ラフォーレに告ぐ路面電車

 「おうよ、坊主。山葡萄のジュース」

 「酒はねえのか?」 

 俺は陰でため息をつきながら、軽い会釈で応じた。

 「すみません。当店では取り扱っておりません」

 温くなっちまった酒を誰が飲むのだろうか。生憎、電気の通っていないこんな山奥じゃまともに冷蔵庫の一つ置けやしない。

 一年前に逝去した祖父の遺産として相続してみたはいいが、いざ相続してみると、これがどうも簡単な話ではなかった。まずもって、管理費がかかる。固定資産税なんてその筆頭だ。放っておくと、周りがうるさい。そのコストは正直馬鹿にならない。かといって、売りに出すのも二束三文。そもそも買い手がつくか怪しいものだ。この人口減少の世の中で果たして腐っている土地がいくつあることか。結局山の登山コースを整備し、こうして山小屋を整備したわけだが、まずリフォームするのに100万と少し。登山コースの整備は自治体や林業従事者と掛け合いながら、自費での負担をいくらか楽にしてみたが、それでもなお負債が消えない。相続した資金も底をつき、親に負債の半額は借り、あとは金融に借りた。一応、本職としては、高校を卒業してから漁師を続けているのだが、借りるのにはかなり苦労した。それもこれも、この山のせいで。


 俺は、山葡萄を搾って果汁を木製のコップに注ぎ込むと、山葡萄の葉を添えた。それをトレーに載せお客の元に運ぶ。

「どうぞ。山葡萄のジュースです。つかぬことを伺いたいのですが、何をしにこの山へ?」

 絶景スポットでもあるなら客寄せできるのだが……

「ああ、どうも。いやね、どうも最近は満員電車だとか、上司への気遣いとかで心がまいっちまってね。宛もなく、ふらふらと歩いていたのさ。万年ヒラだとかバカにされに職場に行くのも気だるくなって。いいね、ここは。心が清みわたるようだよ」 

「はぁ。そう言っていただけて幸いです」

「そうだ。ところで、山ちゃんは知らないかい?多分、この山のオーナーなんだけど。麓の家に行っても誰もいなかった」

 山ちゃんとは、俺の祖父の愛称だ。あまり、人付き合いのない祖父だったが、数年に一度、昔の学友と集まり、どんちゃん騒ぎをしていた。そのときの、仲間内での愛称が山ちゃんだった。ということは、祖父の知り合いか?

「うちの祖父は、昨年に亡くなりました。寿命だそうです。わざわざ遠路遥々来ていただいたのであれば、すみません」

「あ、いやいや。そうか、山ちゃんがね。まぁ、我々も歳だ。私も、とっくに定年なんて過ぎてるのにまだ必死に会社にしがみついている小汚ないじいさんだしなぁ。最近じゃ、ボケてきたのか本当に物覚えが悪くて。山ちゃんは、頭良かったからなぁ。何でも覚えてるもんだから、昔話に華が咲いたもんだ」

「え?そうなんですか?祖父が?とてもじゃないけど、信じられませんね。晩年はただのボケ老人でしたし、身内でも特に記憶が良かった印象は無いですね」

「ほら、でも将棋とか囲碁に関しちゃ、他を寄せ付けねぇ強さだったんだな、これが。一度見た譜面なら大体再現できちまうから、対局するこっちもいちいち新しい戦術勉強して来たもんなぁ。そういえば、この山の麓、今電車が走ってるだろ?あれも、凄くてなぁ。わしらの時代はせいぜい路面電車が走っとるくらいだったが、人の顔を覚えるのも得意だった山ちゃんは人で溢れかえる路面電車の客を逐一見とってね。実のところお前の婆さんも、路面電車の乗客で、山ちゃんが一目惚れしたのがきっかけさ。想い人が乗る度、あの麓の家から全力で手を振るんだなぁ。で、ある日いきなり走り出した。走って走って結婚したってわけだ。いや、実に愉快だった」

「祖母ですか。もっと、記憶にありませんね。物心つく頃には既に他界しておりましたから。路面電車ですか」

「懐かしい。いや、実に懐かしい」

 

 思わぬ昔話を聞けてその日は、少し違う面持ちで店を閉めて帰宅することになった。店のシャッターの鍵を手にからめて振り回しながら、山をくだる。日がくれ始めた山は、既にかなり薄暗い。妖怪だのが出るとしたらこんな場所だろうかと思うほどにひっそりとして孤独だ。

 ふと、風が吹き抜けた気がした。森の木々が、静かに撫でやかな囁き声を思わずこぼす。気づけば、山道に幾つかの溝が走った。後ろから、光が差したので、そちらを見やると、すぐさま山道の脇に姿を潜めた。

 カタンカタン。

 聞こえるはずもないのに、軽やかなリズムを刻み、光は、俺の前まで来て止まった。さながら、人魂のような、でもそのわりには恐ろしさを微塵も感じなかった。

 暫く止まっていたかと思うと、急に光は走り始めた。目線だけで、光のあとを追うと、角でふっと姿を消した。俺は目を擦りながら、急いで山道の角まで駆け寄るが、ひょいっと覗くと既にそこに光は無かった。

 


 気のせいだろうか。いや、気のせいに決まっているが、角を曲がる前にふと古めかしい路面電車の姿が浮かび、そこには二人の人影が寄り添って座っていた。

 

 

 さて、明日も気ままに山小屋を続けますか

 

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ハレときどきケ Umigame @n66nn6nn

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