元通り。なのに、私だけがその場から動けずにいた。先輩は遠目に見ても、めちゃくちゃ美人だと分かる。松岡が文学少女もどきなら、こちらは本物の大和撫子だ。背も女子にしてはかなり高い。百七十センチくらいあるんじゃなかろうか。羨ましい。きっと舞台映えするんだろうなぁ。
「おーい、上総よーい」
はっと我に返る。ずっと見惚れていたことに今更ながら気付いた。
「話は通しといた。でもって、あとはアンタに任せるわ。シクヨロ!」
松岡はそれだけ言って、そそくさと廊下の向こうに消えていく。呼び止める間もなかった。急ぎの用事っていうより逃げているみたいなんだけど……。
何となくそれを見送っていると、私の耳元にくすくす笑う声がそよいだ。次いで、春風を思わせる穏やかな、それでいて凛とした涼しさを感じさせる声。
「松岡さんは元気ね」
「すみません……。そそっかしいやつで」
「一之瀬さんよね。お名前、松岡さんから聞いているわ。
「は、はい……」
見た目だけじゃなくて声も、名前まで綺麗だった。どもってしまう。
肌は雪のように白くて、頬には健康的な朱が差している。切れ長の、それでいて冷淡には感じさせない柔らかな双眸が、私を見下ろしている。
「あの——、いきなり変なお願いなんですけど……」
「ここじゃ落ち着かないわよね。中庭に行きましょう」
安芸先輩は私の返事を待たずに歩いていく。
壁がなくて大理石の柱が立ち並ぶ渡り廊下。そこから一望できる中庭は、青々とした色を帯び始めている。
少し前まで、咲き乱れた桜の下でお茶会を楽しむ生徒もちらほら見かけたんだけど、ゴールデンウィークが明けた頃には、めっきり出入りが減っていた。中庭を十字に区切る石道の交差点には、きめ細やかに手入れされた藤棚があって、そこだけ淡い季節の名残を感じさせる。藤棚の下の石は一段高くなっていて、三人掛けのL字のチェアが二つ、かぎかっこを作るように置かれている。
先輩はチェアの左隣を空けて、優雅な動作で腰掛ける。「お隣どうぞ」と目配せされたので、端の方に縮こまって座る。
「日も随分長くなったわね」
絡み合った蔦の隙間から漏れてくる陽射しは、まだ充分に明るくて暖かい。陰影のついた横顔は憂いを帯びたように見えて、何故だか胸がそぞろになる。
「この藤棚、綺麗でしょう?
庭師の青崎さんの事だ。六十歳を過ぎたお爺さんだが、この広い中庭を一人で管理している。呼び捨てにしているなんて、よほど仲が良いのだろうか。
「私のお気に入り。静かで落ち着くし、意外と日当たりも良いから」
チャペルの鐘が鳴り響く。荘厳な音色が十七時の刻を告げる。私はじっとその音を聞いていた。
私が一人分開けていた空間を、安芸先輩はさりげなく詰め寄ってくる。
「そんなに緊張しなくていいのに。
「——し、ぃ、知ってるんですか!?」
その呼び名を知っているのは、星海の生徒三千人の中でもほんの一握りだ。演劇部とは関係ない、ただのクラスの催し物で務めた役にちなんだ、ローカルな称号なのである。
「ファンなのよ、当然知ってるわ。この間の少年探偵も素敵だったものね。一之瀬さんが次はどんな役をするのか、今から楽しみにしてるの」
「————っ! ありがとうございます!」
まさか安芸先輩が見ていたなんて。客席にいたのに気付かなかったのは不覚だった。こんな美人のファンがいるなんて光栄の至りだ。そう思うと俄然、次の公演はがんばらなきゃと思う。一時の恥に流されて、期待外れの演技を見せるわけにはいかない。
意を決して切り出すことにする。
***続く***
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