お題「雪山」

 冷たい、と彼は思った。

 目の前には、数え方が「一人」から「一つ」に変わったものが転がっていた。

 冷たい、と彼は思った。

 人間の体というものは、機能を失っただけでこれほどまでに寒々しく、痛々しいものになると知った。

 冷たい、と彼は思った。

 四角格子の窓から見える景色は、白。

 まっくらで、まっしろ。それは止むことのない雪と、いつ明けるとも知れない夜で作られた銀世界だった。


 よくある話だ。

 雪山で遭難したら、小屋を探して、そこで待て。

 その際は、二人で裸で毛布にくるまってもいいし、四人で部屋を廻ってもいい。それは個人の自由だ。

 ただ彼は一人でここまで来たため、その自由にはまるで縁がなく、壁に背を預け眠っていただけだった。

 この地方の雪は強く、長い。特にこの高度まで来ると、誇張無く、止むことがなかった。

 三日後か、はたまた一週間後か。空の機嫌が悪ければ、それ以上の期間、滞在を余儀なくされる。

 彼は防寒具は十分に用意していた。問題は食料だった。何をするにも、寝る事にすらカロリーを必要とする。寒さで体力の消耗も激しい所為で、それはより切実だった。

 彼の食料は多く見積もっても一週間弱。その程度だった。


 遭難二日目の夜。雪と吹きすさぶ寒風は、一向に衰える気配を見せなかった。

その夜。深夜に迫ろうかという時、そいつはやってきた。

息も絶え絶え、とも言えないほどだった。本当にいつ息絶えていてもおかしくないほどであった。そいつはドアを開けると、まるで倒れこむかのように屋内へ入り込んできた。

「食料を……持っていないか」

 吹き荒れる風の音と軋む材木の音の最中、彼は確かにそう聞いた。

「頼む……。食料があれば分けてくれないか?」

 今度は比較的はっきりと、彼の耳に届いた。

 彼は傍らの荷物を見やる。見積もりが甘かったのか、残りはあと四日分ほどしかなかった。

 いつ止むとも知れぬ白銀に対して、この量は多いのだろうか、少ないのだろうか。

 彼が自らの荷物を見て考えこんでいると、そいつはゆっくりと、這うように向かってきた。

「あるんだな? なあ、あるんだよな? 少しでいい……ほんの一口分でもいいんだ」

 そいつの目が近づいてくる。その目を見て、彼の体に緊張が走った。そいつは強請るような、脅すような目付きそして、こちらに近づいて来ていた。

 そして、それと同時に言外のプレッシャーがこう告げていた「拒むようなら、どうにかする」と。

「なあ頼む」

 姿勢は低く。姿勢だけは、低く。そいつは彼の前まで来て、血走った目で彼を見上げた。

「それを、くれ」


 彼は、自分が何をしたのか分からなかった。理解しなかった、と言ってもいい。

 目の前にはゆっくりと血溜りを作る死体が転がっていた。彼の手には何も握られていなかったが、何かを強く握りこんでいた感触と、腕を振り下ろした筋肉の感覚が残っていた。

 持ち物を確認すると、登山用のステッキがなくなっていた。あと、何故か窓が開いていた。外を見る気には到底なれず。目を背けながら窓と扉を閉めた。

 彼は、何をしたかを理解しなかった。

 そして、機械的に窓に錠をかけた。


冷たい、と彼は思った。

すでに遭難は七日を越えていた。外の天候は一向に変わる気配が無かった。

冷たい、と彼は思った。

 彼の体も、今はほとんど熱を持っていなかった。傍らには食べつくした食料のパッケージが転がっている。

 冷たい、と彼は思った。

 あそこにあるモノが一番冷たい。間違いなく、一番冷たい。


 それから更に三日が過ぎた。

 もはや彼は屍のように動かなかった。

 しかし彼の脳裏には、おぼろげに思考が働いていた。

「喰えばいい」

 それだけが響くように、彼の中を回っていた。

 小屋の中央には死体居委胃伊異いいいいいいい、否。肉塊が転がっている。それはこの寒さのせいか、腐臭もせず、ただ頭部からの血液が凝固しただけの姿を留めていた。

「喰えるものを喰えばいい」

 そう、躊躇する必要など何もない。他人の生命の尊厳を奪っておいて、自分の精神の尊厳だけ保とうなど荒唐無稽もいいところだ。

 まだ動けるうちに動いて、生き延びるために喰えばいい。


 ……そうだ。そもそも自分の尊厳を最大限に保とうとするなら、さっさと喰べるべきなのだ。一つの命は星より重いのだ。自らの尊厳を保つために、命を繋ぐためにそこの肉塊を喰べたとして、誰が彼を責められようか。


 彼は這いずるようにして動いた。ずるずると情けない動きをした。

 ナイフはポケットに入っている。山を登るときには必ずそこに入れてある。

 彼はそのまま真っ直ぐ、……ドアへと向かった。

 雪の重みで開くはずのないドアが開いた。

 外へ這いずり出る。そこには血に濡れた一本の登山用ステッキが落ちていた。この猛吹雪の中で、どうしてかそれは簡単に手に入った。

 握って、それに縋り立つ。不思議と空腹も疲労も感じなかった。

 立ってみれば、血に濡れたステッキすら不要ではないかと思えた。

 それでも彼はステッキを握ったまま、山の奥へ幽鬼のように消えていった。


 後日、雪山の係留小屋にて、他殺体が見つかった。

 直接の死因は頭部の殴打による物であったが、それ以前にも酷い衰弱が見られた。

 状況から見て係留小屋内にもう一人、つまり犯人がいたことは間違いないが、その者は荷物も持たず食料も持たず、雪に塞がれていたであろう扉を開け、いずこかへと立ち去ったと見られる。目下捜査中。

 また凶器……恐らく登山用のステッキも見つかっていない。こちらも依然捜査中である。



 若い登山者たちの間で囁かれる噂がある。

 とある雪山で迷うと、遠くに赤い服を着て赤いステッキを持った人物が現れるという。彼が指し示す方向へ行くと、不思議なことに吹雪に遭わず、人里にたどりつけるという。

 ただし彼を追ってはならない。それは人にとって、立ち入ってはならぬ領域である。

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