第3話
しばらく後の事
トゥーイはお玉をキンシの頬に押し付けていた。
味噌が融解した温かい液体が、目覚めようとしない若者の頬に付着する。
「先生、起きることを、目覚めを、起床を行う、今すぐ即刻に」
音声が二人の間に広がる空間へ響き渡る。
それは成人した男性のような低さに似ている、少し掠れ気味の音程はおおよそにおいて人間によく似ていると判別できる。
だが同時に、青年から発せられるそれは人間らしさ、例えば肉声ならではの温(ぬく)みを一切感じさせなかった。
均一な音程は人間らしさと言うよりかは、どちらかと言うと機械的な雰囲気の方が強い。
まるで人間の肉声をを食材の様に切り刻み、金属鍋にブチ込んでぐらぐらと煮込んだものを菜箸でつまみ上げたかのような……。
つまりはとても違和感がある、とても違和感の強い声をしていた。
「先生」
酷く掠れた低い音声と共に、トゥーイはまだ温度が残っているお玉を使い、割と容赦ない圧力でキンシの顔を圧迫している。
「先生、朝です」
トゥーイの声音がキンシの聴覚器官へと届けられる。
やはりそれは人間味があるとは到底呼べそうにない、しかしながらキンシにしてみれば、すでに聞き慣れた人物の声でしかなかった。
まだ完全なる覚醒がなされていない魔法使いの頬を、トゥーイの携える調理器具が圧迫し続けている。
液体をすくうのに特化した形状の金属、その銀色の表面にはつい先程まで青年が調理していた汁物、カボチャ入りの味噌汁の残滓が付着している。
金属の表面に残されているそれらが、密着したキンシの肌に擦りつけられる。
汁の気配がキンシの肌を汚す、茶色い滲みに若者の鼻腔が敏感に反応をしていた。
「ああ…味噌の、味噌の香りが顔面を圧迫している…」
キンシは呻き声を上げたが、しかし体を起こそうとする気配は見られない。
トゥーイは諦めることなく話し続ける。
「そうなのです、あなたの言うとおりです。今日の朝に食事は海藻を投入した調理済みの汁。素晴らしき特例として、加工された大豆も含まれています。喜んでください、そして起床することを願います先生」
しかしキンシは瞼を閉じたままお玉を払いのける。
「あー分かってる解ってますよ、起きますよいずれは。
だけどお願いあと五分」
その後も何か言い訳らしきことを言っていたが、呂律も語尾も不明瞭で聞き取ることのできないものだった。
そして結局穏やかな寝息を立てて、キンシは再び眠りについた。
「先生」
ぐうぐう。
「先生」
ついにはトゥーイの呼びかけにすら答えなくなってしまった。
トゥーイはしばらく黙る。
日は刻々と天に昇り、時計の針は止まることなく進み続ける。
青年は諦めて溜め息を吐いた。体から発せられる空気が室内に漂う埃を巻き上げる。
瞼を閉じて、「普通」の人間より大きく尖った耳をあらかじめ伏せる。
目を開けると色を濃くした光が映った。日の光を浴びながら決意を決める。
そしておもむろに布に覆われた首元を掴み、その奥にある機械をいじくった。
「キュイーイイイ!ガガガガッ ピーッ!」
なんということだ! 青年の体からとても人体では実現不可能な不快音がけたたましく鳴り響いた。
許されざる不快音は、広さの足りない部屋に雷鳴の如く轟く。
「うわーっ?」
不意にもたらされた鼓膜を針で突き破られるがごとき衝撃に、若者の睡眠欲はあまりにも無力だった。
キンシは飛び起きて周囲を見回した。もともとの視力の悪さに加え、寝起きの不具合がさらに視界を不安定にさせる。
窓の外から羽音が聞こえてきた。
崖から伸びるでっぱりの上で羽を休ませていた海鳥たちが、突然のノイズに驚いて逃げたのだろう。
「ピーイイイ! ギーッ! ガガガガっ」
「ひいい!」
音は容赦なく鳴り続ける。
キンシは気合で脳を覚醒させ、枕元に置いてあった眼鏡を取る。
慌てていたので、勢いでいくつか本が落ちてしまった。
「おはおはオハ、おはヨうゴザイ、ピー!ピー! 朝食をガガガガッ食事をガガガガガッ」
「わかった!わかったから!起きるから!その音止めてお願い!」
キンシは毛布から飛び出て音の出ている所、トゥーイの喉笛に真っ直ぐ掴みかかった。
「………」
すると音が止まった。
残響だけを残して、埃臭い静寂が室内に満たされた。
「はあ…」
目覚めたばかりだというのに、キンシの体は早くも疲労感に溢れていた。
「おはようございます、先生」
トゥーイは何事もなかったように挨拶をした。
「おはよう、トゥーさん」
キンシは眼鏡をかけ直しながら青年を睨んだ。
灰笛の愚か者は笑う (魔法使い的少女と王様じみた莫迦野郎または如何にして青いバラが椿の言葉を誤解したか) ハルハル(春a裏) @7jhaaxs
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