世界が君に染まるまで

氷堂 凛

世界が君に染まるまで

学生の夏休みが別れを告げる八月二十二日。その日、僕の最愛の人が他界した。

 死因は、交通事故による心停止。夕方駅近くの交差点で信号待ちをしていた彼女に無免許の学生が車で突っ込んだ。僕はその時、会社で毎日の事務作業をこなしている途中だった。

 警察から連絡が入ったその時は、いよいよ暑さで頭もやられてしまったのかと思った。むしろ、そう思いたかった。笑顔が素敵な彼女に再会した時には、彼女の顔には真っ白な布が被さっていた。不思議と涙は出なかった。どこか夢の中にいるようで、これはたちの悪い夢だ。そう思っていた。

 八月二十四日。彼女が土の下に眠った。先日行われた、葬式ではたくさんの人が来た。彼女の明るくて優しい性格の影響なのか、沢山の素晴らしい友人を持っていたようだ。

 来る人来る人が口を揃えてこういった『どうして彼女が』っと。

 そう思うのは当然のことである。しかし、その言葉が僕には辛かった。自分もこの数日で何度もそう思った。でも、彼女はピクリともせず、静かに笑って眠っているだけだった。

 八月二十七日。久しぶりの出勤だ。会社の同僚達は、何か気まずいのだろう。普段のように絡んではこない。そんな状態が逆につらいので、いつも通り接して欲しいものである。そして、またいつもの業務に取り掛かる。


八月も終わりを告げ、草木はオレンジ色に身を包む。僕は仕事を辞めた。決して労働環境に不満があった訳ではない。ただ、僕に気を遣う同僚や上司の優しさが身に染みたからだ。ここにいては余計にみんなに気を使わせてしまう。そう考えたからである。僕は社内でも有名な愛妻家だったらしい。そんな自覚はまったくなかったのだが。しかし、自分の嫁を愛するというのは至極当然のことである。毎晩笑顔で自分の帰りを待ってくれている人を愛するなという方が難しい。

 どこかから帰る途中、どこかまた、扉を開けると『おかえり』と微笑んでくれる彼女を期待してしまう。そんな訳がない。そう理解してはいる。でも、割り切るなんて当然といってもいいほど無理なことだ。

 仕事を辞めたので、今は自由の身。幸いにも彼女がお金をしっかり管理してくれていたので貯金はたっぷりとある。働かなくても何か月かはやっていける。なので、これから彼女との思い出の地を巡ろうと思う。こんな行動に全くの意味は無い。逆に彼女を思い出して辛いだけかもしれない。でも、少しでも彼女を感じたいという、日頃から彼女に依存していた自分の欲求を満たすためにはこれしかない。


「こんにちは」

 僕は、彼女とよく行った本屋さんを訪れた。

「久しぶりだね、おみゃさんが一か月も来ないなんて、何かあったのかい?」

「はい。残念ですが、先日妻を亡くしまして」

「そうかい……」

 本屋のおばちゃんはただ一言だけ。この本屋は僕だけではなく、彼女も幼いころから通っていた。思い返せば、出会った時からよく本の話をして、ここに一緒に来たっけ。そして、僕が初めて彼女に話しかけた場所でもある。

 彼女を初めて見たのは高校二年の冬。部活帰りにゆっくりと自転車をこいでいた夕方。橋の上で、空を見つめる彼女を見て、思わず彼女の事を見入ってしまった。彼女はそんな僕に気づきニコッと微笑んで橋から去っていった。その瞬間、僕の心は制御を失い、完全に彼女の虜となった。

 そして、冬が終わり桜舞い散る春。あの本屋へ訪れると運命の彼女がいた。まさか、とは思ったが、あんな美しい人がほかにいるとは思えない。そう考えて彼女へ話しかけた。

『あ、あの!』

 不思議そうに彼女は僕を見た。そして、何かに気づいたように、

『こんにちは!もしかして、何か月か前橋で私をみていた少年?』

 驚いたことに、あんな一瞬の出来事を彼女は覚えていた。

『どうして、覚えているんですか?』

 僕は尋ねた。

『なんだろうね、運命?ってやつかな?』

 その日から、僕達二人は度々本屋で顔を合わすことになった。そして、少しずつお互いを知った。名前や学校、そして同じ年齢だったことも。彼女は僕を年下だと思っていたらしい。僕が童顔だったから仕方のないことといえばそうなのだけれども。

 懐かしさに浸っていると、窓の外が赤く染まっていることに気づいた。ここに来たのが三時過ぎ。もう二時間ほど経過したようだ。

 店主のおばちゃんに礼を告げると『あんたはイイ男だよ』と言われた。その一言が胸に染みた。そして、僕は本屋を後にした。


 次に本屋の近くの公園に向かった。遊具が少しあるだけの何の変哲もない公園。しかし、この公園は僕にとっても、彼女にとっても大きな意味を持っている公園。僕は高校卒業後の春、東京の大学へ入学するため、この地を去らなければならなかった。その事を伝えるため、彼女をここへ呼び出した。彼女は近くの大学へ入学するので、ここでお別れだ。

『あのさ、僕東京へ行くことになったんだ』

『相変わらず、君は唐突だね。そっか、東京か~寂しくなるなぁ』

 彼女は今まで僕にみせたことのない、悲しそうな表情をしていた。

 その顔をみて僕はこう言ってしまった。

『君が好きだ』

 ただその一言だけを告げた。これを言うことによって彼女を苦しめてしまうことも分かっていた。でも、口が言うことを聞かなかった。この思いは東京へ持っていってはならない。ここでしっかりと捨てて行く。そう決意していたからだ。

『私もだよ』

 彼女からは意外な一言が返ってきた。

『どうして……』

 捨てて行こうと決意していた想いは、儚く崩れてしまった。

『どうしてって、言われてもなぁ、君だって、私に恋してたんでしょ?きっと、それと同じ理由だよ』

 不可解な答えを発して、困る僕をみて彼女は悪戯に微笑んだ。

『ねぇ、私たち付き合おうよ』

『付き合うって、僕東京へ行くんだよ?』

『そんなの関係ないよ。私が会いに行くから。それに私に甘酸っぱい恋のひとつやふたつ経験させてよね』

 “私が会いにいくから”その一言を聞いて俺の決意は捨てて行くから、一生をかけてこの人を守り抜く。に変わった。

 そうして僕たちは恋人へと昇進した。

 思い入れのある公園は、シーンと静まり返っている。赤く染まった空には夜のとばりが下りていた。


 ひとまず、僕は家に帰った。今は、地元に住んでいる。東京での四年間を過ごし、やはり彼女の近くにいたいと考えた僕は、地元企業の面接を受け就職した。

 逆に、彼女は東京の企業にエントリーするという何とも不幸な事件が起きた。しかし、不幸中の幸いといっていいのか分からないが、彼女は書類選考で落ちた。必要な資格が足りなかったらしい。彼女らしいといえば彼女らしい。


 太陽はまた昇り、思い出巡り二日目にして最終日がやってきた。

 今日はまず、都会のビルの上のテラスに来た。ここは、飲食店が多く入る高層ビルで、そのテラスからは都会の夜景を一望できるというのが売りだった。そして、またもや僕たちの関係を変えてしまう思いでのある場所だった。

 社会人一年目の冬。彼女と、久しぶりのデートをしている時の事。ビルのイタリアンレストランで食事をして、僕たちはテラスへ出た。

『綺麗』

 自分の狙い通り、彼女を感動させることが出来た。

『都会の夜景ってのもいいものだね』

 彼女は目を輝かせてこちらを見つめた。

『君がこんなところに連れてきてくれるってことは何かあるね?』

 流石、といった所か、察しがいい。彼女は、テラスの手すりに預けた体を自立させて僕に真正面に向き合った。

『ど~ぞ』

 ほんとに何もかもおみ通しという訳か。僕は膝をついて、ポケットから小さな箱を取り出す。

『この素晴らしい景色のような君の笑顔に惹かれました。僕と共に残りの人生を歩んでくれませんか?』

 俗にいうプロポーズである。

 すると、彼女はそれを見て僕に思いっきり抱きついてきた。僕は片膝立ちの体勢からバランスを崩し彼女に押し倒されるような形で後ろに倒れた。

『もう、君ってば本当に不器用なんだから~これからもよろしくね』

 彼女はそういって、僕の唇を奪った。

『私のファーストキスなんだからね?』

 フフッ♪と彼女が笑う。これから、こんな彼女に振り回されて生きていくのだろうと考えただけで耳が赤くなったのを覚えている。

 帰りは仲良く電車内でも手をつないだっけ。一度したからって、僕が照れるのをいいことに電車内でもキスを迫ってくる。あれには周りの目線が痛くて参ったものだ。

 気づけば、思い出のテラスは人がいっぱい居た。一人の男が黄昏ているのもなんだか雰囲気に合わないというものである。早々に撤退することにしよう。そう思っていた時、彼女が最期を迎えた病院から電話が入った。時間が空いたらでいいので来て欲しいとのことだった。幸い、巡ろうと思っていた場所はここで最後だったので、そのまま病院に向かうことにした。たった三か所だったかもしれない。でも、その三か所に込められた想いは抱えきれないほどだ。


 病院へつくと、彼女に懸命を尽くしてくれた先生のもとへと案内された。

「お久しぶりだね」

「先生、その節はありがとうございました」

 僕は座りながらではあるが、頭を下げた。そして、先生も何も言わず頭を下げた。

「それで、今日はどういったご用件でしょうか?」

 先生は無言で白衣のポケットから紙切れのようなものを差し出した。チラッと見える文字からは“装置マニュアル”と読み取れた。

「先生これは?」

「医療機器のマニュアルだよ。でも肝心なのはそっちの面ではない。開いて裏面をみてみなさい」

 いわれた通り、紙を開いて裏返すとそこにはボールペンで書かれた弱弱しい文字列があった。

「これは……」

「彼女が死ぬ間際、一度だけ目を覚まし、書いた文章だよ。君宛のね」

『私、長くはないみたい。あなたと出会えてよかった。楽しかったわ。こんな我儘姫につきあってくれるのがあなたでよかった。あなたの側にいられてよかった。ありがとう。じゃあね』

 僕は、彼女を亡くしてから、初めて涙を零した。先生はそれをみてそっと、僕を診療室に一人にしてくれた。大人げない程に大声で泣いた。初めて彼女が死んだという現実を突きつけられた。楽しかった日々。彼女の笑う声すべてが脳裏を走った。君が好きだ。君が好きだ。君が好きだ。それだけを胸の中で唱え続けた。

 僕の泣き声が小さくなった頃、先生が帰ってきた。

「彼女は、君にそれを伝えるためだけに、もう一度命を吹き返したんだ。君は彼女が本来過ごすはずだった人生の分まで、苦しんで、悲しんでそして、楽しまなければならない。気を確かにな」

 先生に小さく会釈して、僕は病院を後にした。


 病院を出て、僕は彼女の眠る場所へと来た。

 そこに彼女は姿を変えている。そして、僕はこう告げた。

「君が好きだ。これからも、ずっと」

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