第四章 お飾り王妃、犯人捜しをする


 カチャ、カチャ。

 ダイニングルームでは二人の立てる食器の音だけが響いていた。

 朝食を共にしているロイスリーネとジークハルトの間に会話はほとんどない。いつもの「昨日はどうだった」のやり取りが終われば話すことがないからだ。

 いつもの朝食。いつもの会話。

 でもいつもと違っていたのはロイスリーネの気持ちだった。

 ジークハルトはロイスリーネを怯えさせないために、何も言わず陰で守ってくれていた。カインにその話を聞いてから、前と同じようにジークハルトを見れなくなってしまったのだ。

 平民の恋人との仲を続けていくためにロイスリーネを利用している男。妻を離宮に軟禁して自由を奪っている男。

 ずっとそんなふうに思って、ジークハルトを「名ばかりの夫」以上に見ないようにしていた。

 ――なのに、ずっと守り通してくれていたなんて、ずるいと思うわ。

 ちらりと向かいに座るジークハルトを盗み見る。

 相変わらず氷の彫像のように整った顔だ。その面からは何の感情も読み取ることはできない。

 一体あの表情の下で彼は何を思っているのだろうか。

 毎朝離宮に来るのは単なる義務か、もしくは国民に「王と王妃の仲は悪くない」とアピールするためなのだと思っていたけれど、もしかして違うのかもしれない。

 ――私の無事を確認しに来ているの?

 聞きたいけれど、それはできない。何しろ王妃は何も知らないことになっているのだ。自分の命が狙われていることをどうやって知ったのか詮索されても困る。

 ――八方ふさがりとはこのことね。

 やはり、犯人を見つけるのが先決だろう。この問題が解決しない限り何も話せない。

 ――私の命を守るためにも、陛下の重荷を軽くするためにも、頑張らないと。

 ロイスリーネは決意を新たにした。

         

 二日後、『緑葉亭』での仕事を一時間早く切り上げたロイスリーネは、店の外で待っていたカインと合流した。

 今日からカインの伝手で軍本部に所属する侍女として働くことになっている。

「女将には説明しておいたから、大丈夫だっただろう?」

「はい。途中で抜けるのは申し訳なかったんですが、大丈夫だから行ってこいって」

 いつ何をどう説明したのかは分からないが、カインと話をした次の日にはリグイラに話はついていた。

『早めに上がってカインの手伝いをするんだろう? 店は大丈夫さ。ピークを過ぎればあたし一人で十分回せる。こっちのことは気にせず頑張りな。だけど、無茶はするんじゃないよ』

 もしかしたら、リグイラはカインが情報局に所属していることも、彼が今何を追っているかということも、分かっているのかしれない。

 リグイラの許可はあっさり下りたが、反対にカインを手伝うことに難色を示したのはエマだ。

『王宮に出入りするなんて危険すぎます。リーネ様の顔を知っている人が大勢いるんですよ? もし王妃だとバレたらどうするんですか? そもそも、そのカインという男は本当に信用できるのですか? まだ会って二ヶ月しか経っていない人ですよ?』

 エマとしては、自分が会ったこともない相手にロイスリーネを委ねるのは不安なのだろう。それに面と向かって言わないものの、ロイスリーネに離宮から出ないでほしいとも思っているようだ。

 それも当然だろう。今までエマがロイスリーネのお忍びを許していたのは、命を狙われているなどとは露ほども思っていなかったからだ。以前からずっと狙われていたこと、何度も襲撃されていたことを知った今、離宮から出ること自体エマは反対なのだ。

 はっきり言わないのは、ロイスリーネの気持ちを慮っているだけに過ぎない。

 ――確かに離宮に籠っていれば、大勢の兵士が、そして魔法陣が守ってくれるでしょう。でも、それはいつまで続くの?

 おそらくロイスリーネの命を執拗に狙っている相手が捕まらない限り続くのだろう。

 ずっとずっと命の心配をしなければならない、そんな生活はごめんだ。

 偶然にもロイスリーネは犯人を捜す手がかりを得た。だったら、離宮に籠るのではなく、自分の身を自分で守るためにも積極的に動くべきだ。


「向こうの通りに馬車を待機させている。王宮に行く前にこの服に着替えてくれ」

 カインはそう言ってロイスリーネに畳んだ服を差し出した。

「これは……侍女服?」

 受け取って広げてみると、どこかで見たことのあるデザインのワンピースだった。ただしロイスリーネの知るものとはリボンの色が違っている。エマや離宮の侍女たちの胸もとを飾っているリボンは白だ。けれど受け取った侍女服には青いリボンがついていた。

「そう。王宮の侍女の服だ。侍女といっても、王宮は広いし、あちこちの部署や部門でも働いてもらっている。総数ではかなりの数になるだろう。そこで、王宮では、リボンの色やエプロンでその侍女の仕事内容や所属する部門が一目で区別できるようになっている。王族や公爵などに仕えている侍女や侍従は白いリボン、軍本部や軍の施設で働いている侍女は、この青いリボンというようにね」

「なるほど」

 王妃の傍仕えだから、エマも離宮の侍女たちも、白いリボンの侍女服を着ているというわけか。普段白色のリボンの侍女しか目にしていないため、ロイスリーネは色分けされていることすら知らなかった。

 ――たぶん、こんなふうに知らないことなんて山ほどあるんでしょうね。

 いかに自分が無知で、何も見えていなかったのかを改めて突きつけられた気がした。

 ――お飾り王妃だからなんて言い訳してないで、これからはもっとよく周りを見なくちゃ……。

 カインが用意したのは一頭立ての小さな馬車だった。装飾されておらず、一見どこにでもある馬車のようだが、客車のドアには小さいけれどルベイラ軍のマークがあって、軍所属の馬車であることが見て取れる。

 ロイスリーネは客車の中で侍女服に着替えると、カインと共に馬車で王宮に向かった。

 王宮の正門から入れるのは国王や国賓、それに高位貴族の馬車だけだ。他は王宮を取り囲む高い柵に沿って進み、側面にある通用門を使うことになっている。二人を乗せた馬車も東側の通用門に向かう。

 軍所属の馬車に乗っているからなのか、それともカインが一緒に乗っていたからなのかは不明だが、門の前で呼びとめられたものの、門番はロイスリーネを一瞥しただけで特に気にする様子もなくすんなり通してくれた。

 ――拍子抜けするほど簡単だわ。確かに一日に何百人も出入りするであろう巨大な王宮で、一人一人チェックをするのは無理だというのは分かっているけれど……。

「王宮に入るのはとても大変だと思っていたのですが、不安になるくらい簡単ですね」

「普通はもっと厳しくチェックするよ。今日は俺が新しい侍女を連れていくとあらかじめ通知してあるから、すんなり通してもらえたんだ。ああ、大丈夫。ちゃんと正規の手続きを経て君を王宮に入れている。だからもし君が不審人物と思われて警備兵に捕まっても、不法侵入ではないから安心して。ちゃんと俺に連絡が来るようにしてあるから、すぐに迎えに行くよ」

「……なんか私が捕まることを前提に話をしていません?」

「それを心配しているのかと思って」

「いえ、確かに心配ですけど……」

 むしろ心配しているのは、王宮の警備体制のことだ。刺客はどうやって王宮に侵入したのだろうと思っていたのだが、身元を保証してくれる者が一緒なら容易のようだ。

「ひとまず軍の本部にある俺の執務室に行こう。そこが君の活動の拠点となる場所だ」

「はい」

 馬車は王宮の東側に立っている大きな建物の前で停まった。

 カインは先に降りて、ロイスリーネが馬車を下りるのに手を貸すつもりで手を差し出した。王女という身分のため、ロイスリーネにとって馬車から降りるのに手を借りるのはいつものことだ。今度も何も考えず無意識にカインに手を預けて、馬車を下りようとした。

 ハタと我に返ったのはその時だ。

 ――あら? 確かに女性が馬車を下りるのを手伝うのは紳士のマナーだけど、私、今は侍女ということになっているわよね? 自分より身分の高い男性に手助けされるのは侍女としてどうなのかしら?

 足を踏み出す瞬間、そんなことを考えてしまったせいだろうか。ロイスリーネは足台を踏み外してしまった。

 ガクンと身体が下がる。

「……あっ……」

「おっと!」

 地面に転げ落ちそうになったロイスリーネの身体をカインの腕が抱きとめる。カインはそのままロイスリーネの腰に手を回すと、彼女を地面に下ろした。

「大丈夫かい?」

「ご、ごめんなさい、ありがとうございます」

 転ばなかったことに感謝しながら顔を上げたロイスリーネは、カインに抱きついているのに気づいてギョッとした。

 もちろんこれは単なる事故であり、転びそうなところを抱きとめてもらっただけなのだが、他者からはまるでぴったり抱き合っているように見えるだろう。

 一気に顔が赤くなり、頬が熱を帯びる。いや、頬どころか顔中が熱くなった。

「す、すみません」

 ロイスリーネは慌てて身を引いて後ろに下がる。カインの腕はあっさり外れた。彼にとって女性を抱きとめることなど何でもないことなのだろう。

 だがロイスリーネは違う。ダンスの時以外、家族以外の男性とこれほど接近したことはない。社交界に正式にデビューする前にジークハルトとの婚約が決まってしまったので、男性と親しく話す機会もないままきてしまったのだ。

 ――顔が赤いのも慣れていないから。そう、男性に慣れていないからなのっ。

 なぜか心の中で言い訳をしていると、カインがにっこり笑った。

「リーネにけががなくてよかった」

 ――……くっ、だから、慣れていないせいだってば!

「あ、ありがとうございました、カインさん。慌てて下りようとしたせいですかね。私、そそっかしいところがあるし、たまに何も段差がないところで転びそうになることもあるんですよ」

 ロイスリーネはなんとか笑みを返しながら答えたが、自分でも何を言っているのかよく分からなかった。

「俺の方も、もっとちゃんと支えられるように気をつけるよ。さて、行こうか。第八師団の部署に案内する。そこが今日から君の職場だ」

「は。はい。お願いします」

 歩き始めたカインの後についていく。顔の赤みや、未だにドキドキと大きく鳴り続ける鼓動を抑えることに気を取られて、ロイスリーネは先を行くカインが顔を赤く染めて口元を片手で覆っていることに気づかなかった。


 カインはロイスリーネを軍本部にある第八部隊の事務所に案内した。

 事務所と言っても、あまり広くはない。王都の東にある駐屯所のカインの執務室よりほんの少し広い程度だ。

「俺たち第八部隊の主な仕事は王都での情報収集だ。だから、軍本部ではなく、東の駐屯所が本来の本拠地なんだ。こちらにも一応部屋はあるけど、基本的に、上層部へ報告する書類を作成するためだけにあるようなものだな。本来なら部隊長か副隊長のどちらかがこちらに常時つめているはずなんだが……」

 はぁ、とカインの口から諦めたようなため息が漏れる。

「どちらも王宮は堅苦しいから行きたくないと言うんでね。それで俺が代役として管理している。おかげであっちとこっちを行き来する生活だ」

「まぁ、それは大変ですね」

「気は楽だけどね。気ままにやれるし、息抜きに『緑葉亭』にも寄れる。あ、ここに座ってくれ。君の仕事の内容を説明するから」

「はい」

 ソファを示され、ロイスリーネはカインと向い合わせに座った。

「先日も言ったが、当面は君が男たちの話を聞いた中庭がどこか捜してもらいたいんだ。俺の遣いとして書類を届けるついでにあちこち回ってみてくれ。もちろん、書類は本物だ。だからもし不審に思われたら、迷子のフリをして道でも尋ねてごまかせばいい。時間は一時間が限度だな。それ以上うろつくと怪しまれるから、一時間経ったら書類を届けてこの部屋に戻ってきてくれ。さっそくだけど、今日はこれを持って行って」

 渡されたのは少し大きめの白い封筒だった。

「大法官府のタリス公爵宛だ」

「…………え? タ、タリス公爵?」

 名前を聞いたとたん、さぁと血の気が引くのを感じた。

 なぜなら、大法官府の長官で貴族院の議長も務めるタリス公爵とロイスリーネは、バッチリ面識があったからだ。

 ――あの方なら、私が王妃であることに気づいてしまうかもしれない。

 そう考えて内心で焦っていると、カインは笑いながら付け加えた。

「もちろん、直接手渡すわけじゃない。大法官府についたら、秘書の誰かに渡してカイン・リューベックからだと言づけるだけでいいんだ」

「そ、そうですか」

 よかったと、心の中で安堵する。

「大法官府は本宮の東棟にある。行くついでに今日はその周辺を見て回ってくれ」

「はい、分かりました!」

 ロイスリーネは元気よく返事をした。

 カインに東棟の通用口が見えるところまで案内してもらい、書類を胸に抱えながら東棟に入る。

「第八師団の使いとして、大法官府に書類を届けるために参りました」

 通用口の左右に立っている警備兵にはそう言うだけですんなり通してもらえた。きっと青色のリボンのついたこの侍女服のおかげだろう。

 東棟の中に入ったロイスリーネは、さっそく大法官府の部署を捜すふりをして、あちこち見て回った。

         

 カイン――いや、ジークハルトはロイスリーネが東棟の通用口に向かうのを見届けながら、気配を消して待機していた王家直属の『影』に「行け」と合図をした。

 命令を受けた『影』は音もなくその場から消え、ロイスリーネの後に続いた。彼らはこれから東棟を捜索するロイスリーネを陰で護衛することになっているのだ。

『影』たちには彼女の身に危険が及ぶか、どうにもならない事態になるまでは姿を見せないようにと指示してある。

 めったに何かが起こることはないとは思うが、そこはロイスリーネのことだ。何を引き起こすか、いや、何に巻き込まれるか分かったものではない。用心するに越したことはない。

 ジークハルトはロイスリーネが通用口から東棟に入るのを確認すると、止めていた息を吐いた。

 後ろ髪を引かれるが、これから国王の執務室に戻らなければならない。本来の仕事を疎かにするわけにはいかないのだ。

 ――カインでいた方が楽なんだが……。

 ため息が零れそうになるが、逃れるわけにはいかない。ジークハルトを辞めることはできないのだ。

 ルベイラ国王ジークハルトは笑わない王だ。いつもムスッとしていて近寄りがたい、孤高の王と呼ばれている。

 ――だって仕方ないだろう? 厳格な王にでもならなければ、この強大な王国を維持するのは難しかったのだから。

 急死した父王の跡を継いで十六歳で王になった少年に、笑っている余裕などなかった。ルベイラ王家を蝕む呪いに押しつぶされずに国をまとめるには、己にも他人にも厳しい王にならなければならなかったのだ。

 それがいつの間にかジークハルトの素になってしまい、感情が表に出せなくなった。

 危惧したカーティスとエイベルが「カイン」という存在を作り出して、息抜きの場所を与えてくれなければ、きっとジークハルトは笑うことを忘れたままだっただろう。

 王都の住人たちと接しているうちに、カインの姿なら少しずつ感情を出せるようになった。人と接するのが苦痛ではなくなったし、笑えるようにもなった。

 だがそれは「カイン」でいる時だけ。ジークハルトに戻ると、笑うことができなくなる。凍りついたように表情が動かなくなる。

 だから、婚礼の日にロイスリーネにミレイのことを指摘され、まさかの宣言をされた時に、ジークハルトが驚きを露わにしたのは、近年稀に見ることだった。

 日々ロイスリーネと過ごすたびに、ジークハルトは己の動かない表情が少しずつ解れてきているのを感じている。

 ――いつかまた、ジークハルトとして昔のように笑えるようになったら、その時は……。

 ミレイのことを解決して、ロイスリーネとも本当の夫婦になりたい。

 ジークハルトはそう願っている。

 ――そのためには目の前のことを一つずつ解決していかなければ。

「後は頼んだぞ。ロイスリーネが冒険を終える頃になったら教えてくれ」

 残っていたもう一人の『影』に声をかけると、ジークハルトは軍本部の事務所から隠し通路を使って本宮にある国王の執務室に戻った。

「王妃様はどのくらいで中庭の場所を探り当てそうですか?」

 カーティスが国王の承認待ちになっている書類を机に置きながら尋ねる。

「そうだな。まずは庭に隠し通路が繋がっていない東棟から始めたから、早くて五日。遅くて一週間くらいだろう」

「そうですね。それくらい歩き回れば、だいたいの位置を覚えるでしょう。その間に我々は北棟に出入りする者たちの洗い出しを少しでも進めておきましょうね。いくらか容疑者を絞り込めればいいんですが、北棟は本宮の中でももっとも国政府の機関が集まっているところで、出入りする者も多い。はっきり言って骨が折れる仕事です」

「焦るな。カーティス」

 ジークハルトは書類に目を通し、署名を入れていく。

「まだ調査は始まったばかりだ。我々が容疑者を絞り込むのが早いか、ロイスリーネが男たちを見つけるのが早いか。どうなるか分からない。焦っても仕方ない」

「そりゃあ陛下は捜査している間は王妃様とデートできるんだから楽しいでしょうよ」

 書類の整理をしながらエイベルが口を挟む。

「気の毒なのは王妃様だ。本当はとっくに男たちのいた中庭の場所なんて特定されているのに、今この時も一生懸命捜し回ってるなんて」

「ロイスリーネのためを思えばこそだ」

 国王であるジークハルトは、王宮に存在する隠し扉や通路の場所をすべて把握している。

 本宮の中で中庭に隠し扉が設置されている場所は数か所。だから、ロイスリーネの語った中庭の様子でだいたいの場所は分かっていた。

 それなのに、どうしてわざわざロイスリーネに男たちが会話していた中庭を特定させるよう仕向けたかといえば、二つ理由がある。

「ロイスリーネに目的を与えることで、彼女が単独行動を取らないように制限できる」

 無駄に行動力があるせいで、放っておけば勝手に一人で捜し回り始めるだろう。本来であればジークハルト以外使えないはずの隠し扉と地下道を通って。

 それはあまりに危険すぎる。

 だから、ジークハルトは彼女の行動をいかに制御するかということに頭を悩ませ――この方法を取ることにしたのだ。あえてロイスリーネに調査させることで、彼女の安全を確保しながら行動を制御することができる。

 だがこれはどちらかといえば副次的なもので、ロイスリーネに王宮を探し回らせる意図としてはもう一つの理由の方が大きい。

「もう一つは、王宮内を歩くことによって、部署や通路を覚えることができるからだ。もし何かあって逃げる必要があった場合、建物の内部を知っているのとまるで把握していないのとでは大きな差が出るからな」

 ロイスリーネは嫁いだ直後の一ヶ月間しか本宮にいなかった。その後は離宮に移され、公務の時にしか立ち寄っていない。公務で使われる場所しか彼女は知らないのだ。

 ジークハルトのせいとはいえ、このことは以前から気になっていた。特に魔法で封印されていたはずの隠し扉が彼女の力の前ではまるで無意味だと知って以来、どうにか対策を考えなければと思っていたのだ。

「地下道は曲がり角を一つでも間違えると、とんだ所に出てしまう。間違って入り込んだ時に、今自分がどこにいるのか把握することは身の安全を図るためにも重要だ。だから今回の件はちょうどよかった。中庭を捜す名目であちこち回るうちにロイスリーネは本宮内の通路を自然に覚えることができる。迷子にもならなくなるだろう」

「……ジークってば、それだけ王妃様の安全について配慮できるのに、どうして本人の前ではヘタレなんだろうね?」

 エイベルが残念な子を見るような目をジークハルトに向ける。

「ぐっ……」

 本当のことだけにジークハルトは反論できなかった。

「どうしてカインとしてリーネ様を相手にする時はちゃんとできる子なのに、ジークとして王妃様を前にするとああも後手後手になるのか。僕、不思議でたまらないや」

「惚れた弱みというやつですよ、エイベル」

 カーティスがにやにや笑いながら口を挟む。

「片思いで、しかも前途多難ですけどね。でも、カインの口から陛下の真意を聞いて、少しは王妃様に見直していただけたかもしれません。……もっとも、陛下と王妃様の間にはそれ以外の問題が山積みですけど」

「そんなことは分かってる。それよりその書類をさっさとよこせ。時間がもったいない」

 じろりと二人を睨みつけて、ジークハルトは強引にロイスリーネの話題を打ち切った。だがなおもエイベルは言葉を続ける。

「でもさ、ジーク。いくら王妃様のためとはいえ、何も知らせないまま全部一人で決めてしまおうとするところ、よくないと思うよ。王妃様、ただ守られているのを良しとする性格じゃないでしょ? きっと怒ると思う。いや、もうすでに怒っていると思うね」

「そうですね。エイベルの言う通りです。全部自分で背負おうとするのはあなたの悪い癖ですよ、陛下?」

「いいんだ。これで」

 彼女に見直してもらおうと思ったわけではない。ジークハルトとしてはロイスリーネに一切の危険を知らせずに解決したかったのだ。

 ――彼女には何も心配いらない状態で笑っていてほしい。

 悪い癖だと言われてもこういう性格なのだから仕方ない。若いとタリス公爵に笑われても、ジークハルトは変われない。だって誓ったのだ。六年前に。

 ――ロイスリーネを、あの奇跡の少女を、守ってみせると。

         

「お疲れ様。どうだった?」

「すみません、かなりぐるぐると歩き回ったんですが、あの中庭は見つかりませんでした……」

 一時間後、ロイスリーネはしょんぼりとしながら軍本部の事務所に戻ってきた。

 カインは優しい笑みを浮かべて慰める。

「まだ初日じゃないか。焦ることはない。本宮は広かっただろう? 一通り見て回るだけでも時間がかかってしまう」

「そうですね。広くて東棟すら全部回りきれませんでした」

 大きいとは思っていたが、ここまでとは予想していなかった。本宮だけでもロウワン国の王城の敷地がすっぽり入るくらい広いのだ。

 簡単に見つけられるとロイスリーネは思っていたのだが、どうやらそれは甘かったらしい。

「今日はここまでにしよう。また明日、東棟の続きから回ってくれ。『緑葉亭』まで送っていくよ」

「すみません。手間をかけさせて」

「手伝ってもらっているのはこちらの方だ。こんなこと手間でもなんでもない。気にしないでくれ」

 なんて優しい人なのだろう。ロイスリーネは感謝の気持ちをこめてカインを見た。

「ありがとうございます。それではお言葉に甘えさせてください」

 それから三十分後、馬車で『緑葉亭』に戻ってきた二人は、店の前で別れた。

「じゃあ、また明日迎えにくるよ」

「はい。よろしくお願いします」

 遠くなっていく馬車を見送りながら、ロイスリーネは「明日も頑張ろう」と呟いた。

 ――お世話になっているカインさんのためにも、早く中庭を捜しあてて、男たちの素性を突き止めないとね。

 隠れ家に向かうロイスリーネの足取りは軽かった。


 ロイスリーネが件の中庭を見つけたのは、それから六日後のことだ。

「あった。ここだわ……!」

 真ん中にある噴水も、壁の装飾も、あの日見たもので間違いない。ロイスリーネはすぐさま軍本部に戻って、カインに報告をした。

「カインさん! 見つけました! 男たちの会話を聞いた中庭は、北棟の二階の中庭です」

「そうか。ありがとう、よく見つけてくれたね、リーネ」

「思った以上に時間がかかってしまいましたが、ようやく見つけられました!」

 嬉しくて弾んだ声で言うと、カインは目を細めて微笑んだ。

「助かるよ。これからさっそく北棟に出入りする貴族を調べる。引き続きリーネは俺の遣いとして北棟を中心に回って、例の男たちを捜してもらいたんだが、構わないか?」

「もちろんです。そっちが本命ですもの」

 中庭の特定は始まりに過ぎない。これからあの男たちを、声を頼りに捜し出さなければならないのだ。

 ――本番はこれからだわ。気を引き締めていかないと。

「ひとまず今日はこれで終わりだ。明日からさっそく北棟で犯人捜しを頼む。でも、相手は王妃の命を執拗に狙っている連中だ。中庭を見つける時以上に慎重に行動してくれ」

「分かっていますって」

「決して無茶してはならない。いいね?」

 念を押すように言われて、ロイスリーネは苦笑を浮かべながら頷いた。

「はい。無茶はしません」

「なんだかいまいち心配なんだよな……」

「本当です。これでもすごく慎重派なんですよ?」

「それにはどうも同意しかねるな……」

 カインは呟きながら困ったように笑っていたが、諦めたのか、手を伸ばしてロイスリーネの頭の上に手を乗せてくしゃっと撫でた。

「まぁ、いいか。とりあえず、よく頑張ったな」

「あ、もう、カインさんったら、髪の毛がくしゃくしゃになってしまいますって」

 むぅっと口を膨らませて抗議したものの、単なる照れ隠しに過ぎなかった。それが分かっているのか、カインは笑いながらさらに頭を撫でる。

 ――もう、私は犬や猫じゃないのに!

 睨もうとしたロイスリーネは、ふと、目の前にあるカインの笑顔に見覚えがある気がした。……いや、正確に言うならば、六年前の誰かさんの笑顔と重なった気がしたのだ。

 けれど脳裏に浮かんだ面影は、カインの手が離れたことで頭の中から霧散してしまう。

 ロイスリーネはハッと我に返って抗議する。

「ああ、本当にぐちゃぐちゃです」

「悪い、悪い」

「もう」

 悪びれもせずに笑っているカインを睨みつける。けれど、乱れた髪を手でささっと直すロイスリーネの頬は、ほんのり赤く染まっていた。

 髪のついでに身なりを整えると、ようやく笑いの治まったカインと一緒に事務所を出る。

 その時もロイスリーネの頭には、撫でられた時の感触が残っていた。

         

「でね、うーちゃん。ようやく中庭を突き止めることができたのよ」

 夜、いつものように寝室にやってきたうさぎを撫でながら、ロイスリーネは一日の報告をした。うさぎはロイスリーネの膝の上で気持ちよさそうに目を細めている。

「カインさんがね、ご褒美だってケーキを奢ってくれたの。なんていい人なのかしら。紳士だし、気配りもできるし、とても優しいの。きっと素敵な旦那様になるわ。カインさんの奥様になる人はきっと幸せね。羨ましいわ。……うーちゃん?」

 カインを褒めちぎっていると、突然膝の上のうさぎが目を開けて前足で目を覆うような動作をした。

 毛づくろいをするのかと思いきや、前足を顔に当てるだけで洗う動作はしない。どういうわけか恥ずかしがっているようにも見えた。

 愛らしさに胸がキュンとなる。

 ――ああ、ちっちゃなおててがなんて可愛らしいの……!

 ロイスリーネはうさぎを抱き上げて、鼻先にチュッとキスをした。

「カインさんも素敵だと思うけど、うーちゃんが一番よ!」

 ……なぜかうさぎはその後しばらく前足で目を覆ったままだった。

         

 ――ロイスリーネがうさぎを愛でているのと同じ頃。

 王都のとある屋敷の一室で、壁にかかっている大きな肖像画の前にいた男が驚いて振り返った。

「なんだと? それは本当か?」

 男に報告をしていた忠実な部下が、大きく頷いた。

「はい。我々の雇った魔法使いが、離宮の下働きから情報を聞き出しました。あくまで噂の域を出ませんが、もし本当なら、これを利用しない手はないかと」

「にわかには信じられん。王妃が毎日離宮を抜け出しているなどと。あれだけの警備の目をかいくぐってそんなことが可能なのか? 侍女たちが面白おかしく話を盛っているだけでは?」

 男は眉を寄せながら尋ねる。だが、部下は真顔で答えた。

「そうかもしれません。ですが、下働きの者が侍女たちの噂話を集めたところによると、王妃は毎日同じ時間ロウワン国から連れてきた侍女と二人だけで部屋に閉じこもり、決して姿を現わさないし、他の侍女たちも近づけさせないのだと。食事を受け取るのもその侍女だけ。声すらも聞けないそうです。そこで侍女たちは、実は王妃はその時間部屋から外に出て離宮にいないのではないかと思っているそうで」

「ううむ……。いくら何でも信憑性に欠けるのではないか? そもそもあの厳重な離宮の警備をすり抜けてどうやって王妃が抜け出せるというのだ」

「そのことなのですが……」

 部下はぐいっと身を乗り出した。

「旦那様のお供として本宮に出入りしているうちに小耳に挟んだことがあります。この王宮には、王族だけが知っている脱出路がいくつも存在すると。旦那様も貴族ですから、そんな話を聞いたことがあるのでは」

「おお、確かに聞いたことがある。まさか、王妃は王族だけが知りうる抜け道を使って……?」

「王妃の住む離宮は隠居した王太后のために建てられた宮殿です。秘密の抜け道があったとしてもおかしくありません」

「では、本当に……?」

「ええ。単なる噂だと一蹴するのは時期尚早かと。もし本当に王妃自らが厳重に守られた離宮の外に出ているというのであれば、これは我々にとって大きな好機です」

 男は部下の言葉に目を輝かせた。

「そうだな。デルタよ。王妃が離宮を抜けてどこに行っているのか、必ず突き止めろ! そして王妃を殺してあの魔女の血筋から陛下をお救いするのだ!」

「御意にございます」

 デルタと呼ばれた部下は主の命令に深々と頭を下げる。

 男は壁の肖像画に向き直り、優しい声で語りかけた。

「娘よ。お前の愛した陛下は必ずこの父が助ける。陛下は魔女に騙され、魔女の娘を娶ってしまったが、なぁに、あの女が死ねばすぐに目を覚まされるだろう」

「その通りです旦那様。陛下は『解呪の魔女』に騙されているだけです」

 主の背中に向かって、デルタが声をかける。諭すように、……そして、唆すように。

「おおかた呪いのことを口実に、陛下に娘を娶るように働きかけたのでしょう。狡猾な魔女です。……なぜか、六年前から我々の仲間はロウワン国に一歩も入れなくなってしまいましたが、あちらからロウワン国を出て我らの牙城にのこのことやってきてくれたのです。これを利用しない手はありません」

 ニタリとデルタの口元が歪む。

「『魔女の系譜』の血脈を神に贄として捧げるのです。そうすれば我らが神は旦那様の願いを叶えてくださるでしょう。陛下も呪いから解放されて自由になるのです」

「おお、そうだ。その通りだ。娘よ、もうすぐだ。もうすぐお前は愛する陛下と結ばれるのだ」

 男の見上げている肖像画の中では、白いドレスを着た赤毛の少女が笑みを浮かべていた。

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