摺出しに明かりを灯して

Umigame

       マッチの火 

「マッチは、マッチは要りませんか?」

「マッチ?んなもん、くそのやくにもたちゃしねぇ。今時、喫煙者に厳しい世の中で、ライターすら携帯してねぇってのに」

「お、お願いします。買ってください。これを売り切れないと家に帰れないんです」

「何を、バカなこと抜かしてんだ嬢ちゃん。こんな温けぇ春の盛りに売るなんて季節のずれにもほどがあるってもんよ。ほら、けぇんな。おっとさんに、頼み込んで家に入れてもらいな」

「───」

「ちっ、湿気た面しやがって。こっちまで湿気ってくるんだよ。ああ、そこのマッチももう使いもんにのんねぇんじゃねぇのか?」


 俺は、中年のリーマン。残業をこなしてようやく帰路についていた。ところがどっこい、面倒なやつに出くわしちまった。

 とある街の郊外で、夜の道に彼女はいた。

 お粗末な布で作られた服は、所々つぎはぎでだらけで、貧相な家の出だと予想がつく。

 素足が妙に痛々しく感じ、思わず顔をしかめた。表情は、フードを目深に被っているため定かでないが、随分と湿気た面をしてそうだと、そう思った。

 しかし、時代錯誤もいいところだ。どうして、今の世でこんなものが売れると思ったのかね。

 

「嬢ちゃん。悪いが、今は持ち合わせないんだわ。また、次の機会でよろしくな」

「──」


 俺は、足早にその場を跡にした。胸の奥のどこかにスッキリせず燻るものを抱きながら。

 その夜のことだった。

 アパートに帰った俺は、郵便受けを覗き、借金の取り立て書だとか、光熱費の支払い要請書だとかを取り出し、無造作に上着のポケットにねじ込むと、軋む階段を錆びだらけの手すりを掴みながら登り、自分の部屋の前まで来た。

 ドアの前には、出払いを要請する文書が張り付けてあった。

 ため息混じりに、部屋のカギを取り出し鍵穴に入れようとする。と、ここで唖然としまった。鍵穴に何か詰め物がしてあってカギを頑なに拒んでいたのだ。小さく舌打ちすると、ドアの前に座り込んで、ドアに背を預けた。

 微かに震える自分の手を眺め、どうやら今日の夜はそこそこ冷えたらしいとようやく気付いた。ズボンのポケットに手を突っ込みなけなしの金を取り出した。

 

「ありがとうございました」

「ん」

 俺は、コンビニのビニール袋を引っ提げて家の近くの公園へ行った。寂れたブランコに腰掛け、ビニール袋の中を探る。

 一本のビールと、つまみを取り出した。

 ビールをちびちびと飲みながら、つまみを口にした。乾いた喉は潤っていくはずなのに、どうしてか乾いている。体は火照ってきているはずなのに、今日は妙に冷えやがる。


「ああ、さみぃ」

「マッチを買ってください」

 

 俺ははっとして、公園内を一周見渡した。しかし、その暗がりには何も見いだすことができない。つー、と背筋を何かがなぞった気がした。


「はは、空耳だろ。どうして、こんなとこにいるんだよ」

「マッチを買ってください」


 俺の首筋にふっ、と息がかかった。恐る恐る視線を横に流すと、俺の肩越しに、あの少女の顔があった。奇妙なことなのだが、そのときの彼女の顔は今なお思い出すことは叶わない。そこには虚無があった。それだけだ。

 

「ひっ」

「マッチを買ってください。帰れないんです。マッチを───」

「くっ、来るなぁ!」

 

 俺は、慌ててビールとつまみを抱え込むと無我夢中に駆け出した。

 公園を出て、人通りのない狭い道を通り、ひたすら家目掛けて走った。普段体を動かすことが無いもんだから、すぐに息が切れ、胸が苦しくなった。喉は焼けるように痛く、服は、ビールが、いくらかかかってじっとりと湿ってしまった。

 

 しばらく走っていると、我が家が見えてきた。急いで、階段を軋ませながら登り、部屋の前に立つ。しかし、ここで絶望する。そう、家には入れないのだ。震える手で何度も鍵穴にカギを差し込もうとするのだが、詰め物が機能しているせいでうまく鍵が刺さらない。荒れる息づかいで、しばらく格闘したが、それでも無理だと気付くと、静かにその場で膝をついた。

 

「うううぐぐ、こうなったらやけだ、やけ」


 急いでぐひぐびと喉を鳴らしながらビールを注ぎ込む。酔いで誤魔化そうということだ。いや、ひょっとしたら、さっきのも酔っていたから見た幻覚なのではあるまいか?

そう思うと、段々と気分も楽に───


「え?味がしねぇ。んだよ、これ。さっきまではビールの味してたのに、くそまじぃな」

 首をかしげながら、口に含んだものを吐き出すと、ビールの缶を放り投げ、今度はつまみに手を伸ばす。しかし、やはりこちらも味がしない。食感は変わらないくせに味だけは無くなっている。これも食えないと思った俺は、汚物でも扱うかのように、袋を放り投げた。くそっ、無意味に外出したせいでこんなことになるなんて。大人しく家の中で寝れてりゃよかったのによ。くそっ。

 無造作にポケットに手を突っ込んで、ポケットの内側の布を引っ張りだす。

 もう既に一文無し。借金なら腐るほどあるのに。ん?借金?


「そうだ、つけでマッチを買おう」


 かちゃっ


 俺がそう言い放ったのに呼応するかのように、目の前のドアが開け放たれた。

 そこには、相変わらずみすぼらしい姿で佇む少女の姿が。


「買ってくれるの?ありがとう」


 殺される────

 そう思った俺は、目をぎゅっと瞑った。両方の手で自分の体を抱き締め、わなわなと震えた。

 

 どれくらい時間がたったのだろうか。

 目が覚めると、自分の家の硬いマットレス、薄い掛け布団のパイプベッドで寝ていた。

 

「ああ、夢か」


 俺は起き上がってほとんど何もない部屋の

窓際の花も生けてない一部が欠けている水差しを手に取るとその中の水を喉に流し込んだ。生憎と、水道、ガス、電気は一切合切すべて差し止められているから公園で汲んできたような水しかない。コップを買うのですら惜しくて、拾ってきた水差しを使う始末だからな。あの、少女は貧乏な俺、そのものの体現なのかも知れない。深層心理とかいうのも恐ろしいもんだな。

 とにかく、平和な朝を迎えたんだ。昨日稼いだ金で何か食い物でも買ってくるか。

 おや?どこにやったかな。確か、ズボンのポケットに入れてたはずなのに。しかし、いくらズボンを脱いで叩いてみても、ひっくり返してみても、何も出てこない。慌ててベッドを探してみるがここにもない。自分のシャツでこの妙な汗を拭いとろうと握ると、はっとして、手を離してしまった。

 濡れている。微かに香るのはアルコールの匂いだ。

 ということは、寝ぼけて酒でも飲んでいたのではないか?

 ううん。何か引っ掛かっているのだがさっきから頭が金槌でぶたれたようにぐらぐらと揺れていて、中々うまく思い出せない。

 げほげほっ。くっ、咳まで出てきた。やけに肺が苦しい。つん、と痛覚が過る。

 はぁ、はぁ。ヤバい、死んでしまう。

 慌てて家を飛び出す。

 急いで、119番をしなくては。

 玄関までいくと、不自然に開け放たれたドア。床に落ちているカギ。

 玄関から飛び出ると、誰が捨てたのか、缶やらつまみの袋やらのゴミに足をとられて転びかけた。

 揺らぐ視界で何とか階段の手すりに寄りかかりながら階段を降りたが、途中で踏み外して、転げ落ちる。

 体中に激痛が巡るが、それに構っている暇もなく、虚ろな視界でなお、公衆電話を探してさまよう。

 ようやく、公園の入り口までたどり着いた俺は、公衆電話のボックスへと、足を向ける。ふと、視界に過ったブランコが軋む音をたてながらぎこぎこと揺れていた。

 電話ボックスの中に入ると、ドアに背を預けて、急ぎ119のボタンを押した。


「119番、消防署です。火事ですか、救急ですか」

  

 かじ?ああ、火事か。バカ野郎、救急に決まってるだろう。

 しかし、何だろう。ひどく懐かしい感じがする。あれは────



 小学生の頃だった。当時、理科の実験でアルコールランプに火を灯す実験をやっていた。

 ガキだからか、その魅力的な炎に心奪われた。電気を消して暗くなった教室内で神々しく燃える炎は今でも忘れられない。

 だからか、理科の実験の片付けの際に片付けるふりをして、マッチ箱を一箱くすねた。

 その放課後のことだ。知人たちと、俺の家で遊ぶ約束をしていた。皆がこぞって駆け込んでくると、我先にとボードゲームを引っ張り出して遊ぶのが定番だった。

 そこで、俺は皆にくすねてきたマッチ箱を自慢した。

 男連中は、興奮ぎみに俺の英断を褒め称えたが、逆に女連中は顔をしかめていた。そう言えば、一人だけ俺の行動を咎めたやつがいたんだっけな。

 女子に受けが悪かった上に咎められた俺は、男子連中を引っ張って家の裏庭でかき集めた新聞紙の束に火をつけた。

 マッチを擦っときのあの炎の揺らめきが、新聞紙に伝染していった。

 周りのものは皆興奮して騒ぎ立てた。そうさ、絶対に俺のやったことは間違えちゃいないんだ。不適にほくそ笑む俺の口元は大きく歪んでいた。

 誰だったか、マッチのことを摺出しと呼ぶのだと豆知識を披露していた気もするな。

 さながら、キャンプファイヤーのごとく俺たちは踊った。

 その直後のことだった。跳び跳ねた火の粉が木造建築だった俺の家の柱に引火して燃え上がったのは。唖然とする俺らは、助けを呼びに行く程の心理的余裕はなく、何が起こったのか頭で考えるよりも先にその場を離れることを優先した。

 

 あの火事は、結局家一つまるまる焼き潰して、隣家まで被害を及ぼした。あまりの凄絶さに火事場の検証に来た警察の者も、その発生源を特定できなかったらしい。これ幸いと、真っ先に疑われた俺たちはその火事のことについての言及から逃れ、自然と発火したのだという大嘘を吹聴して回った。

 ただ、不幸なことに同級生の中にいた女子と俺の母親は逃げ遅れ、火事で死んでしまい、親父は残っていた家のローンや、その他負債の波に押し潰され、いつの間にか死んでいた。一人残された俺は、寄る親戚の家もなく、相続は放棄したが、それでも追っかけてくるような連中からは借金を取り立てられ、誰が言ったのか放火犯としての疑いを被せられたせいで定職にも就けなかった。


 

 火事が全てを奪っていった。そうさ、全て奪っていってくれるんだよ、あの炎は。

 ははははは。

 俺は、体を蝕む何かを追い出すために─────



「火事です。火災が今日の午前10時頃に発生いたしました。幸い、近隣への被害はありませんが、火災元と思われる電話ボックスの中にいた50代男性が死亡しているのが確認されました。詳しい原因究明を急ぐとのことです」


 

「ウイルス全てが熱に弱いわけではありません。中には、熱に強いウイルスも数多存在します。ふふふ、お代はつけで頂きました。ごちそうさま」

 

 私という恐怖の伝染病は、また一つ恐怖を伝染させました。

 次はあなたの後ろかも───

 少女は、黄昏の刻にふと姿を消した。

 

 

 


 

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