第10話 Fly Me to The Moon


 本番を迎えたこの日、ステージには秋雨というにはあまりにも荒々しい熱気と情熱が立ち込めていた。


 吹き荒れる風は佳奈のサックスのハイトーン。眞莉愛の音に奮い立たされて、夏の夕立のような激しいうねりをあげる。


 みちるや里帆が支えていた去年の大会とは明らかに佳奈の毛並みが違った。


 去年との違いをなんとか生み出そうともがいているようでもあったし、単純に眞莉愛とのセッションを楽しんでいるようにも聴こえた。音が弾んでいるのだ。水溜りに落ちた雨粒が王冠を作るように、優雅に勇ましく。二人のサックス奏者が見つめているのは、少し上にいる陽葵の背中だろうか。


 付き合わされるこっちの身にもなってくれ、と言いた気に身体を丸め込みながら、必死にめぐのピアノが嵐のようなサックスのスタッカートを支える。どれだけ強い風に吹かれても負けないゼフィランサスのような凛々しさは、破裂して飛び散る種のように会場の一番後ろまで届いていく。


 曲が終わり、満席になった中央公会堂の客席から拍手が沸き起こった。


 その拍手に送られるようにして、宝塚南の一年生部員は、上手の袖へとはけていく。約二週間の準備期間で、『Rain Lilly』をここまで仕上げられたのだから、後輩たちをしっかり褒めてあげなくてはいけない。しかも、佳奈と眞莉愛の暴走に近いアドリブにも負けじと答えてくれたのだ。とびきりの褒め言葉を考えておかなくちゃいけない。


 金管楽器がポジションを若干変えてステージを広く取った。ここからは再び此花学園の一年生が合流して、『Fly Me to The Moon』に続く。


 ついさっき雨の上がったばかりの大集会室に夜が訪れた。ステージは、湖に沈んだように青色の光に満たされていく。水底に注ぐ月明かりのような白いスポットライトは、徐々に細くなって、マイクの前で佇む奏だけを照らし出した。


 静寂が一瞬を長く長く感じさせる。マイクの前に立つおとなしそうな少女がどんな歌を聴かせてくれるのだろうか、そんな無音の期待が、あぶくのように大きく膨れ上がるのが見えた。


 奏が息を吐き出せば、膨らんだあぶくが押し出されるように渦を巻く。破裂すること無く期待は一気に水面に上がってきた。音が流れる寸前の高揚感。奏がマイクを握る。制服のスカートがわずかに揺れる。それを指揮代わりにしたみたいに、柔かなピアノとウッドベースが音楽の湖に舟を浮かべた。


 優しい歌声が舟を追いかけていく。泡たちは一つの大きな気泡となって、奏の歌に耳を澄ませていた。目指すのは湖に浮かぶきれいな月。奏に注がれているのは、月明かりに似せたスポットライトだけじゃない。観客のキラキラした眼差しが、その情景に寄り添うように、少女の細い体躯を見つめていた。


 少しだけハスキーな愛の調べが、どこまでも夜を穏やかにしていく。みなこたちはただ湖の底から舟を漕ぐ奏を見上げているだけ。


 ギターもドラムもトランペットもこの瞬間は、夜の帳に隠れるような静かな音を鳴らしている。水底から並を欹てて、舟が進むのを手助けする。そんなイメージで、なるだけ柔らかくギターの弦を弾く。


 隣でアルペジオを爪弾く明梨の意識も同じだったらしく、普段の彼女からは想像も出来ないような優しい音を奏でていた。違う、知っていたはずだ。明梨は毛布のような優しいギターだって、メタルのような激しいギターだって弾きこなせる。今のみなこよりもきっと技術も経験も上なのだ。


 そして、そんな彼女の手綱を握っているのは詩音だろう。波をこれ以上、荒立ててはいけないラインを示すように、ギターが前へと出る直前の小節でぐっと手綱を引いて明梨を制止する。明梨はそのラインを決して侵さない。


 普段は明梨の後ろに隠れてばかりの詩音だけれど、音楽の中では明梨をリードしている。それにちゃんと従う明梨にも可愛らしいところがあるんだと、微笑ましくて、思わず笑みが零れそうになった。


 湖畔に吹き抜けた夜風を思わせる眞莉愛のサックス、夜の水面を進む舟を覗きに来た魚のような航平のトランペット、舟の上に羽を休めた鳥たちのような佳乃のトロンボーンが、モノクロだった湖の景色を色づかせていく。


 やがて奏が黄色い月の真上までやって来た。夜空を見上げて月に奏は手を伸ばす。届かない月に口づけするような吐息混じりの声は「愛している」と呟いた。


 拍手がわっとわいて泡が弾けた。夜の景色が千切れていく。


 深い奏のお辞儀にまた拍手が湧いた。


 暗転した一瞬をついて、一度はけていた宝塚南の一年生が舞台へ戻ってくる。舞台に残っていた部員たちは素早く配置を変えて、朝の支度を始める。


 そして、夜が明けていく。街が暖かな陽射しに包まれる。川に、ビルの硝子に、公園の草木に光が降り注ぐ。水分を多く含んだきらめきが街の色を変えていく。湖の上にいた奏は、弾むような足取りで明るい表通りへと繰り出して行った。


 *


 すっかり夜になった堂島川を見つめながら、満足そうに奏が熱い息を吐いた。それを覗き込むように七海が声を弾ませる。


「ご満悦ですなぁ」


「そんなこと、……あるけど」


 波打つ月に向かって、奏がぽつりと恥じらい混じりの本音をこぼす。シルバーの柵に身体を預けながら、伏せたその瞳を覗き込む七海が、「ふふっ」と愉快なラッパのような声を漏らした。「奏を月に連れて行ったのは、自分たちの演奏だったらいいのに」、なんて思っているのかもしれない。その気持ちはみなこも一緒だった。


「おい、あんまり身ぃ乗り出すと川に落ちるで」


「明梨なんかに心配されんでも、大丈夫ですぅー」


 尖らせた唇を明梨に摘ままれて、七海は鈍いシャウトを放った。「減らず口が!」そのまま引っ張られて、奏のそばを剥がされる。


「痛いぃ!」


「うるさい!」


「うちがうるさいのは明梨が引っ張るからやろ!」


「まぁ確かに!」


 二人の会話を聞いていると、どうして噛み合っているのだろうと不思議になる。相容れぬ感じなくせに、どこか性根の奥底で合う波長があるらしい。


 淀川から分岐した大川は堂島川と土佐堀川に枝分かれ、すぐにまた一つに合流して安治川になる。枝分かれした二つの川の間に浮かんでいる小さな島が中之島だ。その小さな島の東側には、水面とほぼ同じ高さの公園があって、バラの花壇が綺麗に咲き誇り、川沿いを歩けるように遊歩道が整備されていた。


 解散したあとも、そこに集まって話し込んでいたのは、周辺に帰路につく観客の人たちがまだたくさんいて、ライブの余韻がすっかり抜けきれていなかったからだ。


 少し見上げた位置にある石造りの橋には、京阪電鉄と大阪メトロの駅がある淀屋橋の方へ向かう人の波がとめどなく流れていた。


「歌うこと楽しくなってきた?」


 代わりに奏のそばに寄った詩音がにっこりと口端を緩めた。ガス灯を模した白い光がはにかむ詩音の頬を照らす。したたかな黒に染まった瞳は、夜の中之島のビル群のように明るく眩い。


「私は歌うことも楽器の一つやと思う。だから奏ちゃんは、胸を張って、もっと歌って」


「そうだね。みんなに勧められたから、仕方なくじゃなくて……、もっと歌ってもいいかもしれない、くらいには思えてきたかも」


 奏がそんな風に思ってくれるようになったくらいの演奏を出来たことが少しだけ誇らしかった。堂々と胸を張れなかったのは、それが自分だけの力じゃなかったからだろう。明梨や詩音、佳奈やめぐの演奏が合わさって、奏の気持ちを月に連れて行けたのだ。


「今年のクリスマスも歌う?」


 おずおずと佳奈が奏に訊ねる。けど、どこかそわそわとしているのは、次の機会が楽しみで仕方ないからだろう。


 ヴォーカルが不在だったため、歌に合わせて演奏する機会は多くなかった。奏をヴォーカルに置いて、演奏した去年のクリスマスライブと今回のイベント。声帯を震えて放たれる音の波に、自分の楽器の音が重なった時の高揚感は、いつものセッションよりも身を震わせるものがあったのは間違いない。それをまた求める欲望に駆り立てられているのは、きっと佳奈だけじゃないはずだ。


「うん! 今年は何を歌おうかなぁ」


「なんなら奏の歌オンリーでもええけど?」


 めぐの悪戯な言葉に、奏は臆するかと思ったが、彼女は歌いたいという態度を変えなかった。


「望むところだよ!」


 語気を強めたその言葉から成分を抽出して、天秤に掛ければ、正直よりも強がりの方にお皿は傾くはずだ。すぐに照れ笑いを浮かべた奏を見て、めぐが「やっぱりらしいなぁ」と笑いをこぼした。


 この集まりに陽葵を誘ったのだけど、帰りが遅くなり過ぎるからと断られた。ひまりもイベントを控え、練習をしている真っ只中なのだから無理強いするわけにはいかない。その報告を聞いて、佳奈は安心した様子だった。


 橋の上の人波はまばらになりつつあった。温い風がビルの隙間を抜けて平野を通り過ぎていく。車のエンジン音や人の声が織りなす遠い祭りのような喧騒に包まれる。そんな切なさを凝縮したような静けさを引き裂いたのは、みなこの見知らぬ二人の女子の言葉だった。


「わけわからん。なんでこんなの来なあかんねん」


「あんたの親が物好きなせいやろ。巻き込まれたこっちの身になって」


 派手なピアスがライトアップされた花々より強烈に色めく。スポットライトの下にいるように明るい花壇の前で、二人の女子がお互いスマホを片手に話していた。


「物好きなんは、それに乗っかるあんたの親もやろ。私らまで連れ出されて良い迷惑や」


 茶色く染められた髪を片側に束ねて、オフショルの白いニットから覗く肩をこれ見よがしにひけらかしている。化粧をしているけど、お世辞にも上手なものだとは言えない。きっと自分達と同じ歳くらいの子たちだろうと、みなこは思った。


 マニキュアまみれの指がスマートフォンの画面をフリックする動きは止まらない。


「ほんまそれな」


 うっかり視界に入って、会話に気を取られてしまったのは、見た目や思想が、あまりにも自分とかけ離れた存在だったからかもしれない。


 ふと我に返って、意識的に耳を塞ごうとした時、思いがけない言葉が鼓膜を揺らした。


「なんなんジャズって」


「ほんまや、知らん曲ばっかやったし」


 その瞬間に、二人が今日のステージのお客さんだったことに気づく。おそらく彼女たちに、こちらが出演者であったという認識はなかったはずだ。だから、嫌がらせのようなことをわざと言ったり、連れてこられた不満をぶつけられているわけではないのだと思う。


 とはいえ、彼女たちの声はみなこ以外にも聞こえていた。その言葉を受けて、みなこたちの間に流れていたご馳走をたらふく食べたような満足感が一気に削ぎ落とされていく。


「マジ退屈やったな」


「あー、ミナミ寄って帰ろうや」


 ふと見た明梨の表情が淀んだ泥濘みのように曇っていた。自分たちが出ていたステージを蔑ろにされたのだから、気持ちが良いわけはない。


 明梨の性格を考えてまさか言い返したりはしないだろうか、と不安になったが、彼女は黙ったままだった。


 スマートフォンに視線を落としたまま、二人の女子はまばらになりつつある人波の中へと消えていく。


「そろそろ帰ろうか」


 いつもとは違う落ち着いた明梨の声は、夜に溶けてしまった蝋燭のような遠い摩天楼の彼方に吸い込まれていった。

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ブルーノート~宝塚南高校ジャズ研究会~ 伊勢祐里 @yuuri-ise

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