荒野の夜、独り

亡糸 円

月の昇る頃

 所々、まばらに背の低い草が風に揺れている以外に、動いているものはない。地平まで広がるひび割れた荒野は、延々と続いている。此処に生きるものは未だ、荒野の『果て』を見たことがない。

 狼は、乾涸び割れた地の狭間に沈みゆく陽を目を細めて見送ると、一つ大きな欠伸をして、あてどもなしに、ゆっくりと歩を進める。

 狼に仲間はいない。空しいほど広大な荒野に一匹で、日々の食事をどうにか探して生き延びていた。長すぎる生活の中で、狼は独りでいる理由も、最早居たのかも定かではない仲間や家族の面影も失ってしまっていた。すべては遠い過去に置いたまま、ひたすらに狼は生きていた。

 足を止める。眼前の小さな草むらの上を、はえの群れが煩わしい羽音を伴いぐるぐると旋回していた。彼らの羽音の在処が示す物は動物の屍肉しにくか糞のどちらかだ。狼の鼻は草むらの中におりのようにわだかまる屍肉の腐臭を鋭敏に嗅ぎ取っていた。

 狼は一切の逡巡しゅんじゅんなく草むらへ身を投じ、体中にまとわりつく蠅など気にも留めず、草を鼻先でかき分け、屍肉のもとへ到達する。他の肉食動物に襲われたとおぼしき、痩せた鹿の屍体だった。贅沢な捕食者だと、狼は鹿を憐れみ嘆息する。柔らかな腹の肉だけを抉られた喰いさしの状態で捨て置かれていた哀れな鹿の余った肉を、蠅とともについばむように食す。強者のおこぼれを食らうような卑しい行為ではあるが、とうに狼に捕食者オオカミであることへの誇りはない。生きるためならば他者の食い残しだろうが腐肉だろうが迷わず食す。狼はそうして生きてきた。

 残っていた肉の半分ほどを腹に収めたころ、向かいの草むらから狼同様、草をかき分けこちらへ向かう獣の気配があった。気配は草をかき分ける音、自身のものではない獣臭を伴っていた。単に風で草むらが揺れただけなどではないだろう。自らの食料を奪わんとする敵の存在を認め、狼は咽をうならせ揺らぐ草いきれの奥をめつける。

 果たして草むらから現れたのは、同族オオカミの仔だった。自身の丈の倍はある草むらを突き進み、蠅にまとわりつかれながら少しの腐った肉を求め狼に対峙する仔狼ころうは、一目でわかるほどに痩せ細った飢餓きがの身であった。しかしそれでも、ぐるると呻る成体の狼に臆すことなく、同じく呻り声をあげて狼を威嚇する。吹けば飛ぶ、触れれば容易く潰れるような弱弱しい小さな命は、しかしどうして、月光を反射し爛爛らんらんと輝くその眼に、狼が荒野に在って見えたことのない、生きようとする強固な意志を宿らせていた。

 仔狼も必死なのだ。今日を生き延びるために一心に今を生きようと藻掻くその姿に、狼はいつかの自身を重ねる。ここでこいつを追い払い徒死としさせることは、則ち俺を殺すことだ。

 狼は呻りを止め、金に煌めく仔狼の眼をじっと見つめる。やがてかぶりを振り視線を外すと、敵意の喪失を悟った仔狼はゆっくりと屍肉に近づき、小さな口で懸命に肉をんだ。これで今日のうちは、餓えて死ぬことはないだろう。狼は全身を強く震わせ煩わしくまとわりつく蠅をあらかた払い、元来た道を戻り草むらを後にした。

 星月のおぼろな光が照らす虚の地を、一歩一歩進んでいく。何処に行きつくか、狼に知る由はない。目的の地があるわけでもなし、当てもなく歩き続ける狼に終着などあるはずがなかった。

 必要ないのだから、その日を生きることが出来れば、そこが地獄であろうと、狼は歩き続けるのだ。

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