第五章 お飾り王妃の危機
「でね、エマ。その時カインさんが言ったのはね――」
離宮に戻ったロイスリーネは、くすくす笑いながらその日にあった出来事をエマに報告する。
「カインさんがね、別れ際に――」
報告が終わり、ロイスリーネがいったん言葉を切ると、エマが何とも言いがたい表情をしながら口を開いた。
「……最近、リーネ様はそのカインという人の話ばかりですね」
エマの指摘にドキリと胸が鳴った。
「え、そ、そうかしら?」
「はい。以前は『緑葉亭』のことばかりでしたが、最近は店の話はあまり出てこず、ずっとカインって方の話ばかりされています」
「そ、それは、店の方はいつもとあまり変わらないから。王宮での出来事が中心になってしまうのは、仕方ないんじゃない?」
「本当にそれだけですか?」
「そ、そうよ」
否定したものの、なんとなくエマの顔を見づらくなって、視線を逸らしてしまう。エマはそんなロイスリーネを見つめて、思わしげに言った。
「リーネ様はそのカインという人を異性として好ましく思っているのではないでしょうか。……いいえ、リーネ様にははっきりした言葉の方がいいですね。つまり、カインさんに恋をしているのではないかということです」
「恋!?」
ロイスリーネはぎょっと目を剥き、それから慌てて首を横に振った。
「ち、違うわよ。私はカインさんに恋なんてしていないわ。そりゃあ、いい人だとは思っているけれど、そもそも、私には夫がいるし」
「名ばかりの夫ですけれどね。いえ、リーネ様、この際夫の有無は関係ないですわ。神の前で誓った夫がいようと恋に落ちる時は落ちるものですから」
「確かにそうでしょうけど、私は違うわ!」
語気も荒く答えてから、外に会話が聞こえてしまう可能性を思い出し、ロイスリーネは声を落とした。
「私は恋なんてしている暇はないの。それに、祖国のためにならないこともしない。だから、私は恋なんてしないわ。……陛下にも、カインさんにも」
「リーネ様……」
エマはロイスリーネの手を取ると、両手で優しく包み込んだ。
「言い方が悪かったですね、申し訳ありません。リーネ様、私は恋をすることが悪いことだとは思っておりませんし、咎めるつもりもありません。ただ、心配しているだけなのです。恋をして、リーネ様が傷つくことを」
「私が傷つく?」
「はい。今のリーネ様のお立場では、たとえジークハルト陛下と離婚したとしても一介の軍人と結ばれることは難しいでしょう。いつか必ず別れなければならない相手に恋をしたら、リーネ様が傷つくだけ。私はそれを恐れているのです」
確かにそうだ。エマに指摘されるまでもなく、カインを好きになったとしてもロイスリーネがその思いを遂げることは不可能なのだ。王妃の立場を下りたとしても、ロイスリーネが王女であることに変わりはないのだから。
カインと結ばれることはないだろう。絶対に。
ロイスリーネは口元に笑みを浮かべて、エマの手を握り返した。
「大丈夫よ、エマ。本当に、恋をしたわけではないから、私が傷つくことはないわ」
「リーネ様……」
「それに私は不貞を理由に離婚されるわけにはいかないの。祖国にも、家族にも迷惑がかかってしまうもの。心配してくれてありがとう、エマ。だけど大丈夫だから」
笑顔で告げるロイスリーネの表情に何を見いだしたのか、エマは一瞬だけ痛ましそうに顔を歪めたが、すぐに笑顔をつくって話題を変えた。
「ところでリーネ様。リーネ様が例の中庭を捜しあててから一週間は経ちますが、その後犯人の捜査の方はどうなったんですか?」
「それが、ずっと北棟に通ってあの男たちの声を捜しているのだけど、なかなか見つからなくて……」
毎日カインの遣いとして北棟に赴き、人が話をしているところに近づいて「声」を聞いているものの、あの二人の声にはなかなか巡り会えないでいた。
「もしかして、あの日たまたま何かの用事で北棟の中庭に来ていただけだったのかもしれない。でも、そうだとしても根気よくあそこで捜すしかあてはないわ」
「そうですか……。やはりそう簡単にはいきませんね。そういえば、軍の方でも北棟に出入りする者たちの中から容疑者を絞り込む作業をしているとのお話でしたが、そちらはどうなりました?」
ロイスリーネは残念そうに首を振った。
「そっちもどうやら暗礁に乗り上げているらしいの。北棟で働く者たちの中で、私が王妃になることに難色を示した貴族たちを中心に調べているけど、今のところ何も出てこないんですって。カインさんによると、そもそも私を王妃に迎えることに強固に反対したのはごく一部の貴族だけだったそうなの。もちろん、そういった者たちは、真っ先に調べたそうだけど、証拠は出なかったそうよ」
報告の書類に囲まれて、ため息をつきながらカインが言っていたことを思い出す。
『陛下は婚約してから実際に結婚するまでの二年半で、強固に反対していた貴族たちを始末……ゴホン、いや、説得して回ったから、王妃を害そうとするような貴族はもういないのが現状だ。もちろん、現に王妃は命を狙われているわけだし、結婚に反対はしなかったものの陰で不満に思っている貴族はいるだろう。ただそういった表に現われていない者を洗い出すのは非常に困難でね』
「エマも知っている通り、私が王妃になるのをもろ手を挙げて歓迎した貴族は多いとは言えないわ。でも反対した貴族も思ったほど多くはないそうなの。言われてみれば、確かに値踏みはされているし、小国の王女ということで侮られているけれど、敵意を向けられたことはないものね」
少し考えてからエマも頷いた。
「そうですね。リーネ様を遠巻きにしている者がほとんどです。でも、表面上はリーネ様を歓迎している貴族だって本音は分かりません。要するに、この国の貴族全員が容疑者になりえるというわけですね」
「そういうことね」
改めて言われると、必死になって半年間調べても犯人が絞り込めない理由が理解できる。
「……陛下が私を離宮に閉じ込めるもの無理はないわね」
どこに敵がいるかも分からない以上、全員から隠す以外になかったのだ。
――だからと言って、私に何も知らせずにいることに納得したわけではないけれど!
その部分はまだ怒っているのだ。
「……それにしても、どうにも動機がはっきりしませんね」
エマが眉間にしわを寄せて呟く。
「エマ?」
「いえ、リーネ様が王妃になるのに反対だから狙うにしては執拗すぎる気がするのです。露見すれば自分はおろか、一族郎党にまで累が及ぶようなことを、ただ小国出身の王妃が気に入らないからという理由だけで粘着するとは思えないんですよね。家の存続を重視する貴族だからこそ。だから、それなりの動機があるような気がします。ではどういった感情が動機に結びつくのか、リーネ様は想像つきますか?」
まるで家庭教師のような口調でエマはロイスリーネに質問した。
「動機、動機ねぇ……」
しばし考えてから、ロイスリーネは思いつく限りのことを挙げてみる。
「恨み、妬み、そして権力、かしらね」
「はい。正解です。その三つのうち恨みに関してはあまり考えなくてもいいかもしれません。いくらなんでも、この国に到着したばかりのリーネ様が命を狙われるほどの恨みを買っているとは思えませんもの」
確かにそうだ。結婚式当日から狙われていたとすると、ロイスリーネが誰かに恨まれた揚句の犯行だとは思えない。
「このうち一番の動機になりそうなのは権力ですね。リーネ様を王妃とするのに強固に反対していた貴族というのは、おそらく自分の娘を王妃につけたいという野望を抱いていたのでしょう。だから陛下に異を唱え、陛下本人か、もしくはカーティス宰相あたりに潰されたと見るのがいいでしょう。問題は、表向きは賛成に回った貴族の中にも、娘を王妃にしたいと思っていた者がいたであろうということです」
ロイスリーネは目をパチクリさせてエマを見た。
「エマったら突然どうしたの? 推理小説でも読んで影響でもされた?」
今までエマはロイスリーネの話を聞くだけで、この件に関して自分の意見を言うことはなかった。それなのに突然どうしたというのだろうか?
エマはほんのり頬を赤くして反論した。
「違います! でもリーネ様を待つ間、時間だけはたっぷりありましたから、私なりに色々考えてみたのです。幸い私には先入観がありませんから、一度原点に立ち戻って広い視野で見られるのではないかと思いまして」
「先入観がないから? 原点に戻る?」
意味が分からず首を傾げると、エマは頷いた。
「はい。そのカインという人も、おそらく陛下も、結婚に反対した貴族を中心に調査しているのでしょう。分かりやすく『王妃を狙う動機がある』のはそういう方たちですよね。でも、私やリーネ様にとって以前反対していた、賛成していた人、というのは過去のことですし、よく知らない相手ですから性格も分かりません。つまり、『この人がそんなことをやるはずがない』という先入観がないわけです」
「なるほど。確かにそうね」
「先入観があると、そこにあるはずの真実が見えなくなるものです。今回のこともそうではないでしょうか。そこでリーネ様にお尋ねしますが、リーネ様がいなくなって一番得をするのは誰だと思いますか?」
「私がいなくなって一番得をする人物? それって王妃の私がってことよね。私がいなくなれば、次の王妃が選出されることになるから……」
少し考えてから、ロイスリーネは答えた。
「タリス公爵のご令嬢かしら。陛下が私との縁談をまとめるまでは、王妃候補の筆頭だったらしいから。今も独身でいらっしゃるし婚約者もおられない。私がいなくなれば、きっと彼女が次の王妃になるでしょうね」
タリス公爵家は先々代国王の甥で、先代国王とは従兄弟同士にあたる。臣下に下ったものの、未だに準王家の扱いだ。現段階でジークハルト以外に王家に男子がいないため、今の当主が王位継承権第一位。彼の嫡男が第二位になっている。
そんな公爵家に生まれた令嬢だ。生まれた時からジークハルトと婚約していてもおかしくなかったが、タリス公爵家に権力が集中してしまうという懸念もあって、婚約者候補に留まっていた。
「確かに私がいなくなれば令嬢を王妃にすることができるから、動機がないわけではないのだけど、人を殺そうとするような人には思えないのよね。それが先入観だと言われれば否定はできないけれど……」
ロイスリーネは飄々としてとらえどころがないタリス公爵が少し苦手だったが、顔を合わせることも多いため、他の貴族に比べれば人となりを見る機会がある。
タリス公爵はあまり権力に固執するような性格ではない。だからこそ、大法官府の長官と貴族院の議長をまかされているのだ。ジークハルトもタリス公爵を頼りにしているようで、公務の時に見た感じだと、他の大臣に比べて打ち解けた様子で会話をしている。
――私と顔を合わせるたびに「陛下は家族に恵まれておりませんから、王妃様には期待しているんですよ」と言ってくるのだけは、辟易するけれど。
「……やっぱり公爵は違うと思うのよ。公爵が犯人だなんてあまりにも分かりやすすぎるもの。王妃候補だったら他にもいるし……」
「そうですね。私も陛下が、犯人が公爵である可能性を考えなかったとは思えないので、きちんと調査していると思います。その上でシロだと判断したのであればその通りなのでしょう」
「は?」
あっさり肯定されて、ロイスリーネは梯子を外されたような気分になった。
――てっきりエマはタリス公爵が怪しいと言い張るのかと思ったのに……。
エマはしれっと言う。
「ここまでは前置きです」
「ずいぶん長い前置きね!?」
「そして最後の動機、妬みです。これはとても単純ですね。ジークハルト陛下と結婚してこの国の王妃となったリーネ様に嫉妬しているわけです。これは動機の一つである権力と微妙に結びついていて、陛下と少しでも結婚できる可能性のあった女性が陥りやすいと思われます」
「王妃候補とその親は陛下と宰相がすでに調べたに違いないと、さっきあなたは言ってなかったかしら?」
「はい。ですから、王妃候補に挙げられた女性の大部分は、調査済みになっているでしょう。でも陛下にとって思いもよらない人物の調査はしていないと思います。私は彼女が一番怪しいのではないかと思っているのです」
「その彼女とは誰?」
エマはロイスリーネを見つめてはっきりした口調で告げた。
「陛下の恋人の、ミレイ様です」
「…………え?」
「動機の点から言っても一番リーネ様を妬んでいるのはミレイ様でしょう。政略結婚とはいえ、恋人が自分以外の人と結婚するんですもの。嫉妬して、排除したくなるのは当然ではないでしょうか?」
「ちょ、ちょっと待って、エマ! ミレイ様は平民よ? 王妃になれる身分じゃないわ。私を排除してもまた別の令嬢が王妃になるだけ。私を狙うのは無意味よ」
ロイスリーネは自分でも意外なほど動揺しながら反論する。
「いいえ、リーネ様。理屈ではないのです。嫉妬なのですから」
「た、たとえ嫉妬していたとしても、彼女に私を狙うほどの権力はないわ。それにミレイ様はタリス公爵令嬢のお茶会に招かれた時に、令嬢の取り巻きたちに苛められたせいで、人前に出ることができなくなったそうよ? ずっと離宮に閉じこもっている彼女が、どうやって刺客を雇えると言うの? 一回や二回じゃないのよ?」
エマはしたり顔で頷いた。
「リーネ様が今仰ったのと同じようなことを、きっと陛下も思ったことでしょうね。人を怖がるミレイ様がリーネ様の命を狙うはずがない、と。でも、それこそ私がさっき言った先入観なのではないでしょうか?」
「それは……」
「リーネ様の命が狙われていたことを知った時から、私はずっとミレイ様が動機の面で一番怪しいと思っておりました。でも陛下たちはミレイ様を疑ってはいらっしゃらないのですよね? 私はそれが不思議でなりません。どう考えたってリーネ様がいなくなって一番喜ぶのはミレイ様でしょうに」
「だからって、離宮に閉じこもっているミレイ様が私を狙うのは不可能でしょう……」
「ミレイ様本人じゃなくても、彼女の養父が雇ったという可能性も考えられます。ミレイ様は王宮に上がる際に体裁を整えるために、陛下の従者であるエイベル様の家の養女となっております。クライムハイツ伯爵は国務大臣の補佐官をされている方ですから、刺客を雇う権力も財力もあるでしょう」
「確かにそうだけれど……」
「ミレイ様には動機もある。手段もあるのです。『この人がそんなことをやるはずがない』という先入観さえ捨てれば、一番怪しいのはミレイ様ですわ」
ロイスリーネは反論できなかった。
――つじつまは、合うのよね……。
「リーネ様、一度そのカインという人にミレイ様のことを調べてもらってください。調べてはっきりミレイ様ではないと分かれば、私も安心します。毎朝エイベル様を警戒しなくてすむのですから」
「あら。エマったら、陛下に対する態度は軟化したのに、エイベルに相変わらず冷たいのは、ミレイ様を疑っていたからだったの?」
そう。エマはジークハルトがロイスリーネのことを守っていると知って以来、彼に対して以前のように冷たい視線を向けることはなくなった。けれど、エイベルには相変わらずの塩対応だったので、どうしてなのかと思っていたのだが。
エマはエイベルの話になるととたんに嫌そうな顔をした。
「それもありますが、エイベル様に話しかけられると妙に背筋が寒くなるのです。虫唾が走るといいますか。……あ、でもエイベル様のことが嫌いだから義妹であるミレイ様を疑っているわけではありませんからね。あくまで私が先入観なしに推測した結果、ミレイ様にいきついただけですから!」
むきになって言うところがますます怪しいとロイスリーネは思う。
先入観なしと言いながら、どうやら多分に「エイベルが嫌い」という先入観が入りまくりの推測だったようだ。
ため息をつきながら視線をエマから逸らした際、ソファにちょこんと座るジェシー人形のお尻の下に『ミス・アメリアの事件簿』というタイトルの本があることに気づいた。確かしばらく前にロウワンでも流行った推理小説シリーズだ。
没落貴族の令嬢であるアメリアと、彼女を秘書として雇った若き豪商ケルンが、二人で赴いた先で起こる事件を解決するというストーリーで、ロイスリーネもシリーズ最初の話を読んだことがあった。若いのに少し偏屈なケルンと闊達なアメリアが推理合戦を繰り広げるのが特徴だ。
どうやら、暇の解消にと離宮に届けさせた本の中に混じっていて、ロイスリーネを待つ間にエマも読んでいたらしい。
――いきなりエマがらしくない推理など始めるから、一体どうしたのかしらと思ったら、この本に影響されたのね……。
げんなりして、再び大きなため息をつくロイスリーネだった。
「ミレイ様か……」
翌日、『緑葉亭』に出勤するため地下道を歩きながら、ロイスリーネは呟く。
確かにエマの言うことにも一理ある。あまりミレイのことは考えないようにしていたが、ロイスリーネを殺したい動機があるのは確かだ。
ミレイからしてみたら、ロイスリーネは恋人の正妻になった女で、ジークハルトの愛だけを頼りに生活している彼女としては面白くないだろうし、脅威に思えただろう。
一方、ロイスリーネはミレイに対して恨みはない。けれど、夫の恋人の存在が面白いはずもなく、かと言って嫌うほどの思いもなく、女としての同情の念もあって、「どういう感情を持ったらいいのか分からない相手」に分類されている。
だからなるべく考えないようにしてきたのだ。
これほど相手への感情がはっきりしない原因は明白だ。
「私、ミレイ様と一度も会ったことがないし、見たこともないのよね……」
ジークハルトに言っても会わせてもらえなかったのだ。会う必要はないと言われて。
それも当然かもしれない。どこの世界に妻に愛人を会わせたがる男がいるだろうか。
周囲にいる人間も、ミレイのことはほとんど話題にしないため、ロイスリーネが夫の恋人について知っていることはほんのわずかだ。
人見知りで、ほとんど人前に出てこないこと。出てきてもジークハルトの後ろに隠れるようにしていること。小柄で可愛い容姿をしているらしいこと。それくらいだ。
そもそも、ミレイの存在を知っている者も王宮限定だ。国民はほとんどその存在を知らないようだった。それほどミレイはジークハルトを気遣って王宮の離宮の一つでひっそりと生活しているのだ。
話を聞く限り、王妃の命を狙うほどだいそれたことはしそうにない。
『いいですか、リーネ様。ちゃんとミレイ様を調べるように言ってくださいね!』
エマにはそう念押しされて送り出された。
「はぁ、半年前に王都に来たばかりの『リーネ』がどうしてミレイ様のことを知っているのかとか、カインさんに問いつめられたらどうしようかしら」
ミレイのことを考えないようにしてきたこともあって、どうにも言いづらい。
「もう。これも全部私を狙う犯人のせいだわ」
足早に地下道を歩きながら、ロイスリーネは唇を嚙んだ。
いつものように『緑葉亭』を一時間早く出ると、ロイスリーネは迎えに来たカインと一緒に王宮に向かった。
馬車に揺られている間、どう言おうかとずっと悩んだものの、結局いい案を思い浮かばないまま、王宮についてしまった。
軍本部の事務所に行き、北棟を出入りする口実の書類を渡される。
「今日はこれをドネル外務大臣宛に届けてくれ。依頼された移民の追跡調査の件だと言えば、すぐに分かってもらえると思う」
「は、はい。あの……」
話を切り出そうとするものの言いあぐねていると、カインが怪訝そうに眉をよせた。
「リーネ、さっきからどうしたんだ? 馬車の中でも何か言いたげにしていたようだし」
「え、えっと」
どうやら馬車にいた時から不審に思われていたようだ。ロイスリーネは覚悟を決めた。
「あの……カインさんに調べてもらい人がいるんです。王妃様の件で」
「調べてもらいたい人? 何か男たちについて気づいたことでも?」
「あ、いえ。中庭の男とはまた別件です。その……クライムハイツ家の養女のミレイ様と、その周辺の人を調べてもらいたいんです」
「ミレイ?」
カインはぎょっとしたようにロイスリーネを見た。思った以上の反応を不思議に思いながら、ロイスリーネは説明する。
「すみません、友人のエマから、陛下にはミレイさまという恋人がいると聞いてしまいました。陛下から与えられた離宮に籠っているというお話ですが、彼女にも一応王妃様を狙う動機があると思うのです。カインさんたちは王妃様との結婚に反対していた貴族を中心に調べているようですから、ミレイ様の周辺はまだ調査していないのではないかと思いまして、一度きちんと調べてもらいたいのです」
説明している傍からカインは困ったような顔をしていたが、ロイスリーネが言葉を切ると、どことなく言いづらそうに告げた。
「いや、その……ミレイは犯人ではないのははっきりしているんだ」
「あら。もうすでに調べていたのですね」
「いや、調べてはいないけれど、彼女が王妃を狙った犯人ではないことだけは確かなんだ」
「……なんでです?」
どうして調べていないのに断言できるのか。カインがミレイを疑いもしないでいることに、なぜかショックを受ける。
「どうして犯人じゃないと分かるんですか? 陛下が違うと言ったからですか?」
そのつもりはないのに、ロイスリーネはまるで詰問するような口調でカインに迫った。
「それとも陛下の側近にクライムハイツ伯爵の縁者がいるからですか?」
「待ってくれ、リーネ。それは違う。疑いがあるならもちろん調べる。けれど、彼女に関しては調べる必要がなかったんだ」
「だからどうしてです!?」
カインがミレイを庇うことが面白くなくて、ロイスリーネはついつい睨みつける。カインは困ったような顔をして眉間を寄せていたが、やがて小さくため息をついた。
「これも極秘事項なんだが、君がこれ以上誤解しないために、伝えておきたい。ミレイについて」
「ミレイ様について……」
おうむ返しに呟きながら、ロイスリーネは既視感を覚えていた。今とまったく同じようにミレイについて言いにくそうにしている口元を見たことがあった。
ジークハルトだ。あの時彼もこんなふうに何かロイスリーネに言おうとしていた。ロイスリーネ自身が遮ってしまったが。
「俺たちがミレイを犯人でないと断言するのには理由がある。リーネ、実はミレイは――」
「リューベック少佐。失礼します」
その先の言葉をカインが言おうとした瞬間、事務所の扉が開いて軍服を着た人物が顔を出した。
「ベルハイン将軍が少佐をお呼びです。すぐに将軍の執務室にいらしてください」
「ああ、くそっ。こんな時に」
カインは小さな声で舌打ちすると、立ち上がった。
「分かりました。すぐに行きます。すまないリーネ。すぐには戻れないかもしれないから、この話の続きは帰りにでも。君は書類を持って北棟に向かってくれ」
「分かりました。ではまた後で」
話が中断したのは残念だったが、こればかりは仕方ないだろう。話の続きは帰りの馬車の中ででも聞かせてもらえばいい。
ロイスリーネも書類を持って立ち上がり、カインと廊下で別れた。
軍の本部を離れ、慣れた様子で北棟に向かう。
「おや、今日もお使いかい?」
「はい。今日は外務府に書類をお届けにあがりました」
すっかり顔見知りになった警備の兵士と会話をして、通用口から北棟の中へ入る。
あとはいつもと同じだ。なるべく人が多くいる場所をゆっくりと歩き、会話をしている人たちの声に耳をすませる。あの日聞いた男たちの声を捜して、北棟をぐるりと回った。
中庭にも寄って、噴水を見るふりをして通りかかる人を観察する。
ところが今日に限っては、気もそぞろで調査に身が入らなかった。集中して声を聞かなければならないのに、すぐ気が散ってしまう。
原因は分かっている。カインと、カインが言いかけた言葉だ。
「カインさん、一体何を言いかけたのかしら?」
――どうしてミレイ様が犯人ではないと断言できるのか。極秘情報だというのは一体なんだったのか。ああ、気になってしまう……!
それでもなんとか集中しようとするものの、どうにも身が入らずに、ロイスリーネはとうとう諦めた。
――だめね。少し早いけど今日は切り上げて軍本部に戻りましょう。
戻る前に書類を外務府の役人に渡さなければならない。
ロイスリーネは外務府がある北棟の一角へ向かった。
無事に書類を役人に渡し、用件は終わったと安堵しながら廊下に出て、例の中庭がある回廊にちょうどさしかかったその時――。
ドンッと身体に衝撃を受ける。
回廊に入ろうとしていたロイスリーネと、回廊を曲がって外務府のある区画に出ようとしていた人物がぶつかってしまったのだ。
「痛っ」
見事廊下に尻もちをついてしまったロイスリーネは己の失敗に顔をしかめる。ぶつかった拍子に眼鏡がずれ落ちそうになっていた。
「申し訳ありません。きちんと前を見ていませんでした」
立ち上がりながらぶつかった相手に謝罪すると、その相手が言った。
「いや、こちらも注意が足りなかった。すまない」
――この、声……!
間違いない。
ロイスリーネは弾かれたように顔を上げた。そして男の顔を見て、目を見開く。
――この人は……!
男の顔に見覚えがあった。面識があるとは言えないが、知っていると言えなくもない人物だ。
外交官としてロウワンに駐在していたアーカンツ伯爵の従者。
どうりであの時、どこかで聞いた声のような気がしたわけだ。直接話をしたことはないが、いつもアーカンツ伯爵に付き添っていたから、その時に話していた声をなんとなく記憶していたのだろう。
固まったまま男の顔を見上げていると、怪訝に思った従者がロイスリーネの顔を凝視して、ハッとなった。
「お前……!?」
――マズイ……!
本能が危険を知らせて、ロイスリーネに逃げろと促す。ロイスリーネは踵を返して走り出した。背中に声がかかる。
「待て!」
「どうかしたのですか、デルタ?」
別の男の声が聞こえた。どうやら一人ではなかったらしい。運の悪いことに、ロイスリーネはその男の声にも聞き覚えがあった。この中庭で話をしていたもう一人の男だ。
だが振り返ることはできない。今できるのは一刻も早くこの場から逃げてカインに知らせることだけだ。
ロイスリーネは脇目も振らずに逃げ出した。自分の命を狙う男たちの元から。
「待て!」
「どうかしたのですか、デルタ?」
声を上げたデルタに、部下のラムダが不思議そうに声をかける。デルタは振り返り、にやりと笑った。
「ラムダよ。見つけたぞ。王妃だ。今走っていった女がそうだ。とうとう見つけたぞ」
「なんと……!」
ラムダと呼ばれた男は目を見開いた。
「ラムダ、あの女を気取られないように追え。俺は旦那様に報告してくる」
「御意」
ラムダは音もなくその場から姿を消した。
「ハハハ! 運が向いてきたぞ! ああ、我が君、もうしばらくの辛抱です。魔女の系譜の血筋――いや『神々の愛し子』を捧げれば、我が君は復活なさる! アーハハハ」
中庭に一人たたずむデルタは、喉を震わせ歓喜の声を上げた。
逃げ出したロイスリーネは、軍の本部に向かって走りながら混乱していた。
――私の命を狙っていた男たちは、アーカンツ伯爵の部下だった。だったら、私の命を狙っているのはアーカンツ伯爵なの?
とても信じられなかった。アーカンツ伯爵はロウワンに外交官として赴任していたこともある人物で、嫁いできたロイスリーネを温かく歓迎してくれた一人だ。
そんな人物が自分を狙っているとは思いたくない。あの人のよさそうな顔の裏でロイスリーネの命を狙い刺客を送り込んでいたなんて信じたくなかった。
けれど、中庭で話をしていた男があの従者だったのは確かだ。
混乱したままロイスリーネは軍の本部にある情報部第八部隊の事務所に駆け込んだ。
カインは将軍の元から戻っていて、ロイスリーネの慌てた様子に驚いている。
「ロイスリーネ、どうし――」
ぶつかる勢いでカインの元へ駆け寄ったロイスリーネは荒い息を吐きながら言った。
「カインさん、見つけました! あの男たちを!」
「何だって!」
「回廊で偶然ぶつかって。外務府に所属しているアーカンツ伯爵の従者です。もう一人の男もその従者と一緒にいました!」
「アーカンツ伯爵だと……?」
おそらくロイスリーネと同じくカインにとってもその名前は予想外だったのだろう。声も表情もこれ以上ないほど驚愕にあふれていた。
「間違いありません。信じられないけど、でも……」
言いながらロイスリーネは昨日のエマの話を思い出していた。
アーカンツ伯爵が犯人だとしたら、エマは完全に間違った推理を披露してくれたことになるが、一点だけ正しいことを言っていた。
――『先入観があるとそこにあるはずの真実が見えなくなる』
その通りだわ、エマ。アーカンツ伯爵に限ってそんなことをするはずがないと思い込んでいた。
カインも同じだろう。ロイスリーネとの結婚に賛成していたアーカンツ伯爵は容疑者のリストに載っていなかったはずだ。
驚愕から素早く立ち直ったカインは真顔で頷いた。
「分かった。早急に調べさせる。カーティス……宰相にも伝えて、アーカンツ伯爵とその従者たちの身柄を確保する。証拠がないから被疑者としては無理だが、なんとか理由をつけて足止めしよう。その間に調査して証拠を固めなければ」
「はい。お願いします」
ホッと一安心したのもつかの間、思い出したら足が震えた。
「リーネ、大丈夫か? 奴らに何かされたか?」
「大丈夫です。ぶつかっただけですから。でも……顔を見られた、いえ、捜査に気づかれたかもしれません」
あの従者はロイスリーネを見て驚いていた。ロイスリーネが彼を知っているように、従者の方もロイスリーネの顔を知っている。
――もしかして王妃だってバレた……?
「気づかれただって?」
とたんにカインは厳しい顔になった。
「リーネ、今日の仕事は終わりだ。今から君を『緑葉亭』に送り届ける。このまま王宮に置いておくのはなんとなくまずい気がするんだ」
「は、はい」
「俺は君を送り届けてすぐに王宮に戻って調査を続ける。『緑葉亭』の女将に頼んで、店から君の家までは誰かに付き添うようにしてもらうから、安心してほしい」
カインの真剣な表情に、ロイスリーネは頷くしかなかった。
軍本部を出ていつもの馬車で王宮を出る。
「大丈夫だ」
カインは、馬車に揺られながら不安に唇を噛みしめていたロイスリーネの手を握る。
「アーカンツ伯爵はともかく、従者の方は身柄を確保次第、すぐに牢屋に入れるように言ってあるから」
「はい……」
アーカンツ伯爵が無関係であることを今は祈るしかなかった。
『緑葉亭』までロイスリーネを送り届けると、カインは言った。
「じゃあ、リーネ。俺は王宮に戻るよ。明日以降のことはまた改めて伝えるから。女将、リーネのことを頼んだよ」
「ああ、まかせな」
リグイラはふくよかな胸をどんと叩いて請け負った。
ロイスリーネは急に心配になってカインに声をかけた。
「カインさん、気をつけてね。私が軍所属の侍女だってことはリボンの色でバレているかもしれないから……」
「俺は大丈夫。むしろリーネの方が心配だ。奴らに顔を見られているんだろう? 従者を捕まえて主とやらの身柄を確保するまで、しばらくは大人しくしておいた方がいい」
「……そうですね」
中庭の男たちの素性がはっきりした時点でロイスリーネにできることは終わってしまった。あとはカインにまかせるしかない。
「何かあったら知らせてくださいね」
「分かった。それじゃあ」
心配そうにロイスリーネを一瞥してからカインは店を出ていった。
「リーネ、ひとまず座って待ってな。うちの人の手が空いたらすぐに送るから」
カインが出ていった扉をいつまでも眺めているロイスリーネに、リグイラが声をかける。言われるままカウンターの椅子に腰かけたロイスリーネだったが、リグイラの言ったことを反芻しているうちにハタッと気づいた。
今の時間、『緑葉亭』は休憩中のため客の姿はないが、だからといって暇なわけではない。夜に店を開けるために、厨房担当のキーツは仕込みをしている真っ最中だ。
「待ってリグイラさん。私のために仕込みの手を休ませられないわ。私なら大丈夫です。家はすぐそこだから」
「だめだよ、カインも言っていただろう? 一人になるなと。なあに、多少店の開店時間が遅れたって何でもないよ。気になるのなら、そろそろ常連客の連中がやってくる時間だから、そいつらに頼んであんたを送ってもらうのでもいい」
「え? まだ開店前ですよね?」
リグイラによると、常連客の何人かは開店前に店にやってくるらしい。
「酒なら料理ができてなくても出せるからね。あいつらは開店前にはもうやってきて酒を飲みながら愚痴を言い合い、料理の準備ができたら飲んでは食うんだよ。ひどい時は閉店間際まで居座ることがある。まったく仕方のない連中さ」
そう言いながらもリグイラの目は笑っている。
話題にしていたからだろうか。ちょうどいいタイミングでリグイラ曰く「仕方のない連中」が扉を開けて入ってきた。
「女将、こんにちは!」
「いつもの安酒頼む」
入ってきたのは常連客のマイクとゲールだ。近くの織物工場で働く二人はいつも一緒に店にやってくる。
二人はロイスリーネの姿に気づくと、目を丸くした。
「リーネちゃんじゃないか」
「こんな時間までリーネちゃんがいるのは珍しいな。残業して女将にこき使われたの?」
「マイク、あんた、店からつまみ出されたいのかい?」
すかさずリグイラが凄みを利かせる。
いつものやり取りに、ロイスリーネはくすっと笑った。
「こんにちは、マイクさん、ゲールさん。いいえ、違いますよ。今日は用事があって早退したんですが、また店に顔を出しに来たところです。マイクさんたちこそ、お仕事お疲れ様です」
「リーネちゃんに労ってもらえるなんて、一日の疲れが吹っ飛ぶな」
「だな。リーネちゃんは俺らの天使だからな」
見慣れた常連客と、いつもの会話。安らかで、心温まる光景だった。ロイスリーネにとってはこれが日常だ。
――こうしていると、命が狙われているなんて、信じられない。遠い世界の出来事なんじゃないかとさえ思ってしまう。
「あんたら、暇だろう? 酒を飲む前にリーネを家まで送って行ってほしいんだ。まだ太陽は出てるけど、このくらいの時間になると買い物客目当ての引ったくりも増えてくるしね」
リグイラがマイクとゲールに頼んでいる。ロイスリーネはそれをボーッと聞いていた。
「ああ、お安い御用だ」
「女将とリーネちゃんの頼みとあっちゃ、聞かないわけにはいかないな」
「よし決まりだ。リーネ、こいつらがあんたを送ってくれるってさ」
呼びかけられてハッと我に返ったロイスリーネは、二人にお礼を言って微笑みかけようとして――固まった。
――ああ、だめだわ。ここで送ってもらったら、この二人は殺されてしまう……。
唐突にそう思った。
いつものロイスリーネの「勘」だ。それは他者が聞いたら天啓とも呼べるものだったが、日ごろ小さいものから大きなものまでこの「勘」のお世話になっているロイスリーネに違いは分からない。
確かなのは、ロイスリーネが自分の「直勘」を信じていることだ。
ロイスリーネの前に二つの道が――選択がある。
このまま送ってもらい、彼らの命を危険に晒すか。もしくは送ってもらわずに自分が危険に飛び込んでいくことになるか。
もちろん選ぶのは後者だ。危険なのがどちらも変わらないのならば、彼らを救う方をロイスリーネは選ぶ。
急に立ち上がりながらロイスリーネは言った。
「あの、私、送ってもらわなくても大丈夫です! 家はすぐそこですから。走っていけばあっという間ですし!」
「リーネ!?」
「リグイラさん、マイクさん、ゲールさん。ありがとうございました。それじゃ!」
ロイスリーネはそう言うと店から飛び出した。
「え。ちょっとリーネ、お待ちよ!」
リグイラに呼びかけられたが、ロイスリーネは止まらなかった。止まるわけにはいかなかった。
勘が告げている。
――一刻も早く店から離れないと! このままではリグイラさんやキーツさんまでも巻き込んでしまう。
カインは詳しく語らなかったが、ロイスリーネが狙われていた半年間、おそらく彼女を守るために犠牲になった人たちがいたはずだ。
毒を盛られたと言った。だったら、毒が入っていると分かったのはなぜ?
刺客を捕まえたと言った。捕まえる間にどのくらいの兵士が死傷したのか?
モグリの魔法使いが、殺されたと言ってたではないか。敵は誰を傷つけようが、死のうが気にしないのだ。だったら、織物工場で働く労働者二人の命や、開店前の店を襲って経営者夫婦を殺すことに躊躇などするはずがない。
通りを抜けて隠れ家のある民家に向かって走る。その頃にはもう確実に追われている気配がした。
「早く隠れ家に、地下道に逃げないと……!」
気が急く。隠れ家に入りさえすれば、何とかなる。追われても地下道に逃げ込めさえすれば撒く自信がある。
――早く、早く、早く!
……けれど、一歩遅かったようだ。角を曲がりひと気のない隠れ家に通じる路地に出たとたん、ロイスリーネは突然現われた黒ずくめの男たちに囲まれていた。おそらく魔法を使ったのだろう。
黒ずくめの男たちの中から一人が前に出てくる。
「一緒に来ていただけますかな、ロイスリーネ王妃」
声で分かった。アーカンツ伯爵の従者と一緒にいたもう一人の男だと。
「お断りするわ」
じりじりとロイスリーネを囲む輪が狭まる。
ロイスリーネは内心冷や汗をかきながら、隠れ家までの距離を目算して男たちの間を突破できないか考える。
だが、男から目を離したのがまずかったのだろう。
突然首の後ろに衝撃が走り、それと同時にロイスリーネは目の前が真っ黒に染まるのを感じた。
――そういえばカインさんにミレイ様のことを聞く約束をしていたんだった……。忘れていたわ。失敗した。
意識を失う寸前、考えたのは命の心配でも恐怖でもなくて、カインとの約束のことだった。
ロイスリーネが黒ずくめの男たちに囲まれるほんの少し前のこと。
「え。ちょっとリーネ、お待ちよ!」
突然走り出したリーネの背中に声をかけたが、彼女は止まることなく店の外に飛び出してしまった。
「あのバカ娘! 危険だって言っただろうが!」
目を吊り上げて叫ぶと、リグイラは唖然としていた二人を振り返って怒鳴った。
「マイク! ゲール! ぼうっとしてんじゃないよ。追っかけな!」
名指しされた二人はハッとして直立不動のまま敬礼した。これは命令だと本能で察したのだ。
「はい、部隊長!」
「今すぐ行きます!」
二人は店を飛び出していった。
「まったく」
忌々しそうに舌打ちをすると、リグイラは厨房に向かう。
「この気配に気づかないとは、カイルもまだまだだねぇ」
リグイラはロイスリーネが店に帰ってきた時から、殺気を放ちながら店を窺っている集団に気づいていた。その気配が、ロイスリーネが店から出たとたんに離れていったことも。
「あの調子じゃ間に合いそうにないね。でも、何か目的があるようだし、今すぐ命を奪われることはないだろう」
呟きながら厨房に入ると、料理担当である夫に声をかける。
「あんた。仕込みは中断だよ。別件の仕事が入ったようだからね」
「準備はとっくに終えてるよ」
キーツが厨房から出てくる。けれど彼の格好はいつものエプロン姿ではなく、全身が灰色の服に覆われていた。出ているのは顔の上半分だけ。
「他の連中にはすでに召集をかけた。陛下の命令を待って出陣だ」
キーツはおっとりした性格だとロイスリーネに思われている。けれど、殺気を滲ませて厨房に立つ今の彼に穏やかさなど皆無だった。
「うちの店の看板娘に手を出したんだ。それ相応の礼をしねえとな」
目に剣吞な光を浮かべてマスクの下で笑う。
「やれやれ、あたしゃ半分引退した気分でいたんだけどね。そうも言っていられないようだ」
リグイラの手にはいつの間にかキーツが身に着けているのと同じ服が握られていた。
「何が引退した気分だ。鏡を見てみろ、戦闘を前に目がギラギラしてるぞ。部隊長」
「その言葉、そっくり返してやるよ、副隊長」
軽口を叩きながら、最恐の夫婦と恐れられた二人は出陣の時を待った。
一方、ロイスリーネを追ったマイクとゲールの二人は、行き先で蠢く気配に顔をしかめていた。
「俺らの嫌いな連中の気配がするぜ」
「ああ。もしやと思ったが、奴らの仕業のようだな」
「チッ、間に合えばいいが。無事でいてくれよ、リーネちゃん!」
マイクが走る速度を上げ、ゲールもそれについていく。二人の足はありえないほど速かったが、それでも少し遅かったようだ。
曲がり角にさしかかった時には、彼女は黒ずくめの男の腕に抱えられ、連れ去られようとしていた。
気絶しているのか、ぐったりと目を閉じている。
不幸中の幸いは、血の匂いはしないから、まだ殺されてはいないだろうということだけだ。
「チッ、遅かったか!」
舌打ちをすると、マイクはゲールを振り返った。
「俺は奴らを追跡する! お前は部隊長や陛下に知らせてくれ! 王妃様が攫われたってな!」
「分かった、気をつけろよ、マイク!」
二人は慌ただしく別れ、それぞれ別の方向に消えた。
お飾り王妃になったので、こっそり働きに出ることにしました 富樫聖夜/ビーズログ文庫 @bslog
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