陽の昇る頃

 どれほど歩き続けただろう。先程の草むらから途方もない場所まで突き進んだかもしれないし、まだ大して進んでいないかもしれない。いつまでも代わり映えのない一面の荒野は、狼から距離の概念を奪っていた。前を見据えていれば視界に映っていた月が見上げるほどの高さに昇っている所を見るに、屍肉を漁ってから数時間は立っているのだろうが、だからといって狼に特別の変化はない。未だ生きて歩き続けている事への感慨も、歩き続け尚果てぬ荒野の広大さへの絶望もない。狼は、『生き続ける』ために生きている。死なぬ限りは歩みを止めることはないのだから。

 不意に狼の耳は、自身のものとは異質な小刻みな足音を捉える。直ぐ後ろを小さな歩幅で小走りについてくる、四足歩行の生物の気配。その生物が某か、狼は心当たりがあった。まさかと歩を止め、首だけを曲げて背後を見やると、小さな体躯で駆けるように自身の何倍も大きな狼の後ろをついていた仔狼は、目が合うなりその金の双眸そうぼうを煌めかせ、咽の奥からぐるると呻り灰の毛を逆立てた。

 狼には理解が及ばなかった。何故ついてきた、独りで生きてきた狼は、自分以外の生命いのちが近くに在る事に堪えられなかった。威嚇する仔狼に向き直り、自らも牙を剥き出し敵意をあらわに、鼻先で殴るように仔狼の顔を押し払い除ける。先程まで飢えていた仔狼には、巨大な狼の力に成す術なく地を転がる。しかし直ぐに立ち上がり狼と対峙すると、土埃に薄汚れた毛を逆立て、再び威嚇を繰り返した。狼もまた、同じように鼻先で顔を押し吹き飛ばす。

 同じことの繰り返しが十を越え、先に狼が折れた。勝手についてくるならそうすればいい、どうせ何時かは離れていこう、そうすればまた独りになれる。狼は、ふらつきながらも未だ後ろをついてこようとする仔狼を尻目に、荒野の只中を歩いていく。

 月が狼の背に沈み、眼前の空がしらみ始めた。朝焼けを迎え、狼は廃れた地平より昇りゆく陽のまばゆさに目を細め、一つ大きな欠伸を漏らした。


 それから、幾つもの夕焼けを見送り、幾つもの夜を越え、幾つもの朝焼けを迎えた。何時まで経っても、仔狼は狼の後ろをついて歩き続けていた。そうしているうちに、狼とは何倍もの差があった体躯はいつのまにか遜色そんしょくないまでにたくましく成長し、狼の食糧を盗み得ていた食事も、自ら狩りをして獲るようになった。薄汚れていた灰色の毛並みは豊かに伸び、光を受けつやめく銀の毛並みを纏う壮麗な銀狼に、当時の飢餓にあばらを浮かせ、腐肉を食んでいた哀れな仔狼の面影はない。

 最早銀狼は独りで生きるに足る力を備えていたが、それでも狼の後ろを離れることはなかった。

 更に幾ばくかの夜、狼と銀狼は、群れからはぐれたか、荒野に一匹で佇む飢えた同族オオカミを見出だした。うららかな翡翠ひすいの眼をした、小柄なめすの狼だった。銀狼はその狼に自らの食料を分け与えつがいとし、狼の旅路は銀狼に翡翠の狼を加えた三匹となった。

 不思議なこともあるものだと、狼は思いを馳せる。いつかはまた独りに戻るだろうと放っておいた仔狼はいつまでたっても俺から離れず、それどころか番をつくって、ついてくる者を増やしてしまったのだから。俺はまた、独りになり損ねた。

 また幾何かの陽と月をめぐり、翡翠の狼は腹に銀狼との仔を孕み、共に歩き続けることが困難となった。暫くは翡翠の狼を気に掛けながら狼のあとを続いていた銀狼だったが、遂に妻の出産に付き合う事を決め、立ち止まった。それでいい、狼は初めてったときのように、銀狼の金に煌めく眼をじっと見つめ、頭を振り二匹に背を向け歩き出す。おまえの仔を育てろ、生まれた時から独りおまえのようにさせるな。家族と生きろ。

 狼はまた、独りになった。

 それからまた、幾つもの夕焼けを、幾つもの夜を、幾つもの朝焼けを迎えては越え、年月としつきを経た。銀狼や翡翠の狼と過ごした時間など、それまで過ごしてきた独りの時を思えば吹けば飛ぶほどの僅かな間だったのだ。今更独りで生き続けることに感慨も絶望も何もない。

 ない…筈だったのだが。

 たまに、後ろを向いてみたくなる。後ろを追う小さな、逞しくなった幻影を思い返して。

 

 永劫にも思える時間を生きた狼にも、終わりが訪れる。脚が震え、一歩を踏み出すにも酷い苦痛が伴う。狼は歩みを止めた。やがて立つことも億劫おっくうになり、感覚の消えた脚を放り、ひび割れた荒野の地に倒れ伏した。薄らに思い出すのは、遠い昔に喰った鹿の屍体だ。あれもこのように死んだのだろうか、抗えない死の引力に引かれるままに、地に体を埋めたのだろうか。

 ああ、なんと空虚な死に様か。これが独りを選び続けた俺の末路か。だが、こんな俺でも、ただ一時ひとときの間だけ、誰かと共に居たような、そんな気が、するのだ。


 霞む視界に、艷やかな銀の毛並みを携えた荘厳な大狼たいろうが、美しい翡翠の瞳をたたえる番の狼を、さらに大勢の狼の群れを率いている姿を映した。今わの際の幻覚だと逸らした眼の先に、銀の毛並みに右に金、左に翡翠の眼を持つ仔狼が、大狼と翡翠の狼の間に挟まるように立っている。そうか、仔が産まれたか。群れもつくって、おさとしてさらに大きくなって、その姿を、見せに来てくれたのか。

 段々と、辛うじて見えていた大狼の煌めく金の双眸すら見えなくなり、やがて狼の眼は完全に視力を失った。

 死へ向かう体が感覚を喪失していくなか、真黒まくろな闇の中で、狼は届かないと分かりながら大狼へと言葉を紡ぐ。


 ──俺の空虚な生き路の中で、唯一褒められる所があるとするならば。

 それは、俺があの草むらで初めておまえと遭った時、おまえを追い払ったり殺したりせずに、肉を分けてやったことだ。…腐った屍肉しにくだったが。こんな荒野ところで贅沢はいえまい。

 自分からついてきておいて、俺が振り返る度に威嚇して、なんて生意気な餓鬼だと苛ついたこともあったが。今となっては、よくついてきていたものだ。いつのまにか、俺と変わりないくらいに大きくなって、今は俺よりも大きくなってやがる。本当に、大したものだ。

 だが、おまえがどれだけ大きくなろうと、どれだけ強くなろうと、俺にとってのおまえは、初めて遭った時の、肋の浮いた薄汚れた仔狼ガキのままだ。おまえが俺のことを、どう思っていたかは知らないが、俺はおまえが居なくなってから、おまえを、俺の子のように思っていたのだと、気づいたのだ。

 願わくは、お前はお前の子を、独りにすることがないように。お前も俺に会うまでは、俺と同じ、孤独な飢えた狼だったのだから。

 ああ、もう時間なのだろう。最期に一目会えてよかった。生きるために生きていた、俺の無意味な生も、これでようやく、意味が出来る。俺を見送る狼どもよ、さらば。

 さらば。


 最期を看取った大狼は、天に昇る月を睨み、一際大きな遠吠えを放った。群れの狼も同調し、荒野の地が震えるほどに大きな声で、狼の群れは吼え続けた。慟哭にも似た悲哀の咆哮は、天を覆う分厚い雲を呼び、ぽつりぽつり、天から落ちた水滴が乾涸びた地を濡らした。雨は荒野でほとんど降らない筈のものだったが、この雨はとぎれることなく、ずっと降り続いた。いつ止んだかもわからないその雨が晴れると、潤いを取り戻した荒野は永い時をかけ草原となり、多様な生物の溢れる地へと生まれ変わることとなる。


 草原の何処かに、ひび割れた荒野の裂け目に浸食した雨水が土砂を削り形作った、巨大な渓谷がある。朝焼けが草原を照らす頃、渓谷に風が吹き、狼の遠吠えのような音を草原の隅々にまで響かせるという。

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荒野の夜、独り 亡糸 円 @en_nakishi

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