【R15】お嬢様と魔物【なずみのホラー便 第58弾】

なずみ智子

お嬢様と魔物

 窓越しの月光が、ベッドに横たわった俺と女に淡く降り注ぐ。

 俺は自分の腕の中にいる女の名前を知らない。女も俺の名前を知らないし、知ることもないだろう。


 女は娼婦だ。

 俺はこの女を、饐えた臭いが漂う薄汚れた通りで拾い、ベッドにまで連れてきた。


 顔も体も文句の付けようがないという程ではなかったが、金と刺激で結ばれた一夜限りの関係としては、かつてないほどに楽しめた。

 この女は、まさに天性の娼婦と言えよう。

 しかし、女自身もそろそろ”若さ”という最大の武器がすり減りつつあるのは気付いているだろう。

 いや、体を酷使する性の職業に就いているがゆえ、自らの若さや生命力を”何か”に差し出すかのように、激しくすり減らさざるを得なかったのかもしれない。


 腕の中の女が、俺を見つめ返す。

「私の顔に何かついている? それとも、前にどこかで会ったことあったかしら? 例えば、私がお屋敷にいた頃に……」


 場末の娼婦の口から出た”お屋敷にいた”という言葉に驚いた俺を見て、女はクスクスと笑った。


「以前の私は、お屋敷で暮らしていたのよ。その……レディーズ・メイドとしてね」


 なぜレディーズ・メイドから娼婦に、と聞いた俺に、女は薄く微笑んだ。

 

「お屋敷の中でいろいろあってね……ねえ、あなたは”魔物”の存在を信じるかしら?」


 魔物? 俺は面食らいながらも、首を横に振る。当然だ。

 魔物だとか何だとか得体の知れない存在は、全て”それら”がいると信じ込んでいる人間の心に巣食っているものだ。俺はそんなもの、はなから信じていない。だから、俺は魔物に会ったことなどないし、これから先も絶対に出会うことはない、と。


「それは賢明な考えだわ」と頷く女。

 しかし、そこで話を終わりにすることなく、女は荒れた唇を再び開き始める。



「……今から話すのは、私がレディーズ・メイドとしてお仕えしていたお嬢様の話よ。お嬢様は、お屋敷内に自分専用の寝室を五部屋も持っていたわ。十四才を迎える少し前ぐらいから、二晩続けて同じ部屋の同じベッドで眠りにつくことを、お嬢様はとてつもなく”怖がっていた”の」


 そりゃあ随分、我儘で贅沢なお嬢様だな。俺みたいなその日暮らしの庶民が同じことを親に言ってみろ。『眠ろうと思ったら、どこでも眠れるだろ』と尻を蹴っ飛ばされるだけだ、と俺は鼻で笑った。


「いいえ、お嬢様は”怖がっていたの”。我儘や贅沢なんて理由じゃなくて、”恐怖”がその理由だったよ」


 恐怖? 同じベッドで二晩続けて眠ることのどこが怖いんだよ? 単なる潔癖症か? と、ついに笑ってしまった俺に、女はひとかけらの笑みも返さなかった。


「お嬢様は何度も言っていたわ。『魔物がいるの。私を見ているの。一晩目は、寝室の扉の向こうにいる魔物の気配を感じるわ。でも二晩目になると、魔物は扉を開けて私のベッドの中に……いいえ、”私の中に入ってこようとする”の。だから毎夜、眠る部屋とベッドを変えて、魔物の目を晦まさなきゃならないのよ』とね。もちろん、誰一人としてお嬢様の言うことを信じなかった……使用人たちだけでなく、両親……旦那様と奥様だって、お嬢様に寝室は用意してあげても、娘の奇行じみた言動は単なる思春期の一過性のものだと楽観視していたの。それはそうよね、お屋敷自体に何か”いわく”があったわけでもないし、荒唐無稽な魔物なんて存在を、これでもかと感じているのはお嬢様お一人だけだったのだから」


 女はフーッと息を吐いた。

 窓越しの月光が淡く降り注がれた女の顔は、急激に年を取ったかのように見え、俺の裸の背筋が少し冷たくなった。


「お嬢様が十七才になったある冬の日のことだったわ。流行り風邪で体調を崩したお嬢様はベッドに倒れ込んだの。自力で立ち上がることもできないほどの高熱にうなされていたお嬢様だったけど、かすれた声で必死で周りの使用人たちに懇願したわ。『魔物が見ている。私の中に入ってこようとしているわ。お願い、どこか近くの部屋のベッドでもいいから連れて行って。昨晩と同じベッドで私を眠らせないで』と……でも、病人は安静にというのは鉄則よね。それに、冬の寒い時期だったからなおさらよ。必死の懇願も虚しく、お嬢様は同じ部屋の同じベッドで二晩続けてどころか幾晩も横たわることになったのよ」


 俺はゴクリと喉を鳴らす。

 まさか、いるはずなどない魔物が……というよりもこの場合は魔物ではなく死神が現れて、お嬢様の魂を連れ去っていってしまったのか、と。


「いいえ、お嬢様の熱は下がり無事に回復したわ。そして、それを境にお嬢様は、窓からの眺めが一番いい部屋だけを自分の寝室としたの。五部屋あった寝室を一部屋だけに絞ったということよ。そして、魔物なんてことも二度と言い出しはしなかった。周りにはすっかり落ち着いたかのように見えていたでしょうね。でも、お嬢様は変わってしまったの」


 病気を境に人格が変わってしまったという話は俺も聞いたことがあるが……


「どちらかというと内向的な性格だったお嬢様なのに、屋敷内にいる男達を見境なく誘惑するようになったわ。若いヴァレット(従者)に始まり、親子ほど年の離れたランド・スチュワード(使用人たちの長)までね……もちろん、全員がお嬢様の誘いに乗ったわけではないのよ。でも、中には複数でお嬢様の誘いに乗った男達もいた……今までは眠るベッドを毎晩、変えていただけのお嬢様が今となっては、眠る男の腕を次々に際限なく、昼夜問わず変えているんだもの。屋敷内は乱れに乱れたわ。肉欲の魔物と化したお嬢様によってね……”レディーズ・メイドたちが『魔物はやっぱり本当にいて、お嬢様の中に入り込んで、おかしくさせてしまったんだわ』と陰口を叩いていた”ことだって、お嬢様はちゃんと知っていたけど、もう自分自身を止められやしなかった」


 女がクスクス笑う。


「上流階級において、婚前交渉は当然のごとくタブーよ。だからお嬢様の両親は、屋敷内での醜聞が他所に漏れ出す前に、とっくに純潔じゃなくなってしまった娘を格下の貴族の家に嫁がせるか、もしくは修道院に……と画策していたわ。でも、それより早くお嬢様は屋敷を抜け出したの。数度、寝たことのある使用人の男の手引きによってね。もう十年以上も昔の話よ……さて、お嬢様は今頃、どこで何をしているのかしらね? 火照って潤み続ける体の熱を鎮めるために娼婦にでもなって、毎夜毎夜、違うベッドで違う男の腕の中で寝て……といった具合に、身を持ち崩しているかもしれないわね」


 ついに女は声をあげて笑った。

 この話のどこが笑えるのか、俺には分からなかった。

 そして、女はまっすぐに俺を見た。


「思い返してみれば、お嬢様が魔物に怯えるようになったのは、ちょうど初潮を迎えたあたり……大人の女の肉体への階段を上がり始めた頃からだったわ。魔物というのはもしかして、お嬢様の中で目覚めつつあった”底なしの性の欲望”を指していたのかしら? それとも、本当に魔物がいて、お嬢様の中に入り込み、彼女を果てしない堕落へと向かわせたのかしら? ねえ、あなたはどっちだと思う?」




――fin――

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