第三章 お飾り王妃、自分の身は自分で守る
「な、なんですって? リーネ様を殺そうとしている連中がいるですって!?」
エマが真っ青になって叫んだ。
ロイスリーネはあの後、地下道に戻り、正しい道をたどって離宮に帰っていた。
「ええ、彼らははっきり言ったわ。王妃を殺さなければならないって。彼らの主とやらが、それを望んでいるんですって」
中庭で聞いた話をエマに説明していると、改めて恐ろしくなり、ロイスリーネは身震いした。エマはそれを見てようやく侍女としての本分を思い出したらしい。
「今温かいお茶を入れますね。それでひとまず落ち着きましょう。落ち着かないと対策も考えられませんから!」
エマはそう言ってせわしなくお茶の用意をする。いつになくぎこちない動作で、動揺しているのが丸分かりだ。どうやら落ち着かないといけないのはエマ本人のようだったが、動くことで不安を解消しようとしているのだろう。
現にできあがったお茶をロイスリーネに出す時にはもうだいぶ落ち着いていた。
「それにしても、賊が捕まったなんて知らなかったわ。騒ぎになれば気づきそうなものだけど……」
カップを持ち上げながら呟くと、エマが同意するように頷いた。
「ええ、そうですね。離宮で働く皆さんはいつも通りでしたわ。まぁ、離宮の建物の外で捕まったのなら、知らなくてもおかしくないのですが」
「男たちは今朝の計画と言っていたけど、もしかしたらまだ夜中とか明け方のことだったのかもしれないわね。私たちは寝ていたから気づかなかったのでしょう。ずいぶん大げさな警備だと思っていたけれど、そうではなかったのね。考えてみれば、王妃という立場だもの、その地位だけで命を狙われてもおかしくないわ」
「そうですね。でも実際に狙われたとなると話は別です。すぐにその者たちを捕まえてもらわなければ!」
声を荒らげるエマに、男たちの話を思い出しながらロイスリーネは言った。
「実行犯である刺客は捕まったけど、いくら尋問しても話をしていた男たちにはたどり着けないって自信満々に言っていたわ。……くっ、せめて扉の前じゃなくて、少し離れたところで話をしてくれていたら、彼らの顔を確認できたかもしれないのに」
それが残念でならない。話の内容はよく聞こえたものの、今のままではまったく手がかりがない状態だ。
もどかしさにロイスリーネは唇を噛みしめる。
「ひとまず、今まで以上に用心しましょう、リーネ様。彼らは再びリーネ様を狙うかもしれないのでしょう?」
「ええ。次の手を考えると言っていたもの。あの様子では諦めるとは思えないし、今後も狙われ続けるような気がするの」
「ではやはり、相手を捕まえるしかないですね。リーネ様、明日の朝、陛下に相談してみてはいかがでしょうか。今朝捕まった刺客のことはきっと陛下の耳にも届いていると思います。離宮の警備をもっと増やして――」
「いいえ、エマ。陛下には言えないわ」
ロイスリーネはエマの言葉を遮った。
「私は今朝あった襲撃も知らないことになっているのよ? 犯人たちの会話を聞いてしまったことも言えないわ。だって、離宮に軟禁されている私がどうやって知ることができたのか詮索されたら困るもの」
隠し扉と地下道の存在を知ってしまったことや、毎日離宮を抜け出して下町の食堂でウェイトレスをしていることまで言わなければならなくなる。それだけは避けたかった。それに……。
「犯人は陛下の身近な人という可能性もあるわ。考えてみて。王妃を暗殺して得するのは誰? どう考えても私が王妃であることを気に入らない貴族か、私を追い落として自分の娘を王妃につけたい高位の貴族くらいじゃない? 陛下に言ったら私が彼らの会話を聞いてしまったことが犯人の耳にも入るかもしれないわ。そうしたらもっと危険になる。地下道の存在を知られたら、離宮だろうがどこだろうが入りたい放題だもの」
「そうでした……同じ理由でカーティス宰相もだめですね」
「ええ。あの腹黒宰相にも言えないわ。自分の身は自分で守るしかないの」
――そうよ、お飾り王妃なら動けないけど、リーネなら自由に動けるじゃない。自らの手で犯人の正体を探ることも可能だわ。
「まずはあの男たちを探さないと。素性を知ることができれば、なんとか理由をつけて捕まえることができるかも。一番いいのは、軍の人に協力してもらって……」
ロイスリーネの脳裏にカインの姿が浮かんだ。
――そうだ。カインさんは軍の人だし、王宮にも出入りできる身分だもの。彼に協力してもらえば、王妃の命を狙う犯人を陛下に伝えずに捕えることができるかもしれないわ。
もちろん、自分が王妃だということを明かすわけにはいかないので、その辺はごまかすしかないが。
「リーネ様、危険なことはやめてくださいね。王妃様がここで厳重に守られていても、城下でリーネ様に何かあれば意味がないんですからね」
「大丈夫。女神に誓って危険なことはしないわ。いくらなんでも弁えてます」
「……そうだったらいいのですが……」
「大丈夫よ。私、運だけはいいんだから」
「それは分かってますが……」
本心から誓ったというのに、エマは信じていないようだ。けれど、不安そうにしていてもロイスリーネを止めることはしなかった。長い付き合いで、止めても無駄だというのが分かっているからだろう。
ひとまず方針が決まったので、ロイスリーネはお茶を堪能することにした。
「そういえば、離宮には物々しい警備だけでなく、賊が侵入できないように結界を張っていたらしいわ。私は全然気づかなかったけれど。エマは何か気づいていた?」
お茶を飲みながら尋ねると、エマは少しだけ考え、頷いた。思い当たることがあったのだろう。
「リーネ様に付き添って出入りする時に、少しだけ引っかかる感覚があったんです。ずっと気のせいだと思っていたのですが、今から思うとそれは結界のせいだったのかもしれません」
「王宮付き魔法使いたちが張ったものらしいわ。私に害意がある者は弾かれる仕組みで、害意がなくても、魔法を帯びている者が通ろうとすると分かるようになっているとか」
「それほどち密で複雑な魔法を張れるなんて、すごいですね。さすが強国ルベイラの王宮付き魔法使いたち。当代一と言われるのも分かりますね」
「まぁ、ルベイラほどの大国が集めた魔法使いだもの。実力揃いに違いないわ」
ロイスリーネは王宮付き魔法使いの頂点に立つ長とも顔を合わせたことがあるが、驚いたことにかなり若い男性だった。ロウワン国の生まれだという彼は、かなり破格の報酬でルベイラの王宮に迎えられたと言っていた。
実力のある魔法使いが出ると多くの国は自国で囲い込むものだが、ロウワンは違う。住む場所も仕える相手も魔法使い本人の意思にまかせている。
次から次へと魔法使いが誕生するので、わざわざ囲い込まなくても構わないというのがロウワン側の実情だが、他国にとっては貴重な魔法使いをスカウトできる場だ。だからこそ小国といえども他国はロウワンに一目置き、友好関係を結びたがるのだ。
ルベイラの魔法使いたちの中にもロウワン出身の者が何人かいるらしい。きっと離宮の結界も彼らが気をきかせて張ってくれたものだろう。
「いつか魔法使いたちに会うことがあったら、お礼を言わなければいけないわね。結界のおかげで私は助かったのだから」
「そうですね……」
相槌を打ちながらも、エマは何か別のことが気になっているらしい。
「どうしたの、エマ?」
「……いえ、ふと、狙われたのは今回だけなのかと思いまして。結界のおかげで助かったのはありがたいことです。でも、そもそも異常なくらい警備がついていたのは、前々から狙われていたからとも考えられないでしょうか」
ロイスリーネはエマの考えを笑い飛ばした。
「まさか。だって離宮に入った時からずっとこの大げさな警備だったのよ? それより前なんて、私がこの国に来たばかりの頃からってことになるわ。さすがに本宮で何かあったら騒ぎになっているのではなくて?」
「ですが、今朝の刺客の話も私たちはまったく気づきませんでした。リーネ様が犯人たちの話を偶然聞いてしまうまで、私たちは狙われていたことも知りませんでした。リーネ様が道を間違えなかったら、ずっと知らないままだったかもしれないのです。だったら前に同じことが起こっていても、おかしくないと思いませんか?」
「……確かにそうね」
エマが言うことにも一理ある。気づかないうちに狙われていて、知らぬうちに命を守られてきたのだとしたら……。
「離宮に移された理由も、『王妃の身の安全を守るため』ってことだったわよね?」
単なる建前だと思っていた理由が、本当のことだったとしたら?
「でも、だったらどうして、陛下は何も知らせてくれないのかしら? 普通は教えてくれるわよね? 狙われているから気をつけろとか言うわよね? やっぱりエマの考えすぎでは?」
知らないところでジークハルトが何も言わずに守ってくれていたのかもしれないと考えると、ロイスリーネは妙にそわそわした気分になった。
「そうかもしれません。あるいは何か別に理由があるのかもしれないですが」
「と、とにかく、陛下は何も言わなかったし、本当のところはどうか分からないわ。私からは聞けないもの。やっぱり自分の身は自分で守るしかないんだわ!」
ロイスリーネは心のもやもやに蓋をするように宣言した。エマは賢明にもそれ以上何も言わなかった。
「ねぇ、うーちゃん、どう思う? いえ、陛下のことはいいの。陛下のことは。自分のことを考えないとね」
その夜、やってきたうさぎの「うーちゃん」を胸に抱えながら、ロイスリーネはぶつぶつと呟いていた。
「とにかく、中庭で話をしていた二人の正体を突き止めるのが先決ね。陛下のことはそれからよ。当面は『緑葉亭』で仕事をした帰りに中庭の隠し扉の前で待機して、声の主がもう一度通りかかるのを待つしかないわね。で、声を確認したら後をつけて素性を確認するの。エマから侍女服を借りれば王宮内をうろついても不審に思われないでしょう?」
うさぎは何も言わずに黒い目でロイスリーネを見上げている。
「大丈夫。運はいい方だから。自分の身は自分で守れるわ。冷たい夫なんかに頼っていられないもの」
鼻息荒く言うと、うさぎが何か言いたげに前足を動かしてロイスリーネの胸を押した。
「うーちゃん? 心配してくれているの? 大丈夫。一人じゃないわ。エマもいるんだから。ひとまず、カインさんと話す機会があったら、それとなく相談してみるわ。信じてもらえなかったら、自力でなんとかあの男たちの素性を突き止める。よし、頑張るわよ!」
ロイスリーネはうさぎを抱きしめながら、ベッドに横になる。
普段だったらうさぎは枕元に移動するのだが、この日はロイスリーネの不安を感じ取ったかのように、胸に頭をすりすりとこすりつけてきた。まるで心配するなとでも言っているように見えて、ロイスリーネはうさぎの耳と耳の間に唇を押し当てた。
「ありがとう。うーちゃん。大好きよ」
胸に温かさと重さを感じながら、ロイスリーネは眠りに落ちていった。
「リーネ、何か悩み事でもあるのか?」
翌日、いつものように『緑葉亭』でウェイトレスをしていると、昼食を食べにやってきたカインが心配そうに尋ねた。
きっとロイスリーネがカインの方を何度も見やって何か言いたげにしていたからだろう。
いえいえ、これはどうやってあなたに話を切り出そうかと悩んでいるからです――などと言うわけにもいかず、あいまいな笑みを浮かべたロイスリーネだったが、ハタと思った。
――カインさんから声をかけてくれたのだから、ちょうどよかったんじゃないかしら?
「あ、あの、カインさん。申し訳ないんですけど、あとで時間ありますか? 相談に乗っていただきたいことがあるんですけど……」
周囲の客に聞こえないように小声で言うと、カインは頷いた。
「もちろん。俺にできることであれば。君の仕事が終わるまで待っているよ」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
「君のお願いならお安い御用だよ」
カインはにっこりと笑ってロイスリーネの頭を撫でた。そんなことをされたのは初めてだったので、ロイスリーネがびっくりしている横で、顔なじみの常連客がはやし立てる。
「おおっと、カイン坊やがリーネちゃんの頭を触ったぞ!」
「ヒューヒュー」
「おいおい、おさわり禁止だぞ、カイン!」
「ヘタレなカインにもようやく春が巡ってきたか」
各々好きなことを言い立てる常連客に、カインは顔をしかめ、しっしっと手で追い払う仕草をした。
「暇人どもめ。少しは遠慮したらどうだ。リーネが困るだろうが」
このカインの言葉に常連客が一斉に反論した。
「カインがリーネちゃんに触るからだろうが」
「困らせているのはカイン坊やの方じゃないかな」
「お前が言うな」
当のリーネは顔を赤く染めて立ち尽くしている。眼鏡で顔を覆っているものの、恥ずかしがっているのはバレバレだった。
――び、びっくりした。いえ、家族以外の男性に頭を撫でられるのは初めてじゃないわよ? 六年前にも当時まだ王子だった陛下に慰められたことがあるもの。でもあの時はまだ子どもだったし。今回はいきなりだったから、それで驚いただけよ。
心の中で言い訳しながらもなんとなく頬が熱い。
「あ、あの、それじゃ、また、あとで」
居たたまれなくなって、ロイスリーネは周囲にはやし立てられているカインを残して厨房に逃げた。
一部始終を目撃していたリグイラが、にやにや笑いながら「若いねぇ。青春だねぇ」と呟いていたことを、ロイスリーネは知らない。
それから二時間後、仕事を終えて店を出たロイスリーネをカインが迎えた。
「道の真ん中で話すのもなんだし、近くにできたケーキの店でも行くかい?」
ケーキには心を惹かれるが、周囲に人がいるところでできる話ではない。
「できれば、あまり人のいないところがいいです」
「人に聞かれては困る話なんだね? だったら、駐屯所にある俺の執務室に行こう。あそこなら誰かに聞かれる心配はない」
「私が入っても大丈夫なんですか?」
「俺と一緒なら大丈夫だ」
他に場所が思い浮かばないので、ロイスリーネはカインにまかせることにした。
軍の駐屯所は広く、王都の東側でも大きな区画を占めている。余談だが、西側にもまったく同じ建物があり、王都の治安を維持する第三部隊の兵士の多くはこの東西の駐屯所に住んでいるとの話だ。
駐屯所は煉瓦造りの壁に囲まれ、中がどうなっているか窺い知ることはできない。入り口には兵士が立っていて、出入りする人間をチェックしている。軍の関係者以外はこの警備兵に追い払われてしまうので、近づくことすらできないと聞いている。
そのためロイスリーネはカインの後ろについて門の中に入る時かなり緊張したのだが、彼の言っていた通り一瞥されただけで咎められることはなかった。
――こんな簡単に部外者が入れるなんて。もしかしてカインさんって軍の中でもかなり偉い人なのかしら?
思えば彼は「俺の執務室」と言っていた。個人の執務室が与えられるくらいだ。軍の中でもかなり上の地位にあると見ていいだろう。
――この若さで上位にいるってことは、もしかしてカインさんは貴族出身なの?
貴族出身だったら、王妃の顔を見る機会もあるかもしれない。
なんとなくだが、ロイスリーネはもしカインと王妃として相対したら、どれほど着飾ろうともすぐに「リーネ」だとバレてしまうような気がした。
それはマズイ。まだ正体を明かすわけにはいかないのだ。
「どうした? こっちだよ」
カインの身分について考えているうちに、つい足が重くなっていたらしい。少し離れたところでカインが足を止め、振り返ってこちらを見ている。
「あ、はい。すみません」
ロイスリーネは慌てて小走りでカインに近づき、おずおずと尋ねた。
「あの、カインさんは偉い人なんですか?」
尋ねられたカインは目を丸くした。
「どうしたのいきなり? いや、俺の位などたいして高くないよ。もっと上の人間はごまんといる」
「で、でもその若さで、階級持っているなんてなかなかないですよね。もしかしてカインさんって、貴族……なんですか?」
息を吞んで答えを待つと、カインは笑いながら首を横に振った。
「いや、違うよ。田舎の子 爵 家出身だから、親と兄は貴族と言えるけど、次男の俺は貴族じゃない。爵位なんて持っていないからね」
確かに正式な貴族と言えるのは爵位を持っている者だけだ。長男以外は成人したら家を出て自立しなければならない。親のコネで文官として王宮に就職したり、身を立てるため軍に入る人も多い。
「軍には父親の友人の推薦で入ったんだ。そう、コネというやつだ。おかげでたいした手柄も立てていないのに、周りが色を付けて名前だけの階級が与えられた。だから本当はちっともすごくないんだ。ただ、推薦した人がすごすぎただけ」
カインはさらりと「親の友人というのがベルハイン将軍でね」と付け加えてから、言葉を続けた。
「このことは『緑葉亭』の女将や顔なじみ客も知っているよ。軍に入ったばかりの頃から通っているからね。十六歳の若造だったから……。おかげで当時からの顔見知りには未だに坊や扱いされている」
「立派な軍人さんなのに、どうして『カイン坊や』と呼ばれているのか、少し疑問だったんです。なるほど、謎が解けました」
言いながらロイスリーネは心の中で安堵していた。ベルハイン将軍の知己だというのには驚いたが、子爵家の次男であれば「ロイスリーネ王妃」と話す機会などまずないだろう。
――よかった。今の関係を崩したくないし、ウェイトレスも続けたいもの。
「ここだ」
駐屯所の建物の一つに入ったカインは「第八師団第八部隊付き」というプレートがかかっている部屋の前で足を止めた。
「少し狭いけど、どうぞ」
執務室と聞いて机に書類が乱雑に積み重なっている光景を思い浮かべていたのだが、カインの部屋はそのイメージとは遠かった。書類もあるが、きちんと整理整頓され、乱雑に置かれているものは何一つない。
「綺麗な部屋ですね」
確かに狭いが、カインが言うほどではない。机の他にはソファとローテーブルが置かれていて、壁際の本棚と小さな食器棚の間には男性の背丈ほどの壁に埋め込まれた姿見まであった。
「王宮の軍本部と行ったり来たりしてるからね。散らかす暇がないんだ。リーネ、ここに座ってくれ」
「はい」
ローテーブルを挟んでソファに向かい合って座ると、カインは真剣な眼差しをロイスリーネに向けた。
「ここなら話の内容を誰かに聞かれる心配はないから安心してほしい。それで、相談っていうのは一体?」
ロイスリーネは背筋を伸ばした。
「あの、とても大変なことを聞いてしまったんです。内容が内容だけにどうしたらいいか分からなくて……」
「大変なこと?」
「はい。あの、私には王宮に幼馴染がいるんです。王妃様の侍女をしているエマというロウワン国出身の女性です。昨日、彼女に会いに王宮に行ったのですが……」
ここに来るまでに思いついた設定を口にしながらロイスリーネはカインを窺った。一介の侍女が簡単に友人を招くことができるかどうかは不明だが、これくらいしか平民のリーネが王宮にいても不自然ではない理由が思いつかなかったのだ。
心配になったが、幸いにもカインは特に不審に思わなかったらしい。言葉の止まったロイスリーネに「それで?」と先を促してくる。
「あ、それでですね。王宮に入ったのはいいんですが、広くて迷ってしまいまして、あちこちを彷徨い歩いていたら、小さな中庭に出てしまったんです。そこに人が来る気配がしたので見つかったら怒られると思い、私は噴水の陰に隠れました。彼らは私に気づかず回廊で立ち話を始めたのですが、その内容が……」
「内容が?」
「……王妃様の暗殺に失敗したという内容だったんです」
口に出したとたん、目の前のカインの雰囲気が変わった。表情自体は変わらないのに、目の色が水色から青に近い色合いに変化する。
ロイスリーネは慌てて言った。
「し、信じられないかもしれないですが、本当なんです。彼らが話していたのが、今朝、いえ、昨日の話だから昨日の朝、離宮に魔法で暗示をかけた刺客を送ったけど、失敗したという内容だったんです」
「ああ、すまない。疑ったわけじゃないんだ。その話、いや、男たちが話していた内容をもっと詳しく教えてくれないか。もしかしたら、俺の仕事に関わることかもしれないんだ」
カインが疑念を抱いたわけじゃないと知り、ロイスリーネは心の中で安堵の息を吐いた。
――カインさんは私の話を疑っていない。信じようとしてくれてるんだわ。
「はい。カインさん。男たちはこう言ってました」
ロイスリーネは男たちの会話を覚えている限り再現して伝えた。
離宮に張り巡らされた結界のことや、刺客が捕まっても自分たちにたどり着くことはできないと豪語していたこと。彼らの背後に「主」と呼ばれる人物がいるらしいこと。そして、彼らがロイスリーネの暗殺を諦めていないことを。
話を聞いたカインは顎に手を当てて黙り込んだ。今聞いた話を思い返してじっと何かを考えているようだった。
しばらくすると、カインは顔を上げてロイスリーネを見る。
「君はその男たちの顔は見なかったと言うが、声を聞けば分かるかい?」
「分かります。今も耳に残っていますから。顔を見なくても声を聞けばあの時の男だと分かると思います」
ロイスリーネの返事を聞いてカインは頷き、何かを決心したような表情で口を開いた。
「リーネ。今から話すことは重要機密で、軍の中でもごく一部の者しか知らないことだ。君も他言しないようにしてほしい。……実は、半年前からずっと王妃は命を狙われ続けているんだ」
「――え? 半年前から、ずっと……?」
衝撃を受けると同時に、やはりという思いが頭をよぎった。
――やっぱりエマの言っていたように、私の命が狙われたのは昨日の朝だけではなかったんだわ。
「ああ、半年前、結婚したその日の夜からだ。国王夫妻は慣例通りに祝賀会を途中で退席し、初夜を迎えるはずだった。だが、その直前に、クライムハイツ伯爵の養女が住む西側の離宮に賊が侵入したという一報が入った。けれどそれは陽動で、本当の狙いは王妃の命だった」
やや遅れてロイスリーネは、西の離宮に住むクライムハイツ伯爵の養女というのが、ミレイのことだと気づく。
――ミレイ様も狙われたというの?
「どうやら陛下や兵士たちの注意を西の離宮に引きつけておいて、本宮にいる王妃の命を狙うつもりだったようだ。だが、陛下はその罠に引っかかることはなく、刺客が王妃の部屋にたどり着く前に捕えることができた。この件は秘密裏に処理されて、公表はされていない。当時は国王の結婚式に参列するために諸外国から賓客が大勢訪れていたからね。下手に騒ぎにするわけにはいかなかった。もちろん王妃にも、命が狙われたことは伝えられていない」
――いや、いや、そういう重要なことは教えてよ!
喉まで出かかった言葉をロイスリーネは必死に吞み込んだ。
「その後も執拗に王妃への襲撃は続いた。刺客だけじゃない。料理に毒を仕込まれたこともあるし、王妃宛の贈り物の中に毒虫が紛れ込んでいたこともある。事態を重く見た陛下は王妃を離宮に移して、厳重に警護をさせた。本宮だと人の出入りも多く、完全に刺客の侵入を防ぐことは難しいからね」
「……知らなかったわ」
ロイスリーネはそんな事情があるとはまったく知らなかった。そもそも命が狙われていたことにも気づいていなかった。
「だから言っただろう? 一部の人間しか知らされていないことだって。王妃が今いる離宮は本宮からそれほど離れておらず、軍の本部からも近い。何かあればすぐに駆けつけることができる。魔法使いたちにも結界を張らせているし、あそこに出入りできるのは厳選された人間だけだ。これならさすがに相手も諦めるだろうと俺たちは考えた。だが、その後も期間を開けつつ襲撃や暗殺未遂が続いている。今のところ運よく全部水際で防げているけど、この先はどうなるか」
「刺客とか毒を盛ったりした人は捕まえたのですよね? それでも首謀者は分からないんですか?」
とたんにカインは難しい表情になった。
「ああ。君が聞いたように、下手人は捕まえることができても、暗殺を命じた真犯人までは分からずじまいなんだ。何人もの人間を仲介して依頼しているようでね。大元にたどり着く前に証拠が途切れていたり、犯人を知っていそうな者の存在自体が消されていることもある。今日も王都の下町のゴミ箱の中から、魔法使いの遺体が見つかった。離宮で働いている料理長の助手に魔法をかけたと目されているモグリの魔法使いだ。要するにトカゲの尻尾きりというやつだな」
「なんていうこと……」
ロイスリーネは唇を噛みしめる。
確かにあの男が豪語していた通りだ。探られないようにうまく立ち回っているのだろう。
「俺の所属する部隊は情報部でね。この半年間、陛下の命令で、王妃の命を狙っている犯人を密かに捜していた」
「カインさんは情報部の方だったのですね」
なんとなく納得できる。王宮と駐屯所を行き来していたのも、情報を集めるためだったのだろう。
「残念ながら王妃を狙う真犯人にまでたどり着けないでいるがね。だけどどうやら、ここにきて重要な手がかりを見つけたようだ。それは君だよ、リーネ」
カインはロイスリーネを見やって不敵に笑う。ロイスリーネはきょとんとした。
「私、ですか?」
「君が聞いたのは直接真犯人に繋がっている者たちの会話だ。君が声の主を確定できれば、犯人への重要な手がかりになる」
「あ、そ、そうですよね!」
ロイスリーネ自身、そのつもりだったのだ。声から男たちを特定して、犯人まで行きつくこと。その先のことは考えていなかったが、カインにまかせれば万事うまくいくだろう。
「リーネ、俺たちの捜査に協力してもらえないだろうか。危険がないとは言えないが、できるだけ君の身は守る。王妃のために力を貸して欲しい」
「はい、私でよければ喜んで」
にっこり笑って頷くと、カインはホッとしたような表情になった。
「さっそくだけど、当面は君が迷い込んだ中庭がどこにあるか特定することにしようと思っている」
カインは立ち上がると、執務室の机の引き出しの中から一枚の紙を取り出し、ソファに戻ってきた。ローテーブルに広げられたその紙を見ると、どうやら王宮の全体図のようだった。広大な王宮の敷地にあちこちに建物が点在している。王宮自体が一つの街のようなものだ。
一番大きな建物がジークハルトの住む本宮。長い年月の間に増改築を重ねた結果、複雑な形で左右と上下に伸びている。
「連中が話をしていた中庭が特定できれば、ある程度は絞れるだろう。そこの建物に出入りしている者たちを中心に調べればいいのだから。今のようにやみくもに捜すよりずっと合理的だ。だが……この図だけじゃ分からないよな?」
「そうですね。私は具体的に何をすればいいのでしょうか?」
尋ねると、カインはしばし考える仕草をした後、こう言った。
「『緑葉亭』の女将には話をしておくから、ウェイトレスの仕事を一時間早く切り上げて、俺と一緒に王宮に来てもらえないか? 軍本部に所属する侍女ということにしておくから、俺の遣いと称して王宮をあちこち回って中庭の場所を特定してほしい。もちろんその間の給金は別途払う」
「お給金はいりません。王妃様のためですもの」
言いながらロイスリーネが考えていたのは別のことだった。
――王宮を探るのなら、一時間じゃ足りないわね。もう少し長くできないかエマに相談してみよう。カインさんの都合もあるだろうけど、せめて二時間は欲しいわ。
それ以上うろつけば不審人物に思われるかもしれないから、そのくらいが妥当ではないだろうか。
「いや、出させてほしい。君に無料奉仕してもらいたいわけじゃないんだ」
カインはどうしてもロイスリーネに給金を払いたいらしい。ここで揉めても時間の無駄なので、ロイスリーネは妥協することにした。
「分かりました。お給金をいただきます。でも、ほんの少しでいいですからね」
――カインさんが真面目な人だというのは知っていたけど、案外頑固なのね。まるで誰かさんみたい。
その誰かさんはロイスリーネが知らない間、ずっと命を守ってくれていたようだ。そのことに感謝はしているが、何も教えてくれないのはいただけない。
「ねぇ、カインさん。離宮にいる王妃様は未だに自分が命を狙われていることを知らないし、気づいていないんですよね?」
「ああ」
突然変わった話題に、なぜかカインは身構えるような姿勢になった。それを不思議に思いながらも、ロイスリーネは尋ねる。
「どうして陛下は王妃様に伝えないんですか? 自分の命が狙われているのを知っていた方が注意して行動できるじゃないですか」
……どうしてもこのことを聞かずにはいられなかった。
――だって、本人に聞いても絶対答えてくれない気がするんだもの。
カインは少しの間逡巡すると、明後日の方を見ながら口を開いた。
「俺は陛下の考えを聞いたわけじゃないから、はっきりとしたことは分からないが……たぶん、怯えさせたくないんだと思う」
「王妃様を、怯えさせたくなかった?」
「ああ。だって考えてみてくれ。いつ命を狙われるのか、脅かされるのか、四六時中警戒して気を張っていなければならないんだぞ。気をゆるめられない生活が毎日続く。普通なら神経が参ってしまうだろう? ましてや王妃は遠い外国から嫁いできて、心細い思いをしているはずだ。そんな人にどうしてこの国の者が命を執拗に狙っているなんて言える?」
「それは……」
確かにその通りだとロイスリーネも思う。毎日朝から晩まで絶えず警戒しなければならない生活をしていたら、ロイスリーネの図太い神経を以てしても耐えられたか不明だ。
「だろう? だから陛下は考えたんだ。王妃に気づかれないように守って、犯人を捕まえて解決しよう、と。もちろん、王妃は最後まで気づかないままに、とな。……まぁ、その犯人が捕まえられないので、今こんな状況になっているわけだが」
自嘲めいた笑みがカインの顔に刻まれる。
ロイスリーネは何も言えなかった。何も――。ただし、心の中では盛大に夫に向かって喚いた。
――陛下のバカ! 分かりづらいのよ、その気遣いは!
感謝の念が湧くというより、むしろ怒鳴りたい気分になっていた。
地団駄を踏んで叫びたい。知らされなかったことにも文句を言いたくてたまらない。……それと同じくらいに自分を蹴飛ばしたい気持ちだった。
――ああ、私もバカだわ。どうして何も気づかなかったのかしら! 兆候はきっとあちこちにあったのよ。
けれど、頑なにジークハルトを心から締め出していたせいで、気づくことができなかった。
――今さらどうにもならないわよね。陛下はきっと私が尋ねてもしらを切るだけだと思うし。……いいわ、こうなったら、犯人捕まえて、何もかも解決した後で文句を言ってやる!
謎のやる気が胸の奥から湧いてくる。
ロイスリーネはソファから立ち上がり、カインの手をぎゅっと握った。
「カインさん!」
「リ、リーネ?」
仰天するカインを無視して、ロイスリーネは鼻息も荒く宣言する。
「私、頑張りますから! 王妃様の命は私たちで守りましょう!」
「そ、そうだな。でもとりあえず、落ち着いてくれないか?」
「王妃様を狙う犯人を捕まえて陛下の前に突き出してやるんです!」
「リーネ、頼むから落ち着いてくれ!」
拳を握りしめてやる気に満ちているロイスリーネは、カインが戸惑っていることにしばらく気づくことはなかった。
駐屯所の門のところで足取りも軽く帰っていくロイスリーネを見送ったカインは、やれやれとため息をつきながら執務室まで戻った。
執務室に入ると、内側から鍵を閉める。これからカインは王宮に戻らなければならないのだ。
けれどカインが向かった先はドアの外ではなく、執務室の中にある本棚と食器棚の間にある大きな姿見だ。壁に埋め込まれた姿見の外側には木で彫られた彫刻がある。
もしロイスリーネがこの姿見を近くで見ていたら、きっと気づいたに違いない。離宮の寝室にある隠し扉となっている鏡とよく似ていることを。
木で彫られた模様の一部にカインの指が触れた。カチリとかすかな音が響く。
姿見の鏡面に手を当てて軽く押すと、動かないはずの姿見が音も立てずに開き、その奥に隠された空間を晒し出した。
それはまさしく、ロイスリーネの寝室にあるのと同じからくりだ。
カインは隠し扉の中に入って姿見を内側から施錠すると、真っ暗になった空間で手を差し出す。
「≪光よ、この手に集え≫」
唱えたとたん、カインの手のひらの上にはまばゆい光を発する玉のようなものが浮かんだ。光は周囲を明るく照らし出す。ロイスリーネが地下道を進む時に手にしているランプの火とは明るさが段違いだ。
光の玉を翳しながら、カインは螺旋階段を下りた。地下道に到達すると、慣れた様子で歩き始める。
ロイスリーネは知る由もなかったが、カインの進む地下道は彼女がいつも使っている地下道とはまた別の地下道だ。だから決して二人がかち合うことはない。
二十分ほど歩くとカインは側道の一つに入った。先にあるのは再びの螺旋階段だ。階段を上り切り、現われた扉の鍵を開ける。扉の向こうを窺うことなく。
姿見の形をした隠し扉から一歩踏み出すと、そこには二人の人物がいた。
一人は国王ジークハルト。もう一人は宰相のカーティスだ。
駐屯所にあるカインの執務室とは比べ物にならないくらいに広くて豪華な執務室で、ジークハルトは大きな机に座っている。一方、カーティスは書類の束を手に机の前に立っていた。
二人の目が一斉にカインに注がれる。
「おかえりなさいませ。首尾よくいきましたか?」
カーティスが微笑み、ジークハルトは安堵したように笑った。そう、笑ったのだ。
「ああ、よかった。ようやくこの書類地獄から抜け出せる。まったく、ひどいや。僕に仕事を押しつけて自分は奥方とデートとか。羨ましすぎる」
口調も明るく話す様子も、いつものジークハルトとは明らかに異なっている。だがカーティスもカインも気にする様子はない。
「何か変わったことはあったか?」
カインが尋ねると、カーティスが首を横に振った。
「いいえ。今のところは何もありません。離宮も静かなものです」
「そうか……」
「二人とも報告は後にして。先に元の姿に戻ろう。ずっとしかめっ面をしているのは本当に疲れるんだよ?」
二人が話す傍らでジークハルトが椅子から立ち上がり、片耳につけた青い小さなピアスを取り外す。そのとたん、ジークハルトの姿が変わった。
銀髪に青灰色の瞳を持つ美貌の王から、明るい金髪に水色の目をした愛嬌のある顔だちへと。
そう。今までジークハルトの姿をしていたのは彼の従者のエイベルだったのだ。
カインも自分の片耳についている赤いピアスを引き抜いた。すると、その姿がまるで異なった姿に変化していく。
黒髪から銀色の髪へ。水色から、青灰色の目へと。男らしい精悍な顔だちは中性的な美貌へと変わっていった。
ルベイラ国王ジークハルト。カインのもう一つの――いや、本来の姿だ。カインはジークハルトが自由に動くために作られた仮の人物だった。
カインになっている間、従者のエイベルが代役となってジークハルトを演じている。姿は魔法使いの長に作ってもらった魔法のピアスで簡単に変えることができた。
もっとも、ずっと姿を変えられるわけではない。ピアスの魔法はせいぜい半日しか保たないのだ。それでもジークハルトにとって国王の重責から解放される貴重な時間だった。
「ああ、やっぱり本来の姿の方がしっくりくるね。ジークもそうだろう?」
国王の身代わりという大役から解放されたエイベルは嬉しそうだ。ジークハルトはその言葉を無視して椅子に座ると、ムスッと口を引き結んだ。
「おや、陛下。機嫌が悪そうですね」
カーティスが片眉をわざとらしく上げる。どうやら面白がっているらしい。エイベルが含み笑いを浮かべながらカーティスの肩を叩いた。
「カーティス、聞いてやるなよ。ジークは王妃様が夫の自分ではなくカインを頼ったのが悔しいんだ。王妃様にとって常連客に過ぎないカインが自分を差し置いて力になるってのがね。カインもジークもどっちも陛下なのにね」
「……」
まったくその通りだったので、ジークハルトは反論できなかった。そう、彼は気に入らないのだ。ロイスリーネが夫ではなく赤の他人であるはずのカインを頼ったことが。
「王妃様からしたら当然だよね。うん、ジークの自業自得だ」
エイベルは笑顔でさくっと毒を吐いた。カーティスも頷いて同意する。
「その通りですね。王妃様は半年間も我慢を強いられているんですから、陛下を頼れないと思うのは当然でしょう」
二人はジークハルトとは幼馴染で、実の兄弟のように育った。そのため、国王であるはずの彼にも容赦がない。
「まぁ、それは今さらですね。さて、報告をお願いします。陛下、王妃様から話は聞き出せましたか?」
カーティスが尋ねると、ジークハルトはしぶしぶ頷いた。
「ああ、やっぱり予想通りだった。彼女は地下道を間違えて王宮内にあるどこかの中庭に出てしまい、そこで犯人にごく近い立場にいる男たちの会話を聞いたらしい。くそっ、そのせいでロイスリーネは自分の命が狙われていることを知ってしまった」
「時間の問題だったかと。いえ、よく半年間も隠し通したと思いますね。運がよかったのでしょうね、運が」
意味ありげにカーティスは呟く。言いたいことは分かるが、ジークハルトはそのほのめかしを無視して、ロイスリーネから聞いた話を二人に説明した。
「そういうわけで、ロイスリーネは男たちを捜すために俺の保護下で動いてもらうことにした。でないと彼女は何をしでかすか分からないからな」
ため息まじりにジークハルトが付け加えると、エイベルがおかしそうに笑った。
「ほんと、王妃様ってあんなに大人しげに見えるくせに、行動力半端ないよね。普通一国の王女がどれほど暇だろうが給仕係なんてしないよ?」
「彼女は……色々な意味で普通じゃないんだ……」
机に頬杖をついて、ぐったりとした様子でジークハルトが呟いた。その様子を見てカーティスが忍び笑いを漏らす。
「そうですね。性格も持っているギフトも並みじゃないですね。いやはや、王妃様が地下道を使ってお忍びされていることも、ウェイトレスをすることも止めずに黙認している陛下も、どうかと思っていたのですが……」
それはそうだろう。ロイスリーネを守るために大勢の兵を配置して魔法使いたちに結界まで張らせているのに、当の本人が結界の外に出て無防備な状態で遊んでいるのだ。普通だったら即刻やめさせるだろう。
けれどジークハルトはロイスリーネの自由にさせている。
「それは……その、ロイスリーネが楽しそうだったから、止めるに忍びなくて……」
明後日の方を見ながらジークハルトはボソボソと答える。
「その配慮は陰でじゃなくて本人に示すべきだよね。本当ジークってヘタレだよね。ミレイについても説明できないまま半年経っちゃったじゃないか。絶対王妃様は誤解しているし、この半年でさらに拗らせていると思うよ。おかげで僕はエマに毎朝冷たい目で見られるし。ああ、ヘタレな主を持ってしまった僕はなんて不幸なんだ!」
エイベルは大げさに嘆くフリをする。けれど、本当はまったく堪えてもいないし、嘆いてなどいない。
「……でもさ、冷たい目をして僕を見るエマも好きなんだよね。あの蔑むような目で見られるとゾクゾクするよ。もっともっと虫けらを見るような目で僕を見てほしいなぁ」
思い出したのかエイベルはうっとりと微笑んだ。このエイベルという男は明るく親しみやすい顔の裏にドM属性のSという最悪の性癖を隠しているのだ。
余談だが、エイベルがこの発言をしたのとほぼ同じ頃、少し離れた離宮ではエマが「くしゅん」と小さなくしゃみをしていたという。
「風邪かしら? リーネ様に移さないようにしないと」
そう呟くエマは、まさか自分がドMな真性ドSにロックオンされているとは夢にも思っていない。
「黙れ、変態」
ジークハルトはエイベルにピシャリと言うと、脱線しかけた話題を元に戻すことにした。
「とにかく、『リーネ』が王宮で自由に動けるように協力してくれ。エイベルは離宮の侍女にロイスリーネのサイズを聞き出して彼女の体型に合う侍女服を用意しろ。カーティスは今後しばらくは午後にロイスリーネの公務を入れないように調整してほしい」
「分かったよ。王妃様のスリーサイズは、後でジークにもこっそり教えてあげるね」
「承知いたしました。午後に公務が入りそうな時はタリス公爵令嬢に代役を頼みましょう」
同時にエイベルとカーティスが答えたが、ジークハルトは変態の言葉をまるっと無視した。
「頼んだぞ、カーティス」
「はい。あと、王妃様に付ける『影』の守りも増やして王宮に配置しましょう。王妃様はルベイラにとって大切な方です。必ずや守り通さねばなりません。……でなければ、きっと遠くないうちにこの国は呪いに沈んでしまうでしょう」
「そうだな……」
ジークハルトは目を細める。
呪い。それは何百年にも渡ってルベイラを覆う影だ。
「二人とも、今は呪いのことより目の前にある危機の方が先でしょうが!」
エイベルが明るい口調で会話に割り込んだ。
「呪いのことは焦ったって仕方ないよ。王妃様次第だもの。僕らは王妃様を執拗に狙う奴らから守ることが先決だ。幸いにもその王妃様のおかげで手がかりがつかめたんだ。これを活かさないと」
変態のくせにたまにいいことを言う――とても失礼なことを考えながら、ジークハルトは頷いた。
「そうだな。偶然とはいえ、ロイスリーネのおかげで半年間膠着していた事態が解決に向かうかもしれないんだ。こちらに専念しよう」
「偶然? いえ、これは必然ですよ」
カーティスがうっすらと笑みを浮かべて言った。
「いつもは迷わない道を間違えて行った先で、犯人たちが話をしていた? ちょうど隠し扉の外で? ……いいえ、これは偶然とは言いません。必然ですよ。王妃様の持つギフトの性質を考えれば、これはまさしく啓示にほかなりません」
「カーティス」
「半年かけても愛し子を害そうとする犯人を捕まえられない私たちに対する神々からの啓示であり忠告でしょう」
「カーティス! それ以上言うな。言ってはならない」
厳しい口調でジークハルトはカーティスの言葉を制した。
「ロイスリーネのそのギフトのことは我々三人以外には漏らしてはならない重要機密だ。ロイスリーネ本人にも知られるわけにはいかない。それがロウワン国の王妃――『解呪の魔女』殿との約束だ」
とたんにカーティスは真顔になって頭を下げた。
「申し訳ありません。浅慮でした。ええ、そうですね。漏れたら最後、世界中がたった一人の女性を血眼になってほしがるでしょう。どの国もどの神殿も、誰もが王妃様を狙うことになる――戦争が、起こるでしょうね。そしてもしその戦いの最中に王妃様の命が失われでもしたら――この世界は、いえ、人間は間違いなく神々に見捨てられるでしょう」
カーティスのその言葉は執務室の中で重く響いた。
ジークハルトは戦乱の予感を振り切るように宣言する。
「いや、そんなことにはならない。必ずロイスリーネは守り通す。必ずだ」
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