お題「ドッペルゲンガー」
どうしてこんなことになったのだろう。自分自身に疑問を抱きながら、私は暗い天井を見つめていた。
消えそうなほど、切れそうなほど、細くなってしまった記憶の糸を私は必死に手繰り寄せる。
始まりはいつも通りの学校からの帰り道。その日も私は心重く、うつむきながら歩いていた。他の人間なんて見えるのは脚や体だけでいい。それでぶつかることもないし、そうしていれば誰とも目を合わせないで済む。
そんな私の前に行く手を遮って立ち塞がる誰かがいた。
私はその人の顔を見ようともしなかった。きっと見ても吐き気がするような相手だ。それなら見ない方がいい。一縷の望みにかけて、私はうつむいたままその隣を通り過ぎようとする。もちろん顔は見ない、見たいとも思わない。
しかしその人物は当然のように私の進路を阻んだ。
ああそうか、また面倒なことになるのか、と私は思った。
何か用ですか、と私はうつむいたまま尋ねた。……確か尋ねたと思う。今となってはその記憶すら定かではない。まるで虫に食われたように記憶が欠け落ちている。
それでも彼女の第一声は覚えている。忘れるわけがない。
「ねぇ、貴方、変わって欲しい?」
と、その言葉で一瞬、現実感が全て失われ、名状しがたい感覚に飲み込まれた。まるで足元がぐにゃりとゆがんだような、まるで彼岸と此岸が繋がったかのような、目の前に絶対的な矛盾と理不尽を突き付けられたような、そんな感覚。
私は眉をしかめる。眩暈に似たその感覚から立ち直ろうと、そしてそれを与えた目の前の誰かを見ようと、うつむいていた私は顔を上げてしまった。他人の目なんか見たくもないと、ずっとそう思っていたのに。
目と目が合う。視線を合わせた誰かは他人なんかではなかった。そこにいたのは、……自分だった。
「ねえ、私と変わってくれる?」
その女はもう一度聞いた。いや、私にしか見えない女が私にもう一度聞いた。
その声に抗いがたい魔力でもあるかのように私の首は縦向きに動いていた。ハトが豆鉄砲を喰らったような表情のまま、私はこくんと頷いてしまった。
「じゃあ決まりね」
そうして彼女は一歩、私の方に進む。彼女から目を背けられない私は、その視線に捕らわれたかのように立ち尽くすことしかできなかった。
彼女はまるでそれが当然のことであるかのように、無抵抗な私の顎を持ち上げ、ゆっくりと口付けをした。
そう、これが始まりだった。唇の先と先が軽く触れあった、それだけの行為。
しかし私はそれだけで全てを理解した。いや、きっと理解させられたのだ。
彼女の存在を、彼女の目的を。そして彼女が何であるか、を。
私がそれを知って逃げることも抵抗もしなかったのは何故だろうか……。もしかするとその時の私には、既にそんな選択権は無かったのかもしれない。
その口付けで彼女のことが私の中に入ってきて、私のことが彼女の中に入っていった。まるで蕩けるような感触、自分と相手の感覚の境界が溶解する、世界が反転する。
だけどそれは一瞬で終わった。
ドッペルゲンガーとして初期化された彼女が私から離れて、顔のない顔で微笑んで、ノイズのように聞こえる声でこう言った。
「ねぇ、一緒に帰ろウ?」
その日から私の記憶はだんだんと曖昧になっていった。そう、その日からだと思う。あの後は彼女と家に帰って、次の日は普通に学校に行っていたはずだ。いつもよりも上の空、いや、始終うつむいている私には下の地面だろうか、何か嫌なことがあってもただ俯くだけ。このころになると、それがより顕著になっていたように思う。
だって家に帰れば、彼女が待っていてくれたから。彼女に触れるたびに、彼女に触れられるたびに、自分が違うものになっていく恍惚があった。そこに恐怖がなかったといえば嘘になるし、彼女が人外の、しかも危険な存在であることも承知していた。
しかしのその恐怖よりも昂揚感が勝った。彼女が家にいるという事実、そして彼女に存在を与えている喪失感と奪われていく快感、私は最早それの虜になって抜け出せないでいた。
そして同時に、私は少なからず彼女に好意を抱いていた。初めて会ったあの時から、自分の殻を破ってくれる、もっと違うところへ導いてくれると確信していた。
二週間だったか一か月だったか、時間なんていう概念は、もうそんなに重要ではなかったけれど、とにかくしばらく経ったころだった。
私は学校を休んだ。足腰が立たなくなったし、目を開けているのすら億劫に感じた。極端な疲労感とでも言えばいいのか、何もしたくないし、実際に何もできない。隣で寝ている彼女は心配そうに私の顔をのぞきこんだり、容体を尋ねたり、あとは時々キスをしてくれたりした。その時の様子は今でもハッキリと思い出せる。
このころには私の記憶は、大半が彼女に関することだけになっていた。それは私にとって望むべくことでもあった。何も見ていなかった生活の全てが彼女のことで埋まっていく。嫌なことがあっても何があっても、全部彼女のことで上書きしてしまえばいいのだ。
私は彼女のことさえ覚えていれば、それでいいのだ。
そうして寝込んでいる私に彼女は口付けをする。小鳥が餌をついばむように、親鳥が雛に食事を与えるように、時に弱く、時に強く。それは脳髄が逆撫でされているかのような快感を私に与えてくれた。
しかしひとしきり私にキスをした後に彼女の口から出た言葉は、私を絶望の淵へと叩き落すに十分だった。
「私、学校に行くね」
私は必死になって首を横に振った。やめてほしいと懇願した。気が狂うほどにお願いをした。でも彼女を止めることは叶わなかった。
起き上がることのできない私が縋るように彼女にしがみついているのは、傍から見れば情けないものだったに違いない。彼女は私に諭すように、まるで子供をあやす大人のように一言一言を丁寧に言い聞かせてくれた。
「学校に行けない貴方の代わりに、誰カが学校に行かなきゃいけないでしょう」
とか。
「あんまリ長いことお母さんを心配させるのはダメだわ」
とか。
でも私はそんなのどうでもよかった。誰かの都合なんて知らない。ただ私の目の前から彼女がいなくなる。それだけが悲痛で、その苦しみが考え得るなによりも辛かった。
結論を言えば、私に彼女を止めることはできなかった。あの顔を見れない、あの声が聴けない。自分の姿を模した彼女が外へと出て行ってしまう、それが悲しかった。
悠久に思える時を寝こんだまま涙に暮れて、彼女が帰ってきて、私に会ってくれる時だけが私の支えになった。
疼痛のような、まるでガラスの破片で神経を抉られるような、そんな日々が始まった。
家に帰ってきた彼女は、まるで千夜一夜の物語のように、その日あったことを報告してくれる。
難しそうな宿題が出た、とか、当てられた問題に答えられた、とか。誰彼と喋ったとか、誰々とご飯を食べに行った、とか。
そういうことを、私は黙って、たまに頷いたりしながら聞いているしかなかった。
彼女の笑顔が眩しくって、それを見ていられるだけならどれだけ幸せだっただろう。
表情が意味をなさないほど、人間とは違う何かに私は近づいていた。けれど私の心はまだ消えずに残っていて、張り裂けんばかりの悲しみに震えていた。
あの笑顔から呪詛にも似た言葉が延々と紡がれている。そんなことは喋らないで欲しい。私が捨ててきたものに興味はない、しようとも思わなかったことに興味はない。それは私がいらないから、無価値だから置いてきたものだ。
どうして貴方はそれを嬉しそうに話すの? どうして貴方の目は私を見ていないの?
貴方に見えているのは外の世界だけで、どうして私のことを見てくれないの?
外の世界のことなんてどうでも良かった。ただ私が最も許せなかったのは、貴方がその価値のないものに奪い去られていくことだった。
それでも貴方は私に毎日の口付けを欠かさなかった。そしてその時ですら、彼女の眼は私を見ていなかった。あの時のような熱情も愛おしさはなくなっていて、残っている感情は慈しみとでもいうような、少なくとも私の求めているものではなかった。
私の顔で世界を愛さないで、あなたがそれに笑顔を振りまくような価値なんてないんだから。私の目で世界を見つめないで、貴方が見るべきものなんてそこには一切ないのだから。私の声で世界に謡わないで。貴方の声は私だけのものなんだから。
そう、貴方は私のものだ。
だって私なんだから。
私は最後に残っているものを全て振り絞る決意をした。
彼女が私のために消さないでいてくれるブラウン管からは、いつも冗談みたいに明るい通販番組が流れていた。
特になんの躊躇もなく、カニの甲羅がばっさり切れる包丁を買った。きっと人の頭蓋だってゴッソリ削げるだろう。
もう時間の感覚は無かった。ただそれを受け取った時、この苦しみがやっと終わるのだと理解した。
そして運命の夜。
いつものように下らない世界のことを話してくれていたあの夜。
あなたの唇が美しくて、ドブのようなものを見てきたはずの瞳がきらきら輝いていたその夜。
貴方が私にキスをする前に、悲痛そうに「さようなら」なんて呟いていたあの夜。
「サヨナラじゃないの、ここからが永遠よ」
そう言って口付けをくれた貴方のうなじをぎゅっと抱きしめて、そのままギロチンのように凶器を振りおろした。
彼女の首が綺麗に落ちる、私の首もきれいに落ちる。私は愛おしくてたまらない貴方を抱きしめたまま、ようやく、ひとつになることが出来た。
眼を開けた私は、自分の顔を真っ赤に染まった両手で覆い隠していたことに気付く。顔を傾けて見れば血に染まった鉄の塊。その向こうには、首が落ちて赤黒い川をを作り続ける貴方の体。
それを全て飲み干そうかとも思ったけれど、私はそれをしなかった。
そう、この体はもう私ひとりだけのものではない、貴方の顔と私の体。
そう。この体はもう二人のものなのだから、これ以上に穢しちゃいけないよね?
元の私と同じつくりの貴方の頭ははっきりして、元の貴方と同じつくりの私の体はぼんやりしている。まるで消え行く影のようで、揺れ動く黒がドレスみたい。
貴方がいて私がいる、これ以上この世界に、十全に満ち足りたことなんてあるだろうか?
落ちていた凶器はテレビのブラウン管で見た時とは明らかに違う形をしていた。もっと大きくて無骨ながらも人の首を落ちしやすそうな形、処刑道具だったかな? でも今、そんな些細なことは関係ないよね。貴方と私を結んでくれた婚約指輪の代わりの刃物。二人の果てまで持っていこう。
まるで幽霊のように軽い躰を立ち上がらせて、さあ今からなにをしよう。
まずは貴方が浮気しないように、この世界(ドブ)を全て消しちゃいましょうか。
後に残ったものは、首のない少女の死体と首を落とす鉄の塊を持った少女の噂
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