お題「地震」
「ねえ先輩、空を飛ぶ鳥は、大地の揺れを恐れると思う?」
僕は車を運転しながら先輩に問う。窓の外は闇というほどではなく、かといって明るいとは到底言えない、都市圏に近いベッドタウンを走っていた。
先輩は僕の問いに答える。その声はまるで弦を優しく爪弾いたような、それでいて走行音では掻き消せない、良く通る声だった。
「思わないわ。だって鳥は飛べるんだもの」
「そう、じゃあ、魚はどうだろう、海を泳ぐ魚」
「……どうかしら、私、魚になりたいと思ったことはないの。だからその質問は、少し難しいわね」
僕の運転する車は軽快に夜の街を走る。運転手の僕と、助手席に乗っている先輩と、二人きりで。
「そうかな、魚もさして変わらないんじゃない?」
この会話に何かの意味があるかと問われると、きっとそんなものはないのだろう。せいぜい最近小さな地震が多く起こっているから、とか。その程度の益体の無い話。
「全然違うわ。だって魚は水のあるところにしか行けないのよ」
「それなら鳥だって、水の中には行けないよ」
「じゃあ、その時だけはペンギンになればいいわ」
先輩はこちらに目を向けて微笑みかける。その笑顔が何となく悲痛そうに見えたのは、僕の気のせいだろうか。それとも定期的に僕らを照らす水銀灯が、そんな風に見せた幻影だろうか。
そのままとりとめのない話をしながら深夜の街を走り、少しだけ明るい路地に出る。この道をそのまま進めば中心街だ。しかし僕らの目的地は、そちらの方向ではなかった。
すぐ横にある高層ビル。その陰に入り込むような駐車場に、僕は車を止めた。真っ暗な露天駐車場の中、ボンネットを回って助手席のドアを開ける。
「先輩、つきましたよ。」
僕は手を差し出して先輩に告げる。
「ん、有難う」
先輩は体をこちらに向けて、僕の手を取ってくれる。こんなのはエスコートの真似事でも、なにか先輩に意味を残せるのなら、きっと意味はあるのだろう。
僕は灯りが一つも点いていないオフィスビルを見上げる。そこが今日の僕たちの目的地だった。
墨で塗りつぶしたような闇の中、誰の目にもつかないように、先輩の手を引いて僕らはビルの裏手に回る。一度だけ下見をした記憶を辿り、あるはずのドアノブを手探りでつかんだ。
「先輩、少し下がって」
ドアノブを捻り、体重をかけるように一歩を下がりながらドアを引く。その重さ以上の抵抗もなく少し金属が軋む音をさせながらドアは開いた。
「ええ、約束通りね」
先輩の声色に少しだけ楽しそうな響きが混じっている。
僕たちとこのビルとは、なんの関係もない。僕も先輩もただの大学生で普通に入ろうとしても止められるだろうし、裏口のドアが開いていることはないだろう。しかし今日、僕たちはここのドアの戸締りがされていないことを知っていた。
「先輩、ずっと階段だけど大丈夫?」
その扉は、このビルの昇降階段の入り口……いや、本来なら非常時にしか使われないはずの非常階段の出口だった。先輩を中に引き入れて扉を閉める。スマホのライトで照らすと、目の前には延々と続く階段が影に吸い込まれるように聳えていた。運動があまり得意ではない先輩が少し心配になる。
「もちろん大丈夫よ。少し休みながらになるかもしれないけどね」
先輩はハンドバッグを握りなおして、階段を登り始めた。
僕と先輩は大学のゼミで知り合った。先輩の第一印象は「マトモさを捨てた結果、マトモに見える人」だった。先輩の言葉はまるで雲をつかむようで、かと思えば舌の根が乾かぬうちに地に足のついたことを言う。僕は最初、彼女のことが苦手だったように思う。
間違いなく美人な先輩だけど、そのせいで浮いた噂の一つもなかった。いや、あった。地検でダムに行ったときにダムの上から飛ぼうとしたらしい。いや浮いてない、飛んでいる。
それでも僕はいつの間にかその姿を目で追ってしまっていた。そこに先輩がいないか、探してしまっていた。それを自覚してからは、先輩に惹かれるのにさほど時間はかからなかった。先輩は浮世離れしていて、言うこと成すことおかしくて、それでいてふとした時に見せる笑顔が魅力的で危なっかしくて、そして自由だった。
漫然とした自分への否定感を引きずっていた僕にその姿は新鮮で、そして強烈だった、
だから僕は彼女に近づくために話しかけたのだ。
「先輩。高くて静かで誰にも邪魔されない場所を知ってます」と。
けれども先輩は目標を忘れていなかった。飛び降りの決行日は一日一日、刻一刻と休むことなくと近づいてきていた。
そして今日がまさしくその日だった。果てしない階段を登り切って扉の前に着く、何の変哲もないその鉄の扉。僕はいっそ開かなければいいと思いながらそのドアノブに手をかけ、体重をかける。
僕の願いに反して、なんの変哲もなく扉が開け放たれる。二人とも、しばらくぼんやりとその景色を見つめていた。単純にそれは、綺麗だった。
町の中心部から少し離れているため、灯りが一望できる。ネオンサインのようなカラフルで小さな光、建物から漏れ出す燈、膨大な量の光のがまるで波のように夜の中に瞬いていた。
「綺麗」
思わず僕の口から言葉が漏れる。
「うん。確かに綺麗だわ。雰囲気は最高よ」
先輩がいつも通りの口調で答えてくれる。それでいて僕の横から、僕の方を一瞥もせずに屋上に向けての一歩を踏み出す。先輩は揺るぎない。その笑顔を変えないまま、僕の気持ちを知っても、きっとその歩みは止まらないのだろう。
僕はその止まらない先輩を、いつだって追いかける。今だってそうだ。だってそのままだと先輩はもう二度と手が届かない所に行ってしまいそうになるから。
事実、もう彼女は外周にある柵に手をかけていた。人の胸ほどの高さまでしかないその鉄柵は落下防止には十分な役割を果たすだろう。だけど人の意志を止めるには役不足だった。先輩は足をかけて勢いよく飛ぶ。一瞬心臓が止まりそうになるが、柵の外側にはまだ1mほどの庇があって、そこに着地をしただけだった。
「先輩!」
僕は先輩を呼ぶ、その言葉に乗せた思いは出会ったあの時からは変わっている、それどころか真反対の方向にまで振り切ってしまっている。
飛び降りなんてさせない。その歩みを、なんとしてでも止める。僕は今日、そのためにここに来たんだ。
「なあに?」
僕の声に応える先輩の顔が、ビルの下からの灯りに照らされて見える、その顔はやっぱり、いつものように微笑んでいた。
少しだけ空恐ろしくなった。この段になっても彼女は何も感じていないのだろうか。
「怖くないんですか」
白い指は鉄柵を持ってはいるが掴んではいない。最悪の想像が頭をよぎって、それを掻き消すようにその顔を、その姿を目に焼き付ける。
「怖くなんかないわよ? 別にこのくらいの高さはどうってことないの」
どうってことなくは無いだろう。飛び降りたら確実に死ぬ。夜の冷たいアスファルトに一凛の真っ赤な華が咲いて、それで終わり。
僕は覚悟を決める。大きく息を吸って、子供のとき以来出したことがないような大声で、先輩に告げる。
「僕は! 今日! 先輩を止めに来たんです!」
先輩はやっとこちらに向き直ってくれた、表情は変わらないけれど、その瞳はまっすぐに僕を見つめている、
僕は言葉を続ける。
「先輩がこんなことをする意味がずっと分からなかった、どうして先輩は自殺なんてしようと思ったんですか?」
少なくとも先輩は絶望しているわけじゃないように見えた。表情が変わらないように見えても、喜びも楽しさも、きちんと持っているように見えた。
僕のありったけを、全部をぶつける。
先輩が静かに口を開く。
「何を言っているの? 私は死ぬ気なんてないわよ?」
一瞬理解が出来なかった、じゃあなんでこんな場所に来る必要があったんだろう、考えが纏まらないまま、続く先輩の言葉で僕の混乱はさらに極まる。
「私はね、フライングヒューマノイドになりに来たの」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・は?」
鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしているだろう。自分で自分の顔が見られないのが残念だ。先輩の言葉は、それほど理解の範疇を超えていた。
「な、なに? それ?」
やっとのことで喉の奥から絞り出した言葉は、ただただ間抜けな質問だった。
「知らないかしら? フライングヒューマノイド。空を飛ぶ人型の存在。私はそれになれる方法を見つけたの。詳しくは言えないけどかなり確実な方法よ。一つだけ必要なのは執着をなくすことよ。空を飛ぶ鳥は、地上のことなんて考えないの、それが空を飛ぶための方法だから」
理解の範疇を超えている。人間が空なんて飛べるはずがない。
「執着するものを削ぎ落としていくの。まずは必要の外側にあるもの、徐々に必要なもの。そして最後は自分の本能に至るまで、全てをね。今の私の『持ち物』って言えるのはこのバッグ一つ、それももういらない……。今、いらなくなった」
最後の言葉の声色に、僕は我に返る。先輩はバッグを屋上に投げ捨てる。理屈はどうあれ、たぶん結果は同じだ。
「これでもう、準備は終わったわ」
そして僕は走り出していた。たとえ彼女に執着がなくても、僕には執着がある。繋ぎ留めたい、側にいたい。
だけど一歩目を走り出した瞬間、僕の体はその場に崩れ落ちた。
地面が揺れる、縦に大きく、すべてを放り出すかのように。
先輩から視線を離せない僕と、地震すら意に介さぬように、手すりからその指を離す先輩。僕になにかの言葉をかけたように見えたけれど、酷い揺れとビルの外側からの逆光で、唇すら全く読み取れなかった。
僕はただ先輩を呼び続ける。先輩、先輩と。
その姿から目が離せなくて、その姿が僕から届かない所に離れていくのを見ているしか出来なかった。
永遠にも思える振動が治まった後、必死に立ち上がって無我夢中で手すりを飛び越えて、それでもそれを掴んだまま遥か階下を覗く。無数のガラス片が散らばってまるで光の草原のように見えるそこに、華は一凛も咲いていなかった。
ゆっくりと暗い階段を降りる。階下にあるのは
僕の家の廊下だった。
居間にいた母が豆鉄砲で撃たれたような目で僕を見る。瞬きを二、三回くりかえしてから、やっと口を開く。
「髪、伸びたわねぇ」
「うん、ちょっと整えてくる」
「前みたいに短くはしないの?」
「うん、僕……ううん、私、もう少し伸ばそうと思うの」
それ以上は声が続かなかった。二か月ぶりに人と話したのだ、当然といえば当然だった。
あの後、警察に全てを話したが、まともに取り合ってもらえなかった。だけど事実として先輩はどこにもいないから、行方不明扱いになった。
それで、終わり。
あまりにも呆気なかった。それ以上先輩を探す人はいなかった、捜索願もぼ……私が出したが、私自身がマトモと思われていないようだった。
先輩は、本当にすべての執着を綺麗さっぱり捨て去っていた。それこそ巣すらもたない鳥のように。
きっと私は先輩のようにはなれないだろう。髪を伸ばしても、言葉遣いを変えても、この先永遠に私を縛る鎖が既にここにある。
私の元には、あの時先輩が投げ捨てたバッグと、傷がある。それ以外は本当に何もない。
お題シリーズ @kinuya
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