短編三

サツキノジンコ

短編三

『私のお父さんとお母さん』

 題名にはそう書いてあった。

 この家に一つしかないテーブル――家族団欒の象徴ともいえる卓袱台の上には、もう寝てしまっているナツが書いた作文がちょこんと飾られている。

 これはきっと、今度の参観日に出発表する作文なのだろう。

 まだ幼い字で、原稿用紙から溢れ出るほどの思いが綴られていた。

 ユキとアキは、見てはならない物だとわかっていながら、ついつい原稿用紙を手に取る。

 彼と彼女を突き動かすのは、親心からか、不安からか、好奇心からか、それは本人達にもわかっていなかった。

 ちょっとだけ確認する?――ああそうしよう。

 ひそひそとナツを起こすまいとする声は、まるで内緒話をする子供のようでもあった。

 小さな原稿用紙に、二人は吸い込まれるように顔を近づける。頭と頭が衝突するわずか数センチ手前で、二人の動きは止まった。

 覗き込むように窺う視線の先には、一行目の一番最初の文字がある。

 わたしの大好きなお母さん。

 わたしのお母さんはとてもがんばり屋さんです。

 いつも朝早くに起きて朝ごはんを作ってくれるし、まいにち仕事に行ってわたしとお父さんのために働いてくれます。

 悪いことをしたらしかられますが、お手伝いをしたら『よくがんばったね』と言って、頭をナデナデしてくれます。

 頭をナデナデされるととても気持ちがいいです。

 うれしいです。

 いっしょにお散歩に行ったときは、お花の名前を教えてくれます。お母さんは物知りなので、花言葉もたくさん知っています。

 わたしが好きなお花はヒマワリです。なぜならお母さんが好きなお花だからです。

 そしてナツというわたしの名前と同じきせつにさく花だからです。

 花言葉は少しこわくて、あなただけを見つめているだそうですが、わたしはそうは思いません。

 わたしは一人の人を思い続けることはとても素晴らしいことだと思うからです。

 お母さんも、いつかナツにもそんな人ができたらいいねと言って笑ってくれます。

 わたしもお母さんやお父さんみたいに、いつか思い続けられる人を見つけたいと思います。

 二人はそこで原稿用紙をめくる。

 原稿用紙をのぞき込む彼らの顔には、仄かな笑みが浮かんでいる。

 紙を捲る音と、ナツのかすかな寝息だけが聞こえる。

 お父さんはナツと遊ぶかかりです。

 いつもお家に帰ったら、お父さんはわたしと遊んでくれます。

 しゅくだいも手伝ってくれます。

 そしてしゅくだいが終わったら、『お母さんにはしーっだからな』と言って、ナツにおやつをくれます。

 ナツがおやつを食べているとき、お父さんは『これは大人のおやつだ』と言ってばこを吸います。お部屋のまどを開けて、お口とお鼻から白いケムリをぽあぽあだします。

 これはわたしとお父さんだけのヒミツです。

 そこまで読んで、ユキはアキを尻目に見る。アキは口にバツの悪い笑みを浮かべて――すいません。と、謝った。

 ――今度からはナツのいないところですいなさいよ。少し呆れた声でユキは促す。

 そうして二人の目線は再びナツの書いた作文へと移る。

 お父さんとおさんぽに行くととても面白いです。

お父さんはお母さんのようにお花の名前は知りませんが、食べられる草と、食べられない草を見分けることができます。お父さんはお花の中にも食べられるものがあると言いますが、お花は草と違ってかわいいので食べたくないです。

アキについて述べられた文章はここで終わる。

あまり褒められるようなことは書かれていなかったが、もう既に過去の事ではあるが最大の憂慮であった無職であることには触れられていなかったので、二人は肩の荷が下りた気分だった。

無職であることが――無職であったことが、決して悪いことだと思っているわけではない。ただ、父親が無職であれば、当然娘への風当たりも強くなってしまうかもしれない。

ユキとアキは、ナツの書いた作文を添削しようと思って覗いたわけではないが、もし右記にあるようなことが書いてあれば、上手くはぐらかそうと思っていたのである。

二人はそこで、二枚目の原稿用紙を閉じた。

最後に少しだけ、お父さんとお母さんにお願いしたいこと――という文章が残っている。

ナツたちの書いている作文のテーマは『お父さんとお母さん』であり、日頃の感謝を伝えても、お父さんとお母さんの紹介文を書いても、一番のお思い出を書いてもよいのである。

ただ最後に一つだけ、お父さんとお母さんにお願いしたいこと――という共通の課題が用意されていた。

彼らの顔には微苦笑こそ残るものの、瞳には慈しみが宿っている。

なんだか申し訳ないな――そうですね。

後悔――でこそないが、娘が自分たちを思って書いた文章をカンニングしたというのは、二人の良心を呵責した。

わたしは昨日や今日のように、毎朝お母さんにごはんを作ってもらって、帰ったらお父さんに遊んでもらう。それだけで十分幸せです。

今はまだ買ってほしいものも、お洋服も、おやつも、何もありません。

わたしはお父さんとお母さんが、わたしのためを思って生活してくれていることをよくしっています。

だからお父さんとお母さんにお願いしたいことはありません。

最後の三行ほどは眠たくなってしまったのか、文字が蛇のように踊っていた。

二人は顔を見合わせて、静かに微笑む。

いつかは想像することさえ諦めていた幸せを噛み締めながら。彼女の幸せが一生続きますようにと願って。

そのまま寝てしまったナツはまだ鉛筆を左手に握ったままだ。

アキは娘の左手か優しく鉛筆を放し、ユキは原稿用紙を二つ折りにしてランドセルの中に入っていた連絡袋の中に治した。

そのまま卓袱台を壁に立てかけ、敷布団を敷きナツを寝かせる。

彼女の寝顔はとても穏やかなもので、普段の活発な様子からは想像もできないほどだ。

ユキは娘を寝かせた布団に自分も入る。

アキはユキが布団に入ったのを見計らい、蛍光灯からぶら下がる紐を三回引っ張った。

部屋の中は唯一の光源を失い、一瞬にして暗転した。

それでもまだ、外界は騒がしい。

台所の出窓からは、様々な種類の光が部屋の中に入り込んでいる。

しかし彼らはそんなことを気に留めない。

父と母が娘を守るように、ユキとアキはナツを挟んで眠りについた。


 後日談。

次の日の朝。

土曜日だというのに三人はいつも通りの時間に起床する。

ユキの作った朝ごはんを三人で食べ、ご馳走様をする。ナツは母の食器洗いの手伝をして、アキは洗濯物を干す。

いつも通りとはいえ普段よりも余裕があるのは、ユキは仕事が休みだからだろう。

珍しく夫婦二人でナツを見送り、今度は自分たちの身支度をする。

ナツには作文を読んだことは伝えていない。

ただ、彼女であれば何も問題ないことを二人は知っていた。

久しぶりの夫婦水入らずの時間――を満喫する余裕などなかったが、二人とも今日の参観日の事、そうでないこと、どうだっていいことを話した。

それは少し、今日の参観日のことをはぐらかしているようにも聞こえた。

子は子として、親は親として緊張する。

どうやら作文は生徒一人一人が音読するようで、とうとう娘に順番が回ってくる。

他の保護者達が少しざわめいたことも、二人の耳には入っていなかった。

彼らの瞳は娘以外を何一つ捉えていない。

娘が席から立ち、目の前に原稿用紙を広げて一文字一文字、一文一文音読する。

「だからお父さんとお母さんにお願いしたいことはありません」

 昨日二人が見たままの文章を読んで、原稿用紙を閉じる。

 他の保護者達が最初とはまた違った意味で騒めいていたが、やはり二人の耳には届いておらずユキの目じりには小さな宝石が輝いていた。

 しかしナツは座らなかった。

「――でも」ナツはユキとアキの方を振り向く「夜のプロレスごっこはお母さんがしんどそうなので、お父さんもう少し優しくしてあげて欲しいのです――」

 二人は教室からダッシュで逃げ出した。

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