お題「喫茶チベット」
板張りの床、控え目なオレンジの電燈、シックなジャズが流れ、カウンターの向こうには美しく磨かれたグラスが並ぶ。観葉植物は店の邪魔にならぬよう隅に置かれているが、しっかりとそこに緑があることを主張している。
店内の様々な物に調和が取れていて、マスターの趣味が窺える。総じて言えば雰囲気のいい店だった。もう少し照明を暗くすれば、夜はバーとして営業出来るのではないだろうか。また事実そうなのかもしれない、と彼は思った。
しかし問題はカウンターの向こうに立つ初老の男だった。客が来ているというのに、渋い声で「いらっしゃいませ」の一言を言ったきりで、席の案内もしない。
しかし郷に入っては郷に従えというし、それがこの店のスタイルだろうと思い、彼はカウンター席へと向かう。
端の一席に座ると、マスターがやっと「おや?」といった表情で彼の方を見た。
そうしてマスターはグラスを磨く手を止め、彼の方へ向かいながら破顔する。
「いやぁ、すみません。見えない人でしたか」
「見えない? どういうことだい?」
マスターはにっこりと、しかしそれ以上の質問は不要だと言わんばかりに微笑む。そしてスッっとメニューを手渡す。
「すいませんね。うちに来るのはあらかたが変な人なので。気にしないでやってください」
彼は眉をしかめて、差し出されたそれを受け取った。マスターが何を意味してそう言っているのかは分からなかったが、なんとなく仲間外れにされたような気がした。
気を取り直してメニューをめくる。1ページ目には喫茶店らしくコーヒーメニューが、2ページ目以降は軽食などが、そして最後のページにはデザート、と特に変わったところのないメニューだった。
彼は顎に生えた髭を少し撫ぜながらコーヒーのページを見る。その手前にマスターが水をコトンと置いた。
「ブレンドも受け付けますよ」
「いや、いいよ。ブルンディをストレートで貰えるかな」
「かしこまりました」
マスターは一礼すると、サイフォンの方へ向かって行った。
それを見て、彼は周囲を見渡す。客は彼一人。午後、仕事が終わって帰宅が始まるような時間だというのに、店内は閑散としていた。新聞を読むサラリーマンも有閑なマダムもいない。
この喫茶店は、確かにやや不便なところにある。しかし一人も客が居ないのは店としてどうなのだろうか。
また彼の御同類がいないことにも一抹の寂しさがあった。
「お待たせしました」
マスターのかける声を聞き、意外と思考が長引いていたことに気付く。
目の前に温かで滑らかな黒いコーヒーが出された。
「ああ、ありがとう」
彼は用意された角砂糖とミルクを入れてコーヒーを飲む。彼自身は日本茶の方が好きではあったが、コーヒーはあまり好きでなかった。先程のオーダーも書いてあるものを出鱈目に注文しただけだった。
しかし出されたコーヒーは酸味が弱く飲みやすかった。悪くはない、そう思いながら彼はゆっくりとコーヒーを飲み干した。
会計を済ませ店を出る。帰りの道は少し遠いが、来たばかりは仕方なかった。
彼は、どこか洋館にも似ている外装をした喫茶店を振り返る。「喫茶チベット」と書かれた看板に、電球の光が当てられている。
外はもう暗い。彼は当てが外れたことにやや悔いを残しながら、その場を後にした
「出るって噂だったんだがな……」
一方、喫茶店の中では、その場の雰囲気をブチ壊しかねないような、ベタベタのアニメ声が響く。
「ますたぁ~。結局あの人、私に気付きませんでしたねぇ~?」
「こればかりは彼の素質だからね、仕方ない」
「そのわりには、頑張るんですねぇ?」
メイド服を着たその幽霊はニヤリと笑う。
「仕事だからな。看板くらい変えるさ」
「まぁ、願いをかなえるお店ですしぃ?」
幽霊は能天気にふよふよと浮き、外へ別の看板を持って行く。
「戻してきますねぇ」
ガタンガタンと、外で乱暴な音が響く。その音を聞きながら、カウンターの中でマスターは遠い目をした。
そうして独り言を虚空へ向かってつぶやく。
「気に行って貰えただろうか……喫茶店チベット。ネットに惹かれてやってきた人間には、毎回看板変え(コレ)が必要なのか……人間は本当に面倒だ」
彼もきっと、人間ではない。
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