お題シリーズ
@kinuya
お題「花見」
須臾を越え刹那、刹那を越え清浄、清浄を越え涅槃寂静。もはや現実に存在したところで、それらを知覚する必要がないほどに小さい数。
ならこの一分一秒は、世界にとってこの数よりも大きいといえるだろうか?
答えは否。世界にとって数も時間も意味を持たない。意味を持つとすれば、きっとそれは人間にとってだけである。
だから彼は時間を止める。その一瞬を、外殻とレンズ、そしてフィルムを組み合わせたものに閉じ込める。出来うる限り、その微細に近づくことを願って。
とどのつまり、彼は写真家であった。専門はもっぱら自然や町並みなどの静物で、人物は仕事で撮るだけだった。
人気はそこそこ程度だが、ありがたいことに喰うに困らない程度は稼いでいくことができた。
スタジオが定休日のとある春の日、彼は少し遠出をした。
目的は桜。少し前に、客から県境を越えた山に見事な桜が咲いていると聞いていた。
それに感化され、春の風物詩である咲き誇るだけのソメイヨシノではなく、もっと正しく、生命力の発露として花を咲かせる桜を撮りたいと思った。
電車を乗り継ぎ、目的の駅で降りる。屋根すらないホームに春一番が吹き荒れる。思っていたよりも遥かに田舎で、改札すらない無人駅だった。
「こっち……かな」
駅を出て、客に貰った地図を頼りに歩を進める。駅の前だというのに道は舗装されておらず、その上に山が目前にまで迫っていた。
少し歩いて、山に入る。一応は登山コースが設定されているらしかった。
山の斜面を横切るように道は続いている。地図には道なりに歩いていけば到着すると書いてあった。
ものの三十分は経っただろうか。歩けど歩けど一向に桜へとたどり着かなかった。
「……」
嫌な考えは心の奥底に沈めて、もう一歩を踏み出す。ただ耐えられなくなるのは時間の問題であろう。
後ろを振り返る。
「……道じゃない、よな」
背後にはやや明るい山の斜面が広がるだけだった。歩いてきた道は何処にもない。
彼は前に向き直った。後ろを振り向いた今となっては道は見えず、ただ鬱蒼とした木々の切れ目があるだけだった。
「誰だよ、僕の後ろに道はできる、って言ってたのはさ……」
登山ではよくある事だ。途中、間違って獣道に入り、その道を辿るうちに少し広い所に出る。後の選択肢は無限大。好きなように自らの選んだ道で迷子になれる。
「……どうしようか」
悩んだ結果、とりあえず彼は山頂に向かうことにした。理由は「登山コースが山頂へ続いていたから」という単純な物だ。
幸い斜面は緩やかだった。木々も掴みやすい太さのものが揃っていたし、「迷っている」と思う精神状態を除けば難しい行程ではなかった。
ただ何も考えずに登る。無駄な思考は体力と精神を消耗する。
どれほど歩いただろうか。山の斜面しかないしかないはずの視界に、急に光が差し込んだ。
「眩しっ……」
目の前に手をかざす。光が遮られ、視界が明るさに順応していく。
あるはずのない平地。泉が湧き、そしてその横には桜が咲く。まるで整えきられた庭園のようであったが、こんなところに人の手が入ろうはずもなかった。
彼は誘われるように一歩を踏み出す。森の匂いではなく、爽やかな草と艶やかな花の匂いが漂っていた。
「……桜」
彼が捜し求めていた物が、そこにあった。ふらふらと魅せられたようにそちらへ歩み寄る。
無意識の内に手が動く。露光を合わせ、しぼりを決める。まるでカメラが風船か何かになったように軽く持ち上がる。
ファインダーを覗き込む。あとはピントを合わせるだけ。
しかし、その段になって邪魔が入った。
「ねぇねぇ、お花見しよう?」
ファインダーの向こう、桜の木によりかかるように女の子が座っていた。
「は?」
桜にばかり目がいって気付かなかった。歳のころは八歳程度だろうか。その女の子が魔法瓶のコップを突き出していた。
「お花見」
再びの誘いに彼は戸惑った。状況を理解できない彼に、少女は微笑みかける。
「飲まない?」
「あ、えーと……んじゃあ」
少女の笑顔につられたのか、彼はふらふらと近寄り、コップを手に取った。
そこには、ほんの少し甘く香る透明な液体が注がれていた。何かのジュースだろうか、彼は特に考えず、それを喉の奥に流し込んだ。
何も飲まずここまで上がってきた体に、それは染み渡るようだった。潤いが体中を駆け巡る確固とした感覚があった。
水筒のコップを返す。
「ありがとう、助かったよ。ところでここはドコかな。帰るときは、どう降りればいいかかな?」
少し気が落ち着くと、帰り道が心配になってきた。何しろ道など関係なく登ってきたのだ。そのまま無策で下山できるとは、到底思えなかった。
「帰れないよ?」
女の子の返答は、そんな彼に絶望をつきつけるに十分だった。
「キミも迷子……なのかい?」
狼狽が大きくなる。もしそうなら、この女の子は逆に厄介者だ。
「んーん。違う」
しかし女の子はふるふると首を横に振る。ならどうして帰り道を知らないのか、もう一度問おうとした時、逆に問いかけられた。
「未練ってね、ある?」
「………………それが今、重要?」
「うん。飲んじゃった(・・・・・・)からね」
途端、女の子を纏っていたモノの質が変わった。八つそこらの少女が持ち得るハズのない威圧感が、彼を圧迫する。
「未練……もし強かったら、もどれるかも?」
女の子は小首を傾げ笑う。その可愛らしい声も仕草も容姿も、何一つその威圧感と調和しない。
見た目だけなら、大の大人が怯えるようなものではない。しかし彼の目の前にいるものは間違いなく「ありえざるもの」だった。
「一体なんなんだ……アンタ」
彼は二歩ほど後退さる。
「あー。呼びかた、変えた」
女の子は不満そうに、頬をぷぅと膨らませる。
「仕方ないとは思うけどね。まぁ、わたしが何かはそのうち分かるよ。今は逃げる努力をするべきだと思うなー?」
怪異たる少女はにこやかに嗤う。
その笑顔から逃げるように、彼は踵を返す。そして全霊をこめて地を蹴ろうとした。
しかし、彼はそこから一歩として動けなかった。
動けなかったのは、彼の中に葛藤があったからに他ならない。目の前、いや今は後ろだが、そこには彼の求めていた桜があるのだ。
「……逃げないの?」
女の子が、止まっている彼を追い越し、向き直る。
「どうして立ち止まったの? そのまま走れば、ここから出られたかもしれないのに」
その目には少しの驚きと、幾分かの哀れみがあった。
彼は、自分の首から下がったカメラを両手で持ち上げる。
「桜を……桜の写真を撮りにきたんだ。目の前にこんなに綺麗な桜がある。もうすぐしたら散ってしまうんだ。写真家として放っては帰れない」
「ずっと咲いてるって言ったら?」
「…………え?」
彼には、その言葉の意味が理解できなかった。
「ずっと咲いてるの。――ううん、ここの桜も、泉も、草も。ずっとずっと何一つ変わらないの。ここはそういうところだから」
女の子は「それと……私も」と小さく付け足した。
「それは……永遠ってこと?」
女の子はこくんと頷いた。
須臾を越え刹那、刹那を越え清浄、清浄を越え涅槃寂静。もはや現実に存在したところで、それらは知覚されることなく流れの中に消えいく。
ならば彼の生きたこの一分一秒は、何千億、何千兆と時を刻む世界にとってこの数よりも大きいといえるだろうか?
その答えが否でないとすれば。彼の願いは、満たされる。
「飲んじゃった、ってそういうことか……」
女の子は目を逸らして頷いた。
「出てくなら今のうちだよ。まだ食べて(・・・)ない(・・)から。出るなら早くしないと、えにしが深くなっちゃう」
「……そっか。わかった」
彼は桜から遠ざかる方向へ、歩き出した。
強い願望と、少しの妬みが篭った眼差しが彼に向けられているのが、背後からでも分かった。
平地の端へ辿り着く。彼は振り返った。
「そんな目、……しないでくれ」
それは女の子にとって無理な相談だろう。彼女は少し、目を伏せただけだった。
「戻ってくるから」
女の子がハッとしたように視線を上げる。
「……本当に? 戻ってくるの? どうして?」
「ここに永遠があるから、絶対にすぐに戻ってくる。だから……」
彼は、カメラを構える。
「だから、笑って」
シャッターの閉められた無人の写真スタジオがあった。スタジオの持ち主が失踪し、権利が宙に浮いていたせいでずっとシャッターが閉められたままだった。
しかしそれも今日で終わる。新しい権利者が決まったので、清掃のために業者が入るからであった。
ガラガラとシャッターが開く。ガヤガヤ、ガチャガチャと清掃業者が入ってくる。
埃っぽいスタジオの中、その中の一人がテーブルの上から写真を拾い上げた。
「おい、これ」
「ああ、ココ元々は写真スタジオだったらしいからな」
「いや、見てみろよ。神秘的っつーかよ、なんつーかよ」
「ああ……こいつぁ、見事だな」
そこには咲き誇る桜と、うれしそうな笑顔を浮かべた女の子が写っていた。
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