第39話 ベンダー公爵家の住民8



 閉まる扉の間から見える甘いアーモンド色の瞳は相変わらずで、私は怪我をしたのも忘れて自身の拳を強く握りしめた。


「.............................クッソ!」


 私は扉が閉まってからしばらくして、折れた左手の指を支えながら、口の中でそう吐き捨てる。手首を支えている左手が血糊で滑るのが不快だった。

 吐き気をこらえながら、私は唇をかみちぎらんばかりに噛む。痛みと怒りが行き場もなく噴き出しそうだった。


 あの狸爺、好き勝手やりやがって。人のことを何だと思ってやがる。

 くそ、くそ、くそったれ。


 はち切れんばかりの怒りとは裏腹に、体の震えはいまだ収まらない。

 そのことが惨めだった。



「災難だったわね。お嬢ちゃん。指、折っちゃってごめんね。ま、お互い生きてて良かったってことで許して頂戴。これから一緒にあの鬼畜からこき使われるわけだしね」


 そう言いながらメイドのエマがずれたソファーの位置を直す。


「…指、手当したほうがいい。止血しないと床が汚れる」


 部屋のわきにいたジェロイがそういって、どこからか清潔そうな布を手渡してくる。

 その表情は最初の柔和な表情でも、獰猛な獣の顔でもなく、門の前で立ちすくんでいた厳めしい兵士のものだった。どうやらこれが素のらしい。

 私は手を渡された布を振り払い、自身で持っていたハンカチで止血を行う。そして、ジェロイをにらみつけ、「.......私に近づくな、くそ野郎」と吐き出す。


 すると、ジェロイは苦虫を嚙み潰したよう表情になり、後ろに下がった。脇で見ていたエマがケタケタと笑う。


「くそ野郎だって、流石ポンコツねぇ~、年下の女の子にまで舐められちゃって」


 にやにやとするエマに、ジェロイが大げさに顔をしかめた。その様子も彼女には楽しいようで、いやらしく笑みを浮かべたまま大あくびをかく。


「…誰がポンコツだ」


「あれ、年下の女の子に負けたポンコツ猿が何か言っているわね? 恥ずかしくないのかしら」


「…お前こそその腐りきった性格をどうにかできないのか。お前のような屑がいるから、魔人の迫害が加速する」


 ジェロイの言い分に、エマは舌打ちをし、「きもっ」と呟いた。

 私は彼らに構うのも嫌なので、とりあえず細く切ったハンカチで折れた指を固定する。かなり雑な処理だが、魔人の私であれば二日もすれば動かせるようになるだろう。


 私が自分で手当てをしている間、ジェロイは私の手当を眉をひそめてそれを見守る。エマは興味もさして無いようでソファーに寄りかかり大あくびをかいでいた。


「おい、もう少ししっかり手当したらどうだ?」


「.......だから、話しかけてくるな二枚舌野郎。

 今回の件は別にもういい。仕事であったことはそれが終われば水に流す。それが私たちの暗黙の了解ってやつだ。

 だが、必要以上に慣れあう気は微塵もない」


「あら、流石に分かってるじゃないの。こんなポンコツよりも仲良くなれそうだわ」


 馬鹿にしたように鼻を鳴らしながらエマが沿おう口にすると、ジェロイはため息をついてそのまま部屋から出ていった。

 私はその後ろ姿を一瞥すると、部屋に残ったエマのほうを見て「私はお前にもいってるんんだ」と言って立ち上げある。

 ジェロイもエマも関わるなんてごめんだ。


「分かってる、分かってる。

 ま、それなりにはやりましょう。よろしくね、レオノーラ」


「その名前は止めろ。こっちの名前はユーリカだ」


「そう? じゃあ、ユーリカね。

 これからよろしく。せいぜい無駄死にしないように、お互い気をつけましょう」


 眠そうな表情でをそういったエマは、半分閉じた目のまま引き攣るような微かな笑い声をあげた。私は笑い声を背に、そのまま屋敷を出ていった。


 通りかかったに庭は相変わらず艶やかで、美しく、そこでいて虚ろだった。表面だけを取り繕った張りぼての空間。灰色の空に染まり切れない、無機質な草花たち。

 やはり、それぞれの住処には、そこの主人の色が写りこむものだ。


 私は早々にその庭から目をそらし、門を通って路地に出る。こんな場所二度ときたくない。明日も来なくてはならないと思うと今から胃痛がする。


 そうだ、明日はジークたちを連れて来いと言っていた。

 いつ、どこまで彼らのことを知られているのだろうか。


 嫌な予感が背後から忍び寄る。まさか、初めからみられていたのだろうか。王都に侵入したときか、それよりももっと前か。

 考えればキリがないが、一番恐ろしい可能性は屋敷の時点だ。


 私は想像をしただけでぶるりと体を震わせた。


 彼らをまた巻き込んでしまう。それが嫌で嫌で堪らない。

 握りこんだ左手が痛い。じくじくとした痛みが全身に広がっているような感覚を覚える。


 私はいったいどこに向かおうとしているのだろうか。私はいったいどこに行けばいいのだろうか。私はいったい、どこに行きたいのだろうか。

 進めば進むほど、ずぶずぶと何かにとらわれていく。

 ただそれが恐ろしかった。

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その呪い穿つ獣 雨傘穂澄 @amagasa_hozuni

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