お題「失踪」
そうだね、たとえば「一番失いたくないものは何?」と聞かれたとしよう。ある人は「自分の命」と答えるかもしれない。至極当然だ。死んじゃったらどうしようもない。ある人は「お金」と答えるかもしれない。お金がなければ生活できないし、お金さえあれば最悪ギリギリでも暮らしていけるかもしれない。現代社会に適応したいい答えだと思う。
さて、だとしたらこの部屋の住人は何て答えるのだろう。まぁ考えるまでもなく、答えは目の前にあった。
本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本、本!! 英語で言えばBook、Book、……クドすぎるからやめておこう。
整然と並べられた膨大な量の本棚と、雑然と積み上げられた莫大な量の本。もちろん全ての本棚には「これでもか!」といわんばかりに本がぎゅうぎゅうに詰まっている。
どこぞの図書館のような巨大な部屋に、気が遠くなるほどの本……いや、図書館に例えるのは失礼にすぎる。本棚に入る分だけで整理を諦めたこの場所は、ただの紙とインクでできた密林みたいなものだ。
「さてと」
僕はこの部屋の扉にセロテープで張ってあったメモ書きを、ポケットから取り出した。
そこには女性らしい可愛さ、そして書き順が滅茶苦茶に崩された適当さが両立された、それでいて読み易い字でこう書いてあった。
「引籠もります、探さないでください。 姉より」
ことの顛末をひとことで纏めると、こうだ。「朝、姉を起こしに部屋に行ったら失踪していた」この一文だけである。
……OK、あまりにも短すぎた。かくかくしかじかで全てが通じる世の中じゃない。順を追って説明しよう。
そうだな、まず「朝」……の部分はどうでもいいとして、僕の「姉」のことから話そう。
姉とは、自分と父、もしくは母、あるいは両方を同じとする、年上の女性である。この文字を使う場合は大抵は親族の姉を指す。姐だとちょっと意味が変わってくる、義姉の場合でも結構意味が変わってくる、そんなことは心底どうでもいいのだけれど。
とりあえず正真正銘の僕の実姉だ。年齢は16歳、僕の2つ上。この姉というのが厄介な人間で万年引き籠り、そのせいか本に埋もれて知識だけを増やし、そこらの大学生よりは遥かに賢いであろう頭脳を持つ。ただ本人の性格は破綻しているため、時々突飛な行動を起こす。今回のこともその一つだ。
続いて「起こしに」だったっけな。引き籠りなら好きな時間に起きるし好きな時間に寝るだろう、と思うかもしれない。
甘い。ウチではそれは通用しない。家庭方針として「ご飯は一緒に食べる」ことになっているからだ。もちろん事情がある場合は仕方ない。仕事が早くからある、とか。友達と約束がある、とか。……でも家にいるし体調も悪くないのに食事は無し、なんていうのは駄目だ。だから朝食の前に姉を起こしにきた。それが僕がここに来た理由だ。
続けて……なかなか話の流れがいいな「ここ」つまり「部屋」についてだ。酷いくらいに本が詰めこまれた、読書好きじゃなければ卒倒しそうなこの部屋について。
まあ……なんだ。とりあえず自慢じゃないが、と断っておくけど、ウチは結構な金持ちでさ。家がデカいというか馬鹿デカいというか。そのへんのアニメにでてくるような非常識だと思える洋館くらいはある。もしかしたらそれ以上あるかもしれない。
そのくせ娯楽も何もないような片田舎にあるもんで、地域貢献のために作られた部屋がこの部屋だ。そう、さっき図書館に失礼と言ったけど、実質ここが図書館なんだ。……いや、図書館だったんだ、が正しいな。だからカウンターもあるし机や椅子もおいてある。
でも今ではこの部屋はほぼ完全に締め切られている。理由はもちろん……姉だ。そもそも利用者が多くはなかったこともあるのだけれど、今はもう完全に姉のための部屋に変えられている。むしろ巣とか人外魔境と言ったほうが幾分正しい。一つの生物を頂点としてその生き物のために整えられた生態系。人を外れた魔が棲む場所。それが、今この目の前に広がる本のジャングルの正体だ。
次。だんだん面倒になってきた。「行ったら失踪していた」だったかな。これは簡単、部屋の前にたどり着いた僕を待っていたのは一枚の巫戯けた内容のメモ用紙だった。
内容はさっきのとおり、「引籠もります、探さないでください。 姉より」。僕はカウンターにあったボールペンを手に取り、その下に「断る」とだけ書いてポケットに放り込んだ。さて、これで僕はあの非常識人を探す権利を得たわけだ。
とりあえず僕は毎日のように姉を起こしてみた。
「姉さん。朝だよ! 朝御飯の時間だから起きて!!」
僕の声は壁にあたって反響することなく、無数の本の山に当たって砕け消えていく。いつも通りなら一度呼んだだけで、どこからともなく、ぬぼぅっとした表情で姉が本を掻き分けて出てくるのだが……今日はそのつもりはないらしい。そういえば寝起きがいいのか、それとも寝てすらいないのか、僕は全く知らない。まあ少なくとも表情が良くないことは確かだな。
さて、こうなると面倒なことになってくる。もはやこの本の世界から、ちょっとやそっとの苦労で人間一人をサルベージできるとは思えない。このままでは冗談抜きで家庭内失踪だ。もしかしたら大人しく家出でもしてくれてた方が性質がいいんじゃないかとさえ思えてきた。
とるもとりあえず、次にすべきことは失踪の理由、動機を考えることではないだろうか。だけど僕は、それを考え始めた瞬間には、既に挫折していた。考えを追想して答えを出せるような、常識的な人間じゃあないのだ。積んでるOSが違う、とでも言うのが最も近い。同じボタンをおしても出力結果は天(テラ)と無(ヌル)の差、考えるだけ無茶なんだ。
「と、なると。……物理的な手段しかないわけか」
たぶん、今のぼくの表情はさぞかしゲンナリしていることだろう。だけど、きっとこの部屋にいるのは確かだ。だって「引き籠ります」って書いてあったし。
僕は溜め息を一つ吐いて、本の中に足を踏み入れていった。
「……うん、迷った」
家庭内二次遭難をした僕がそこにいた。……いや、こんなの絶対おかしい。あからさまに間違っている。いくら広いとはいえ本棚自体は整然と並んでいるし、壁の位置も分かる。だから迷っても方向さえ見失わなければ出られないはずはない。
出られないはずはない、のだが……しかし事実として現在進行形で迷っている。
それにおかしいことは他にもあった。窓が一切合切なくなっているのだ。
もちろん個人図書館とはいえ、一般開放していたのだし当然のように窓はあったはずだった。しかしそれが一つとして見当たらない。そういえばここ最近。姉の部屋に入って日光を見るのは、エントランスで天窓から差し込む光だけだったなぁ、と今更になって気づいてももう遅い。
光源が一つしかないのなら、単純に光の方向に向かって進めばいいと思うだろう。もちろんそれくらいはやった、当然だ。しかし、当然だったその方法は否定されている。なにせ光源が見当たらないのだ。いや、自分でもおかしいとは思っている。あの髪が縦に長い人のAAを使いながらありのまま今起こったことを正直に話したい気分だ。しかし光のほうに歩いても、本の壁に突き当たったり、いつのまにか光源が自分の後方に移動していたりする。
「……不思議のダンジョンかよ、ここは」
愚痴に意味はないし、どうしてこんなことが起こっているのかも僕は知っている。そして、それと同時に胸が期待に高鳴る。
ずっと待ち焦がれていたことが、もうすぐ現実になる。それも、きっと遠くない未来に。
僕は本の中を掻き分けて進む。その姿は傍から見ればどう見えていただろうか。未知へと突き進む勇気ある冒険家か、それとも破滅へと突き進む暗愚なる狂人か、きっとそのどちらかだろう。
もう半刻ほども歩き回っているだろうか。さっき見たような道、さっき見た気がする本。延々と続く本の山は寄せては返す波のようにも思えた。それは際限なく打ち寄せ、止むことがない。
本の名前を少しずつだが覚えながら歩く。適当に目に入った本だけでいい、とても無作為にそれを覚えていく。「暦の作り方」「昭和名画図展」「おいしい家庭料理和食編」「世紀末覇者になるには」「モンタージュ」「――――」「こうやって金が溶けるFX」「総合商社を立ち上げるには」「――――」「愛しのハインリヒ」「君を呼ばう」「――――」「――――」「――――」
題名が分からない本が増えてきた。もしかしたら、と歩を早める。
本のジャングルの向こうに明かりが見える。いるとしたらきっとそこだろう。
はたして、僕の姉がそこにいた。意味のない本の波に埋もれるように、そして見えない光源からスポットライトを当てられているかのように、寝巻きの上から青いジャージに身を包んだ姉が熱心に本のページをめくっていた。
「……姉さん、もう結構経ってるけど朝ごはんの時間だよ」
いつもと変わらぬ口調で、僕は朝を告げる。それを言い終わらぬうち、姉の視線は冷水でも浴びせかけられたかのように本から跳ね、僕と目が合った。
「おはよう、姉さん」
「びっくりしたよぅ……探さないでって書いたじゃなぃ」
入ってきたのが僕だと分かって安心したのか、険のたった姉の表情が和らいだ。
「それは一方的な要求だから、こっちとしても認めるわけにはいかなくてね」
僕はポケットから一枚の紙片を投げて渡した。
「私ぃ、もう人に会わないほうがいいと思うんだけどなぁ……」
姉と僕の文字の並んだメモを拾い上げて読んだ後、姉はそれに向けて口笛でも吹くかのような仕草をした。そして僕にそれを投げて返す。
ひらりと舞う紙をキャッチする。そこには先ほどまでと同じように文字が描かれているが、何も書かれてはいなかった。
いや、詳しく言おう。文字が並んでいるが、書かれている言葉の意味が一文字すら理解できない。間違いなく今までと同じ文字が書かれているというのに、まるで人類が初めて接する少数部族の文字のように、まったく理解できない。
その理由、それは先ほどの姉の口笛を吹くかのような行為にあった。あれは吹いていたのではなく、吸っていたのだ。
「う~ん、やっぱり人が書いたナマの文字っていうのは美味しいねぇ」
姉が舌なめずりをする。そこにいるのは間違いなく僕の姉で、寸分違わず妖怪だった。
文字を、いや、情報を喰らうおばけ。これを妖怪といわずして何と呼ぼう。
姉も昔は人間だった。本が好きな、深窓の令嬢とでも言うのだろうか。しかしとある日を境に、文字から情報だけを奪うようになった。彼女の周りの本から意味がなくなり、外を歩けば立つ必要のない看板を無数に生み出し、授業が始まれば黒板の板書は無意味な白い汚れと化した。
一日でそれを理解した姉は、図書室に引き籠もった。両親には「自分は情報を食べてしまうから」と懇切丁寧に説明をしていた。曰く、情報そのものはエネルギーに通じる概念だから、食べてしまうことが出来てもおかしくはない、とかなんとか。父さんも母さんもその説明で理解できたのか、いや理解していなくても異常なことが起きているのが分かったからか、引き籠りを止めることも咎めることもできなかった。以来、通信販売で無数に本が増えていく部屋が姉の牙城となった。
「もしかして窓が一切ないのも姉さんの仕業?」
「うん~、そうだよぅ。本が傷むからねぇ……ちょっと細工はしたけどさぁ」
「そっか、早く朝ごはん食べに行こう」
僕は少し急いで振り返って、その場を後にする。別に学校に遅れるのが嫌とか、そんな理由ではない。というより遅刻は確定しているので、そんなことは本気でどうでもいい。
僕は今の表情を見られたくなかった。今、自分の顔を鏡ですら見る勇気はない。きっと、とてもキモチワルイ。
……僕は確かめたいのだ。姉がこのまま人間に戻るのか、妖怪のままなのか、それとも、魔物へと化けるのか。
そして今日、うっすらと先が見えた。きっとこのまま、姉は
取り返しの
つかない魔物に
転化する。
僕のこの興味は何を基盤としているのか、それは僕自身にも分からない。誰かが想像できるようなことだとは思うから、別に読者の君の思っている動機でも構わない。ただ一つヒントを出しておけば、その理由はきっとロクでもなく黒く歪な何かだということ。
だけど僕は楽しくて仕方がない。僕にとって一番失いたくないもの。それは今、この過程、この一瞬。
一番失いたくないものを失うために疾走する僕の、そう、失踪する僕の最期はどうなるだろう。だけど確実に言えることがひとつある。
きっとそのとき、僕は、満足している。
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