その3


 翌日。私は隣の席に座るクラスメイトの肩を叩く。


「松岡。ちょっと相談いい?」


「何だい、改まって」


 彼女は目を落としていた文庫本に栞を挟んでから、こちらに向き直った。私が昨夜読んでいたのと同じ揺乃先生のやつだ。

 前髪をきっちり分けてピンで留め、ビン底みたいな眼鏡の奧で尊大な双眸を光らせる。我が校指定の由緒あるセーラー服をわざわざ着崩し、スカーフがだらしなく緩んだ襟からは豊満な肌色がちらちら覗く。そんな文学少女もどきこそが、私の親友——松岡鵲まつおかかささぎである。

 彼女は緑茶のペットボトルに挿したストローに口を付けて、目線で先を促してくる。

 休み時間でざわつく教室の中。私はずりずりっと椅子を引き寄せてから、できるだけ小声で問いかける。


「その——、ね。松岡ってさぁ、彼氏いる?」


「————ぶほっ!? げほっ、げほっ……」


 訊ねるや否や、松岡は盛大に咽せた。何故……?

 近くに居た同級生たちの視線が集まって、ちょっといたたまれなくなる。まだ咳き込んでいる松岡にはものすごく納得いかないんだけど、背中をさすってやる。「鼻痛いよう」とか呟きながら復活した彼女は、全然悪いと思ってなさそうに言い訳を放った。


「いやー、悪い悪い。上総の口から出たとは思えなくてつい……」


 やっぱり失礼なことを考えていた。

 あと、上総は私の名前だ。一之瀬上総いちのせかずさ。男子みたいな名前だとよくからかわれる。


「その暴言は聞かなかったことにしてあげる。で、どーなの?」


「彼氏なんていないよ。中等部から一緒なんだから、上総だって知ってるでしょうに」


「う……。それはそうだけど」


 ここ星海女子学院は、小中高一貫、私立の女子校である。私たちは中等部時代に演劇部で知り合い、それから高等部の二年に至るまで、何故かずっと同じクラスという付き合いだった。

 ただ、中等部から入った私と違って、松岡は初等部から在籍していたはずだ。


「ちなみに。初等部時代にもいなかったんで、そこんとこよろしく」


 言い淀んでいるうちに先回りされてしまった。松岡はいつものざっくりとした口調で、私の微かな希望を切って捨てる。このまま実入りなしじゃ、昨晩と何も変わらない。


「じゃあせめて……初恋とか——」


 なおも食い下がる私に、さすがの松岡も呆気に取られたようだ。瞳が一瞬だけ見開かれ——、すぐに私の意図を探るように鋭くなる。

 それから、少しだけ改まった様子で口を開いた。


「なら交換条件にしようじゃないか。上総も何でそんなこと聞くのか、先に理由を教えて」


「ほ、他の人には内緒だからね……」


 これこれしかじか——。周りの目を気にしながら、声を抑えて説明する。鏡の前で恥ずかしい思いをしたことは黙っておく。


「何だぁ……。隠すことないじゃんよう。脚本用意したのも、アンタを主役に推薦したのも、あたしよ?」


「恥ずかしいもんは仕方ないでしょ」


「はぁ、びっくりした。あたしゃてっきり……」


 松岡は息を吐くと、背もたれにだらっと寄りかかって、窓の外に視線を流す。大役がかかった一世一代の告白に対して、あまりにも大雑把な仕打ち。「あーし」と間延びした一人称も相まって、ちょっと腹立たしくなる。


「さあ言ったよっ。今度は松岡の番!」


「……そうだねぇ。初恋はあるけど。片想いってだけで、実ってもいないしなぁ。うん、以上」


 彼女はそこですっぱり話を区切ると、自分の話は終いと言うように手を打ち合わせる。やけに勿体つけたと思ったらこれだ。


「さっき言った通り、彼氏もできたことないから。もうあたしから話せること、なーんもないよ」


「ずるい! こっちの理由だけ聞いといて」


「言っても、ないもんはしょうがない。すまんすまん」


「それじゃ困る……」


 我知らずそう呟いていた。

 松岡的には早く話題を切り上げたそうだけど、こっちもヒロイン役が懸かっている。このチャンスを逃してしまったら、次は何ヶ月待つことになるのか分からない。もしかしたら、その『次』は永遠にやってこないかも知れないのだ。


 星海の演劇祭は年に六回開催される。二ヶ月に一度、公演期間は一週間。それだけ聞くと多いように感じてしまうけれど、私たちは学生だ。当然、授業やテストといった、いわゆる学生の本分と並行で回すため、出演者をはじめ、スタッフは皆ローテーションを組んでいる。しかも、演劇校と呼ばれるだけあって、役者層が厚い。代役なんてすぐに搔っ攫われてしまうだろう。


「だいたい何で急に恋愛なの!? 前回も前々回も、松岡はミステリー書いてたじゃん」


「ああ、それね。あの小説、某有名劇団の舞台になったのは知ってるでしょ。そこの劇団員がウチのOGで、父さんの知り合いなの。で、是非星海で演ってほしいってお願いされちゃってさ。部長たちも乗り気だし、私も悪い話じゃないなって思ったから、受けたってわけ」


 松岡のお父さんは地方で活動する劇作家だ。これで、こいつが件の舞台脚本を持っていた理由は説明がついた。ついでに、外堀が完全に埋まっていて、今から脚本を変更する余地がなさそうだという事も。

 がっくりと項垂れる私を可哀想と思ったか。松岡が私の肩を叩いて言う。


「代わりに、そーいうことに詳しいプロを紹介するから。許して」




   ***続く***

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