春風ひとつ、想いを揺らして

ゆあん

春風ひとつ、想いを揺らして


 墓を前に煙草を吹かしていると、いつの間にか戻った妻が、墓石に水をかけ始めた。

「いい天気ね」

 春本番を前にして、すでに初夏の陽気だ。照りつける太陽で温まった墓石は、水分を欲するが如く吸収し、またすぐに乾いていく。

「本当、能天気なくらいだよ」

 ここに訪れるのは何度目だったか。かれこれ、三年になる。季節の変わり目にはこうして妻と訪れ、手入れをしているのだった。と言っても、その作業は妻に任せきりで、自分はどうしているのかといえば、こうして煙草を吹かして、感傷にふけっているのだった。そんな俺を妻は咎めたりはしない。

 器用な妻によって、墓はあっという間に綺麗になっていく。毎年異なる花が可愛いらしく添えられるが、どんな花なのかはわからない。花には花言葉とかあって、不釣り合いな場面があるとか、色々面倒な習慣があると聞くが、そのあたりは妻に任せきりだ。きっと添えられる方も、そんなことは気にしないだろう。むしろきっと、毎回変わる花々を見て、少女のように目を煌めかせていることだろうから。

「たばこ」

 気がつけば、妻がそばで携帯灰皿をこちらに向けていた。いつの間にか煙草は短くなって、危うく火傷しそうだ。それを灰皿に押し込み、新しいものを咥えると、手際よく指し出されたジッポの炎にその先端を向け、そして深呼吸する。

 妻は家での喫煙は嫌うのに、この場では甲斐甲斐しい。それは、この場所が俺にとって特別であることを、妻はよく理解しているからだった。


 

「どうすればいいと思う」

 呼び出された飲み屋。珍しく真剣な表情でグラスを見つめているのは、学生の時からの友人、明日香だった。綺麗な髪を耳に流し、細い溜息が酒を揺らした。

 明日香は明るいし器量も良い。正直いい女だとは思うのだが、恋愛には恵まれず、事あるたびに俺を呼び出して愚痴るのが玉に瑕だった。その最大の原因は、明日香の男の見る目の無さにあると思うのだが、それは本人も自覚しているようで、最後には失敗を笑い飛ばし、俺の恋愛の応援をして帰っていく。俺たちはそういう友人関係だった。

「私は、どうしたらいんだと思う」

 その明日香がここまで思い詰めているのを、俺は久しく見ていない。思い当たるのは、卒業を間近に控えた冬、自身の進路に悩んでいた時だ。自分の道を進むか、親のことを考えるか。その決断ができずに、彼女は随分と苦しんでいたのだという事を打ち明けてくれた。彼女が悩む時は、人の人生の影がある。今回もそうだ。

「お前はどうしたいんだよ」

 明日香には五つ年下の彼氏がいた。三十を前にして、本気で惚れた相手。聞く限りでは、良い奴だし、骨もある。「年齢差など気にせず、本気で行け」と偉そうにアドバイスをしたのが二年前。アツアツぶりを見るにそれは間違っていなかったと自負しているが、本日の話題は、その彼の事だ。

「決められないから、困ってるんじゃん」

 八つ当たりのように言い返してしまったことに後悔するように目を細め、酒を一気に飲み干す。常に人に配慮を忘れない彼女の、らしくない一面だった。

「ごめん」

「いや、俺も悪かったよ」

 メニューを差し出すと、お気に入りの芋焼酎を迷いなく指差す。俺も同じものを頼んだ。

「私、ショックだったんだよ」

 彼は、学生の頃から世界を旅するバックパッカーだった。自身の生い立ち、挫折。そうしたものから世界を見て、学び、そして貢献することに生き甲斐を見出していた。明日香と出会ったのは、そんな頃だ。程なくして彼は日本の大手企業に就職し、持ち前の体力を生かして足で稼ぐ営業マンとして活躍、入社二年目で表彰されるなど期待のエースとして上司に可愛がられていた。しかし、彼の心は晴れることはなかった。

「本当は、ずっと行きたかったんだって。でも、私との結婚を考えて、仕事がんばってくれてたんだって。それでも、今の仕事のあり方とか、貧困地域のことを思って、ずっと悩んでたんだって」

 彼が旅で見てきた世界は、日本とは明らかに異なっていた。必ずしも必要ではない商品を、需要の気づきを与えて契約させる日本の営業世界。だが貧困地域では、生きるために必要な物資そのものが不足している。その違和感に、彼の心は軋んでいたのだ。

「私はね、彼のそういうところが、とても素敵だし、素晴らしいし、好き。だから応援して上げたいとも思うの。悲しいのは、それを相談して貰えなかったこと。その原因が私にあったこと。そして悔しいのは、笑顔で送り出してあげられないこと」

 明日香は恋愛で苦労してきた。母子家庭だったこともあり、結婚生活というものに憧れもあった。彼女はずっと結婚を望んでいたのだ。彼女の夢は、幸せな家庭を作ること。そしてそれを、彼も知っていたのだ。しかし彼の夢の実現は、彼女の夢とはかけ離れしまっていた。

「世界一周だって。一年半で済めばいいって。反射的に、結婚してからならいいよって言っちゃった。そしたら、彼、黙っちゃってさ。私、馬鹿だよね」

 彼が世界に行けば、離れ離れになる。いつ戻ってくるかわからない彼を待ち続けるのは、さぞや体力がいることだろう。

「お前、それさ。別に、結婚したくないとかそういう事じゃないと思うぞ。男ってのは」

「うん、わかってる。彼も言ってた。世界一周は、命の危険もあることだから、って。ねぇ、私、どうしたらいいんだろう」

 注文した酒が届くと、しばらく無言で酒を飲んだ。その間、俺は自身の人生を振り返って考えていた。

「一緒に行けばいいじゃないか」

 それは、彼女のために用意した言葉ではなかったかもしれない。それでも、それが最善の選択だと、その時は思ったのだ。

「お前の選んだ人は、日本っていう枠では収まらない、そういうワールドワイドな男なんだろ。そこにお前も惚れてるんだ。ずっと一緒にいたい。だったら、いいじゃないか。一緒に行っちゃえよ。そこで彼が見てきた世界を、お前も一緒に見るんだよ。素敵じゃないか。それこそ、本当のパートナーじゃないか。ちょっと長い新婚旅行だと思ってさ」

 同じ男として、彼の気持ちはよくわかった。彼女を大切にしたい気持ち、幸せにしたい気持ち。そのために努力すること。反面、それを実現するために、諦めなければならないモノがあること。

 でも俺は思う。そうしたモノは、ずっと心にしこりとして残り続けるのだ。それが大きいほど、自分の人生がまるで他人事のように感じてしまうのだ。かつて夢を諦めた俺を、未だに苦しめ続けているそれは、後悔という名の病だった。

「いつでもできることじゃない。若いうちにしかできないことでもあると俺は思う。色々な経験して、それを将来に生かした方が良いだろう。今しかないという彼の判断は間違っていないと俺は思うよ。そしてそれは誰にでもできることじゃない。それを支えることも。明日香は、それができる女だよ」

 俺はかつての後悔を彼女に伝えた。それを知った彼女は驚いていた。俺が夢を諦め現在の道に進んだことは、周囲には肯定的に受け止められていたからだ。大人な選択をした、と周囲は言うのだ。この胸中を誰かに語ったのは、これが最初で最後だ。

「お母さんのことは、俺たちに任せておけ。明日香は自分の幸せを、今こそ掴み取るべきだよ」

 俺も幾度となく彼女に助けられた。素直に幸せになってほしい。そして彼にも。後悔せず、魂に従って、自分の人生をものにして欲しかったのだ。

「あんたに相談して、よかった」

 潤んだ彼女の瞳と、笑顔。いい女という言葉は、まさに彼女のためにあるかのようだった。


 その数ヶ月度、彼女らは旅立った。

 時折、メールで届く知らせには写真が添付されていて、俺たちが知らない世界と、二人の幸せそうな笑顔が写っていた。段々とその頻度は減っていったが、俺はそれが届くのが楽しみになっていた。

 そしてしばらく連絡が途絶えたある日、代わりに届いたのは、彼女の訃報だった。事故に巻き込まれ、彼と共に亡くなったと知った。彼女が日本を離れてから、ちょうど一年が経とうとしていた。



 墓石に刻まれた「明日香」の名。この場に立つと、いつもあの日を思い出す。俺の中の彼女といえば、あの飲み屋での最後の笑顔だった。

 俺のしたことは正しかったのだろうか。あんなことを言わなければ、彼女は旅立たず、そして死ぬことはなかったのではないだろうか。そんなことを、考えずにはいられない。それでも追想の中の彼女は、いつでもあの笑顔を向けるのだ。それが眩しすぎて、こうして思わず、太陽を見上げてしまうのだ。しかし太陽の膨大な光量を持ってしても、それらをぼかす事はできない。この煙草の煙だけが、唯一それを叶えてくれる気がしてならなかった。

 彼女は果たして幸せだったのだろうか。


「そろそろ、行こうか。未来みくも限界だろうし」

 再び呆けていた俺に、妻が言う。我に返り、腕時計を確認すると、いつの間にか約束の時間を過ぎてしまっていた。

「そう、だな」

 やんちゃな一人娘を義母に任せておくのは気が引ける。俺は再び差し出された携帯灰皿に煙草を押し付け、ポケットから車のキーを取り出すものの、しかしその場からすぐに動く気にはなれない。

「ねぇ、あなた」

 墓石を前に立ち尽くす、そんな俺の手を取り、妻は肩を寄せた。

「お姉ちゃんは、幸せだったよ」

 見透かされているかのような言葉に、はっとする。普段、必要以上には踏み込んでこないくせに、こういう時だけは、妙に鋭い。だから俺は、妻にはかなわないのだ。

「お前が言うんなら、間違いないな」

 途端に軽くなった足を、車の方へと向け、二人で手を繋いで歩いた。子供ができてからというもの、こうする機会も無くなったな、と、この機会をくれた姉妹に、感謝した。

「お礼の品を買っていかないとな」

未来みくへのお土産もね」

「そうだった。それがないと機嫌が取れないからなぁ。あの元気さは、いったい誰に似たのか」

 ふたりとも口には出さなかったが、答えはきっと、同じだったと思う。

 

 明日香。

 君の魂はいま、どのあたりを旅しているのだろうか。

 叶うことならば、この春風に乗せて教えてほしい。

 次の春も、そしてその先もずっと。

 俺はこの場所で、それを待っている。

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