第9話 二人の帰り道
ひとつだけ遮光幕が降りていない窓から強い西陽が差し込み、空席になっているオリーブ色のシートの色を明るく染め上げていた。みなこの正面に座る小さな女の子が見つめているのは、シックなタイルの床。平行四辺形に縁取られた輝きを不思議そうに目に焼き付けていた。
リハーサルが終わったのは、五時過ぎ、そこから片付けや明日の段取りを確認して帰路に着いた。学年が違う部員とグループが分かれるのは仕方ないとはいえ、帰る方角が同じにもかかわらず、隣に座っているのが奏だけなのは、めぐはリーダーとして打ち合わせに残り、佳奈は音楽教室のために先に帰宅し、七海は一年生を引き連れて楽器屋に向かったからだ。
空席の目立つ車内は、本当に静かで、隣でリハーサルのチェックを行っている奏のイヤホンから彼女の歌声が聞こえてきそうなほど、はたまた自分の呼吸の音すら向かいの席の女の子に聞かれてしまうんじゃないかと心配になるほどだった。
それでも、みなこの耳には、先程までの華やかな音楽と夏のざわめきが反響していた。佳奈のサックス、奏の歌声、めぐのピアノ、七海のドラム。明日は、あの大きな会場がお客さんでいっぱいになる。そんな程よい緊張と興奮が、期待という形に姿を変えて、鼓膜に残る音を徐々に徐々に大きくしていく。
川西能勢口に到着するアナウンスが、明日の予行とも妄想と取れる連鎖を断ち切った。電車が徐行し始め、やがて駅舎が空の縁に広がるオレンジ色を隠す。みなこが立ち上がるのと同時に、奏が顔を上げた。復習の邪魔をしては悪いので、手を振りながら、声には出さず口の形だけで「おつかれ」と別れを告げる。
夏らしさを身体で浴びるのは、少々飽きてきたと言っても過言ではない。もうすぐ日が沈むというのに、スマートフォンに表示される現在の気温は31度。電車を乗り換えるのだけでギターを背負う背中に汗が湧き出てくる。
階段を降りて、能勢電鉄のホームへと向かう。能勢電鉄は阪急と同じ構内にあるため階段の上り下りだけで乗り換えが可能だ。
改札内に設けられたコンビニを通り過ぎて、階段をまた登ろうと上を見上げたところで、視線の先に見慣れた制服の二人を発見した。
すぐにその後ろ姿が佳乃と竜二だと分かった。くっついて歩いているわけではないが、決して別々に行動しているわけではない様子。それは恋人にしては遠すぎて、友達にしては近すぎる少し微妙な距離感。
でも、同じタイミングが帰宅しているわけだから、偶然同じになったということはないはず。他の一年生が七海と楽器屋に向かったとはいえ、佳乃はそこについていく選択肢も取れたはず。だのに一緒にいるということは……。ここでみなこの女の勘が冴え渡る。
「はぁーん、そういうことか!」と。
微妙な距離感はわざわざ大衆の前でいちゃつくほど情熱的でないというだけのことだろう。単純にそこまで発展していないだけのことだってある。自分がいくらその方面に疎いとはいえ、これから育まれようという二人の仲を邪魔するわけにはいかない。
だから、見つからないようにしようと思ったのに、ふいに竜二がこちらを振り返った。一瞬、彼の動きが鈍くなったのを見てか、ほぼ同時に佳乃も振り返る。十メートル先の階段の上で後輩二人が揃って目線をこちらに向けた。
用事のふりをして、二人を先に行かせてやろうと思った。けど、コンビニもトイレも通り過ぎていて、階段を登らない良い言い訳が思いつかない。ここで妙な気を使ってはむしろ逆効果かもしれないと腹をくくり、渋々階段を登っていく。
みなこのその様子をみて、二人は揃って、軽く、でも丁寧に頭を下げた。
「お疲れさまです」
鼓膜を揺すったのは佳乃の声だった。竜二も発声していただろうけど、佳乃の声にかき消されてしまったらしい。彼の口元はちゃんと動いていたことをみなこはちゃんと見ていた。
「おつかれー、同じ電車やったんや!」
自分の口から出た言葉に二通りの意味があることに気がついた。「佳乃と竜二が同じ電車だったのか」と「自分と二人が同じ電車だったのか」だ。もちろん後者のつもりで訊ねたのだけど、本当に答えて欲しかったのは前者の方だったのかもしれない。はしたないとわかりつつも、自分の勘が当たっているか気になってしまった。
「車両は別だったんですかね? 全然気づかなかったです。みなこ先輩は、七海先輩と楽器屋さんには行かなかったですか?」
佳乃はちゃんと後者の意味だと捉えてくれたらしい。
「特別用事もなかったし、リハーサルで疲れちゃったから。明日に備えてゆっくり休もうかなって」
「ステージの大きさも他の学校との合同演奏も慣れないせいか、私もどっと疲れちゃいました。みんな楽器屋さんにいく元気あってすごいです」
佳乃のため息が夏の黄色い空気に溶けていく。電車のいないホームの真っ白な壁には、芸術性があるデザインの大学の広告が、額縁に飾られた絵のように掲載されていた。
「確かに。知らない子もたくさんいるし、気疲れもするもんな」
「そうなんですよ。でも仲良く慣れた子もいます」
「そっか! それは良かった」
キャッチボールはみなこと佳乃の二人だけ。居心地の悪そうにしている竜二にもボールを投げてあげたいけれど、上手くタイミングを掴めない。
それは彼の前に、佳乃が門番のように立ちはだかっていたせいだろうか。いや、門番というのは少し大袈裟で屈強なイメージが過ぎるかもしれない。言い換えれば、いじめっ子の前で両手を広げて弟を守る姉のような勇ましさ。佳乃にはそんな優しさがあった。
もちろん、彼女にそういうつもりがあるのかは分からないけど。少なくとも二人と対面しているみなこはそう感じた。
だから、佳乃と竜二、二人ともが答えられる質問を投げてみる。
「二人は緊張する方?」
「うーん。緊張する方だと思いますけど、ブラスバンドをやっていた時よりかは緊張しなくなってるはずです。」
佳乃は細い指先で頬を掻く。やはり竜二は答えてくれない。こちらから目をそらしているわけではない。もしかすると答えようという気概はあるのかも。でも、佳乃が先に答えてしまう。
「むしろ、マネージャー時代に、人のプレイしているのを見る方がドギマギしていたと思います」
「航平が下手っぴだった?」
「高橋先輩は上手でしたよ。毎回のようにアシストを決めていましたし」
ゴールではなくアシストというのが航平らしい、とみなこは苦笑いを浮かべる。その笑みに照れが混じっていたのはどういうわけか。余計な気持ちが沸き上がってきそうになるのを振り払ったところで、構内にアナウンスが流れた。
ホームにマルーン色の電車が入ってくる。夏の陽射しをいっぱい吸い込んだ小豆の車体はふっくらと膨らんでいるように見えた。扉が開き、下車をする人波と一緒に、冷気が雪崩のようにホームに流れ出す。膝のあたりに雪女の吐息のような冷たさを感じた。
川西能勢口は能勢電鉄の終着駅であるため、車内はすっかり空いている。佳乃を真ん中にして、扉から近い席に腰を下ろした。
「二人はよく一緒に帰ってるん?」
自分には恋愛云々なんてよくわからないのに、珍しい好奇心と間を埋めたいという気まずさがうっかり口を滑らせた。
みなこの質問を受けて、二人がキョトンとした表情で顔を見合わせる。竜二が先に首を傾げた。それから佳乃も同じ角度で追いかける。
先に口を開いたのはもちろん佳乃だ。
「たまに?」
「うん。たまに」
竜二の声は優しいピアノのような響きがあった。彼の声が通ったのは、冷えた車内のおかげだろうか。湿気た外の空気では、水分に吸収されてしまいそうなほど、小さく細かった。
それから佳乃がこちらを振り向く。わずかに口端を持ち上げて、柔らかく笑みを作った。何かをごまかそうとしているようにも、ただ素直に心から微笑んでいるようにも見える笑み。
「たまにですね」
「そっか」
佳乃のその表情にほんの少しだけの恥ずかしさと一緒に曇りのようなものを感じたのは、きっとみなこの気のせいだ。
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