桜の君物語

橘花やよい

桜の君物語

 月夜に桜の花弁が舞う。

 男は桜を見上げながら、背後の御簾の奥に声をかけた。


「今宵は桜がよくみえます。貴女もおいでなさい。心配せずとも、人払いをしましたから誰も来ませんよ」


 少しの間ためらってから、衣擦れの音がしておずおずと女が庭に面した簀子すのこに顔を出す。男が手を差し出すと、小さく白い手が重ねられて、女は姿を現した。

 深い緑の衣に、桃色や紅梅の衣を何枚も重ねた今様の衣は、春の趣を感じさせて男は微笑んだ。

 女は男の隣に腰をおろすと、心細そうに辺りを見渡す。貴族の娘は外に出て、人に顔を見られるようなことがあってはならないからだ。


「大丈夫。誰もいません。もとより吉野の山の奥深くのこの屋敷に人がくること自体、そうそうないのですから」


 男は普段、京の都の中央に屋敷を構えていた。しかし、桜が咲くこの季節は、吉野の山深くにある別邸に赴き、花を愛で、笛を奏でる。その年も、妻である女と数人の下仕えだけを連れて吉野の屋敷に訪れていた。


「そんな心配より、貴方も桜を楽しんでください。この屋敷の桜は、京のどんな桜よりも美しいのですよ」


 女はその言葉で桜を見上げて目を見開いた。その浮世離れした桜の美しさに見惚れ、暫くしてからやっと一言呟く。


「本当に綺麗」

「ええ」


 男は女の美しい黒髪を撫でながら、満足そうに微笑む。

 その桜は庭の中央に座していた。

 太い幹からは四方に枝を伸ばし、桜の花が咲き乱れる。

 暗い闇夜に月の光だけを浴びて、異様なまでにその木は存在感を放っていた。


「私の祖父も、父も、この桜を愛でてきました。私も幼い頃から春になればこの屋敷に訪れていたものです。貴女を連れてくることができてよかった」


 女がこの屋敷を訪れるのはこのときが初めてだった。

 女ははじめて見るこの桜の美しさに目が離せないでいる。そんな女の隣で、男は笛を吹き鳴らした。

 京の都でも名の通った笛の名手である男の音色が風に乗って響き渡る。その音色が桜に趣を加え、まるでこの世のものではない心地がした。


「実はこの桜には、桜の君が住んでいるのですよ」


 男は笛を吹き終わると、少年が秘密を打ち明けるような顔をした。


「桜の君?」

「ええ。桜が咲く頃だけ、私にはこの木に住まう彼女を見ることができました。しかし他の人には彼女を見ることができないらしかったのです。きっと彼女は人ならざるものなのでしょう」


 男の声に冗談の色はなかった。

 女は桜を見上げると夢心地に問いかける。


「そのお方、今もいらっしゃるのですか?」

「それが、随分と前から私にも見えなくなってしまったのです。ちょうど元服の頃からでしょうか。あるときから突然見えなくなってしまって。今年こそはまた見ることができるのではないかと春がくるたびに思うのですが、なかなか叶わぬようです」


 男も桜を見上げた。そこにはもちろん人の姿はなく、ただ悠然と桜が咲いている。


「彼女は私たちのことなど気にも留めていませんでした。桜の枝に座り、実に満足そうに桜の花を愛でているのです。――この桜、時々風も吹いていないのに桜吹雪が舞うことが昔からあったそうです。私も何度かそれを見た。そしてそんな時には、彼女が空を舞っているのです。彼女の舞にあわせて、花弁が舞う。貴女にも見せてさしあげたい」


 さあっと桜の花弁が月夜に舞う。しかし、それは夜風が枝を揺らしたからだ。男はどこか寂しそうに桜が散る様子を眺めた。


「わたくしも見てみたいですわ」

「とても美しいですよ。桜の君は、桜色の衣に、豊かな黒髪を揺らして。天女のように舞うのです」


 女は男の横顔をみて、くすりと笑みをこぼした。


「まるで恋人を語るかのようなお顔をされるのですね」


 目を細めて桜の木に視線を戻し、舞い散る花弁に手を伸ばす。


「こんなに美しい桜ですもの。きっと今も、美しい桜の君がいらっしゃることと思いますわ」




 夫婦はそのあと一月を吉野の屋敷で過ごした。

 不思議なことにその間、庭の桜はずっと咲き誇っていた。二人が屋敷で過ごす最後の夜も、桜は変わらず月夜に照らされて可憐な花をつけていた。


 その夜、月明かりのもとで男は笛を吹き、女は琴を奏でた。

 夕方からの通り雨で地面にはいくらか雨がたまり、まるで庭に池がぽつりぽつりとできているかのようだった。その水面に月と桜が映り、きらきらと輝く様はとてもこの世のものとは思えない。

 二人の澄み渡った音色は月夜に響き、桜の木もどこか二人の音色を楽しむかのように自身の枝を揺らしているようだった。

 その夜の桜は、このひと月のなかで一等美しく咲いているように男は感じた。


「もうこの地を離れなければならないとは、名残惜しい」

「また次の春も来ることができますわ」


 二人は寄り添いながら、月と桜を見上げる。


「いっそ、この吉野の地に移り住んでしまいましょうか」

「世捨てになるのはまだ早いかと存じます。お父上様もお母上様も悲しまれることでしょう」

「そうですね。しかしなんとも――、この地からは離れがたい」

「ええ」


 男は目を細めた。

 毎年訪れているが、この地を離れるときはいつも心が締め付けられるのだ。


「幼い頃にみた美しい桜の舞を、貴女にも見せたかった。本当に、美しいものでした」

「いまでもじゅうぶん美しいです」


 寂しそうな男の横顔をみて、女は困ったように笑むと琴をつま弾いた。

 柔らかな音が空気を震わせる。

 男は瞳を閉じ、その音色に暫く身をゆだねてから桜を見上げた。

 そのとき。


「おや――」


 桜が舞いあがった。

 いま、風は吹いただろうか。

 そう男が首をかしげると。

 さあっと桜が夜空を覆うばかりに舞った。

 桜の木からも、地に散っていた花弁も、全てが空に昇り、舞いおどり始めた。夜風はない。花弁がひとりでに舞いあがったのだ。

 幾枚もの花弁が舞って、簀子すのこに座していた二人に降り注いだ。

 女は突然のことに袖で顔を隠す。

 そして、そっと顔をのぞかせると、その目には夕方からできた雨だまりがみえた。

 桜の花弁がひとひら水面に落ちる。

 その水面には月と、桜と、そして。


「貴方様、あれを――」


 女は男の袖をひいて、雨だまりを指さした。

 水面には、桜色の衣を揺らして夜空を舞う美しい女の姿が映っていた。

 いかにも楽しそうに彼女は空を舞う。淡い桜色の衣を揺らし、髪をなびかせ、花弁に包まれながら空を舞う。彼女が動くたびに、それにあわせて桜も舞った。

 それはかつて幼い頃に男がみた桜の君そのものだった。

 男はぱっと顔を上げて空を見た。しかしそこに人の姿はなく、桜の花弁だけが風もないのに舞っている。

 もう一度水面に目を戻しても、そこにはもう誰の姿も映ってはいなかった。男の隣で女も首を横に振る。


「いま、たしかに」

「ええ。でもほら、花弁はまだ舞っています」


 風もないのに舞う花弁。

 幾枚もの花弁が重なり、交差し、はらはらと舞う。

 女はほうと息を吐く。


「桜の君が舞うと花弁も舞う――、天女のようとは嘘偽りではないようです」

「貴女に嘘など申すものですか。ああ、でも、貴女と見ることができてよかった」


 二人は暫くその舞に見惚れ、男は笛を、女は琴を鳴らした。

 桜はその夜の間、空を舞い続けた。

 夫婦も飽きることなく、その様子を寄り添って眺めていたのだった。

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桜の君物語 橘花やよい @yayoi326

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