忘れじの夏

青山 忠義

香織と圭子

 ほとんど見向きもされていなかった女子野球がフェミニズムやジェンダーの流れに乗って、最近は関心を持たれるようになってきた。

 巨人や阪神に女子部ができ、テレビで放映されたりたまに雑誌などで特集されている。

 だが、一般の認知度はまだ低く、野球は男子のスポーツというイメージがある。

 とくに高校野球は春と夏に行われる甲子園のイメージがあるためその傾向が強い。

 その高校野球も春は東京ドーム、夏は甲子園で女子の全国大会の決勝が行なわれるようになり、テレビで放映されるなどわずかずつだが注目され始め、野球をしようという女子も徐々に増えてきている。


 マーガレット女子大学附属高校野球部員の山川香織が1年生、2年生のときには、9人の部員を集めることができず、近くの高校と連合して大会に出場した。

 だが、3年生になると、例年どんなに多くとも3人しか入部してこない新入生が6人も入ってきた。それも全員がシニアリーグや中学のクラブなどでの野球経験者ばかり。

 全員違うチームだったが、学校の評判がよく系列の大学もあり野球部もあるということでマーガレットをたまたま受験して入学してきたということだった。

 6人ともが甲子園で野球をすることが夢だという。

 甲子園で試合をするためには全国大会の決勝までいかなければならない。

 女子高校野球の全国大会は参加校数が少ないので男子の大会のように地方予選はない。それでも決勝まで勝ち残るのは大変だ。

 1年生のときは人数が足らず、出場できなかった。

 2年生のときは連合チームで出場したが、1回戦で負けている。

 連合チームのために合同で練習するのが難しかったということもあるが、それだけではない。

 負けたあとも残って、香織たちは他のチームの試合を観戦し、決勝の甲子園も観に行ったが、勝ち残るチームはやはり実力が違う。

 投手の球の速さや変化球のキレ、打者のパワーやスイングの速さ、巧みな走塁、守備のときの打球に対する反応の速さなどどれをとっても香織たちよりもはるかに上だった。

 今年は、新入生に2年生3人と3年生2人を足せば11人になる。

 単独チームで大会にでることができる。連合チームのときとは違って練習も取り組みやすいだろう。

 だが、それだけでは決勝まで残れない。昨年よりももっと個々が実力をつけないと決勝へ行くどころか一回戦を勝つことさえなかなか難しい。


「今年の新入生たち、勇ましいよね。甲子園だって」

 香織は並んで歩く同学年で野球部のキャプテンである宮野圭子の凛々しい横顔を見た。

「うん。でも、今年は無理でもあの子たちが3年生になったら本当に甲子園で試合をやっているかも」

「あの子たちそんなにすごいの」

 香織は驚いた。中学でも野球をやっていたと言っていたが、それほどの実力とは思っていなかった。

「とくにピッチャーの2人はすごいよ。梶本は硬式の女子全国大会でベスト4までいってるし、吉田はシニアリーグで全国優勝したチームのエースではなかったけど、男子を抑えている」

 梶本は背が低く140センチの香織とはそう変わらない。

 吉田は髪が腰までの長さで長身だ。

 2人とも3月まで中学生だったので、まだ幼い顔をしている。

「へえー、すごいね」

「ほかの4人も中学のときにけっこう活躍してたんだ」

 圭子は小学校から野球をやっていた3歳上の兄の影響で野球が好きになったようだ。自分がプレイするだけでなく野球のことを色々勉強している。

 香織もときどき一緒に行くプロ野球や甲子園だけではなく、女子の中学野球まで観に行っているようだ。

「じゃあ、一回戦ぐらいは勝てるかも」

「うん。ひょっとしたら本当に甲子園までいけるかも」

 圭子が笑った。凛々しい顔にエクボができている。

 香織は圭子のこの笑顔が好きだ。

「明日も練習頑張ろう」

 2人の分かれ道がきてお互いに手を振る。

 香織は圭子の背中が小さくなるまで見送った。


 運動神経の悪い香織が野球を始めたのは圭子に誘われたからだ。

 圭子と香織は、小学校5年生のときに初めて同じクラスになってから、中学も高校も同じ学校。

 香織は小柄で童顔でおっとりしている。

 高校3年生だが、よく中学生に間違えられる。ひどいときは小学生。

 圭子は男子のように耳を出した短い髪をしていて、形のいい眉の下には意志の強さを表すキリッとした目をしている。

 背が高くさっぱりした性格。

 正反対の2人はなぜか気があった。

 香織は圭子に誘われてリトルリーグに入った。

 圭子はリトルリーグでもシニアリーグでも当然のようにレギュラー。

 香織はベンチ入りもできない補欠。

 それでも香織が野球を続けたのは圭子が好きだったからだ。

 香織がマーガレット女学園に進学したのも、女の子が野球をするのは反対だった親を「大学があって、お嬢様もたくさんいるから」と言って説得した圭子が受験すると言ったからだ。

 自分の圭子に対する好きは友だちとしてのものだと香織はずっと思っていた。

 高校に入るまでは。

 小学校や中学校のときから女の子の友だちが多かった圭子だが、マーガレット女子学園に入学してからの人気はすごかった。

 バレンタインデーには、同級生だけでなく上級生や下級生からもたくさんのチョコレートをもらう。

 圭子は優しい。

 誰からのものでも決して断らない。「嬉しい。ありがとう」と微笑んで受け取り、ホワイトデーのときには全員にお返しをする。

 だから、みんな圭子に夢中になった。

 圭子に告白する子まで現れた。

 でも、圭子は全部断っているようで、いま付き合っている子はいないようだ。

 圭子が告白されたと聞くたびに香織の胸はチクチク痛んだ。

 告白したというだけでその子のことが嫌いになってしまい、喋りかけられても無視してしまうこともあった。

 そんな自分に気づいたとき、なんでこんな気持ちになるんだろうと香織は考えた。

 ほかの友だちが誰かに告白されたと聞いても何とも思わないのにどうして圭子のときだけこうなるんだろう。

 やがて香織はそれが嫉妬だと知った。

 どうして自分は嫉妬するんだろう。

 自問自答しているうちに、自分が圭子に恋をしているということに気づいた。

 自分の好きは異性に対するものと同じだ。

 その感情に気づくと、密かに圭子に抱かれている自分を想像して一人エッチをしてしまったことがある。

 次の日は、まともに圭子の顔を見ることができなかった。

 香織はレズではない。

 今まで女の子を好きになったことはないし、推しは男性アイドルだ。

 でも、圭子は別だ。

 圭子を見ていると胸が苦しくなることもある。

 圭子にギュッと抱きしめて欲しい。自分を愛していると言って欲しい。

 だが、香織はこの気持ちを圭子に伝えるつもりはない。

 圭子は香織よりもずっと綺麗な上級生や可愛い下級生の告白を全部断っている。

 きっと女子に対して香織のような気持ちにはなれないのだろう。

 圭子に言えば、きっと気持ち悪がられる。

 もう友だちではいられなくなるかもしれない。

 そんなのいやだ。

 圭子に嫌われたら生きていけない。嫌われるぐらいなら、一生この気持ちを心の中にしまっておこうと香織は思っている。

 圭子のそばにいられるなら、この気持ちをきっと隠せるはずだ。

 それよりも圭子の喜ぶ姿が見たい。

 圭子が一番喜ぶのは大会で勝ち進むことだ。万年補欠の自分ができることはあまりないが、なんとか圭子の力になりたいと思っている。

 4月になったとき、マーガレット女子学園では内部進学希望者と外部進学希望者にクラス分けがされた。

 香織は内部進学クラス。

 圭子は外部進学クラス。

 圭子もマーガレット女子大に行くんだとばかり香織は思っていた。

 しかし、マーガレット女子大には野球部がない。だから女子体育大学へ行くと圭子は言う。

 圭子と一緒にいられるのはあとわずか。

 最後に圭子の最高の笑顔を見たいと香織は思っていた。


 女子高校野球全国大会は7月の終わりに兵庫県丹波市と淡路市で開かれる。

 マーガレット女子学園野球部は試合のある丹波市に向かった。

 監督は女性の校医で野球はテレビで見たことしかないという。

 引き受け手がなかった野球部の監督を名前だけならということで引き受けてくれたそうだ。

 校医はいろいろ忙しいらしく練習にはほとんどでてこない。

 大会にも引率者兼選手の健康管理者としてだけということできてもらっている。

 だから、作戦もチームの指揮もキャプテンである圭子が担うことになっていた。

 そんな中、マーガレット女子学園は一回戦を見事勝ち抜いた。

 圭子の言ったとおりピッチャー二人はすごかった。

 先発を任された小柄な梶本はアンダースローで球速40キロの遅球と球速70キロの鋭く曲がるスライダーや膝元で落ちるシンカーを駆使し、抑えの大柄な左腕吉田は長身から投げ下ろす角度のある重い直球と長い指をうまく使って投げるときには鋭く、ときには大きく落ちる2種類のフォークで打ち取る。

 打線もピッチャーに応えるように奮起し、得点圏内にランナーがいるときには必ずタイムリーが出て得点を重ね大勝した。

 2回戦では、圭子が4打数4安打5打点と全得点を叩き出して勝利した。

 3回戦はいつも抑えだった吉田が先発し相手を完封する。

 前日に圭子に先発を言われた吉田はこの試合で秘密兵器を見せた。

 それは牽制球。

 吉田が言うには、投手としては平凡だったが、牽制球のうまさだけは県内随一だったというお兄さんに教わったそうだ。

 ランナーが出てもリードをとれば牽制球でさす。相手チームにランナーを許しても進塁させない。

 その吉田の踏ん張りに打線も今大会No.1右腕と言われていた相手投手を攻略して3対0で勝利した。

 

「準々決勝。夢みたい」

 香織は明日の作戦を練っている圭子を見た。

 ホテルでの選手の部屋はシングルルームで1人1室与えられている。

 香織は夕食が終わって、圭子の部屋をよく訪ねる。

 2人でその日の試合のことやこれからの試合についての話をする。

「うん。1回戦ぐらいは勝つと思っていたけど、まさかここまでくるとは思わなかったよ」

「すごいよ。本当。新聞にも載ったもんね」

 全国版新聞のスポーツ欄に小さくだったが、『お嬢様高校、大躍進』という題字が踊っている。

 しかし、書かれていることは少し大袈裟だ。

 マーガレット女子学園には、たしかに大病院の院長や大企業の社長や重役、医者や弁護士などのお金持ちのお嬢様はいる。

 だが、普通のサラリーマン家庭の娘もたくさんいる。

 香織の両親も共働きの公務員で決してお金持ちではない。

 入学が決まったとき、『就職したら、これお願いね』と、香織は母親から封筒をもらった。

 中身は高校3年間の学費に年3%の利息がついた合計額とその返済計画。

『どうしてこんなの払わないといけないの。高校の学費は親が出すものでしょ』

 今まで親に反抗したことがない香織もさすがに文句を言った。

『当たり前でしょ。先生は公立高校は楽々合格できると言っているのに、わざわざマーガレットみたいな学費の高いところ行くんだから。まだ美里もいるのよ』

 美里は香織の3歳下の妹。

 それを言われると言い返すことができない。

『でも、利息まで取ることないでしょう。親子なんだから』

『貸したお金に利息をつけるのは当たり前でしょう』

 母親は冷たく言い放つ。父親は申し訳なさそうにしていたが。

 女親は同性の子には厳しいかもしれないと香織は思った。

「お嬢様高校か」

 圭子も苦笑いを浮かべる。圭子もサラリーマン家庭の娘だ。


「圭子の言うとおり1年生たちはすごいね」

 もちろん上級生も活躍している。上級生だけの打率は3割近いし、けっこう長打も出ている。

 だが、1年生たちはそれ以上だ。ピッチャーの2人は言うに及ばず、ほかの選手も走攻守揃っている。

 とくに走力には目をひくものがあり、マーガレット女子学園は3試合で10盗塁を決めているが、そのほとんどが1年生。

 その走力は守備にも生かされ、普通なら抜けそうな打球も簡単に追いつく。

 1年生たちの活躍がなければここまで勝ち進めなかっただろう。

「うん。上級生にもいい影響を与えているみたいだしね。でも、困った」

「どうしたの?」

「明日の先発は梶本さんって決まっているんだけど、打順が決まらない」

 スターティングメンバーは固定されている。

 変えるのはピッチャーぐらいだ。

 控えはピッチャーを除けば香織だけだから代えようがないということもあるだろうが。

 だが、打順は相手投手に合わせてよく変えている。

 今度の相手は福岡の大牟田短期大学附属高校。

 昨年の夏は優勝。今年の春はベスト4という強豪だ。

 今夏のチームは3年生の本格派右腕と強力打線で勝ってきている。

「相手は右だから昨日と同じでいいんじゃないの」

 マーガレットは左バッターが6人いる。

 右投手のときは1番から6番まで左バッターを並べる。

 3回戦もそれで勝ったのだから、変える必要はないと香織は思う。

「うーん。そうなんだけどね。でも、なんかイヤな感じがするのよ」

 圭子は盛んに首を捻った。

「気のせいじゃないの。今日は圭子のベッドで寝ようかな?」

 香織は冗談みたいに言った。

 小学生のとき圭子の家に泊まると、よく一緒の布団で寝た。

 そのとき、圭子の匂いがした。久しぶりに圭子の匂いを嗅ぎながら眠りたい。

「いやだよ。狭いもん」

「昔は二人で一緒によく寝たじゃない」

「あれは小学生のときでしょ」

 部屋のベッドはシングル。

 いくら香織が小さいとはいっても高校生が二人で寝るには狭い。

「ケチ」

 香織は小さく呟いた。

「明日、試合なんだから、早く寝よう」

「うん」

 圭子に促されて、香織は部屋に戻った。


 準々決勝当日、オーダー表を交換してきた圭子が首を捻りながら戻ってきた。

「どうしたの?」

 圭子の様子に全員が集まってくる。

「先発がエースじゃない」

「えーっ」

 オーダー表を全員が覗き込んだ。ピッチャーのところにエースではない1年生の名前が書かれていた。

「どんな投手?」

 全員が首を横に振った。今まで一度もマウンドに立ったことがない子だ。

 相手投手が投球練習を始めると、圭子の顔が歪んだ。

「左のサイドスローか。打ちあぐむかも」

 圭子の予想通り打てなかった。

 左バッターは背中からくるような大きく曲がるスライダーや内角低めに沈むシンカーで打ち取られ、右バッターは外角攻めから、内角をえぐるようなクロスファイアで仕留められる。

 一方、梶本も遅球と変化球のキレでランナーは出すが無得点に抑えていた。

 6回まで0ー0。

 マーガレット女子学園はフォアボールで1人のランナーがでただけで、完全に抑えられている。

 ついに最終回。

 相手の表の攻撃を梶本は2アウトまでは無難にとったが、3番にフォアボールを出し、4番バッターにホームランを打たれてしまう。

「すみません」

 泣きながら戻ってきた梶本にみんなは「大丈夫、絶対取り返すよ」と言って慰めた。

 裏の攻撃は1番からの好打順だったが、1番、2番はあっさり打ち取られた。

 3番は3打数3三振と、今日は完全に抑え込まれている。

「タイム」

 圭子が主審にタイムを要求してバッターを呼んだ。しばらく話をすると、次のバッターだったはずの子がヘルメットをとり、ベンチに戻ってくる。

「香織」

 ベンチに戻ってきた圭子が香織にバットを渡そうとする。

「えっ」

 香織は2年のときはスコアラーとしてベンチに入った。

 今大会は勉強してきたらしい監督がスコアブックをつけているので、香織は試合前のノッカーをしたり、攻撃のときは三塁コーチャーボックスに入り、守備のときは控えピッチャーの投球練習の相手をする。

 ときどき、つけ方が分からないときに監督が香織に聞いてくるのでそれに応えている。

 つまり、香織は選手としては一度もグランドに立ったことがない。

「無理、無理」

 香織は両手を体の前で振った。

「いいからおもいっきり振ってきて」

 少し躊躇っていたが、主審の「早くバッターボックスに入って」という声が聞こえ、香織は覚悟を決める。

「わかった」

 バッドを握って、ベンチを出た。

 右バッターボックスに入る。

 初めての試合。

 心臓がバクバクして、足がちょっと震える。

 ピッチャーが足を上げるのが見えた。

 白い球がくる。

 1球目は外角のスライダー。

「ストライク」

 見送った。

 というよりも体がガチガチに固まってしまって、動かすことができなかった。

(やばい。どうしよう)

「ダメだよ、かおりーん。バットは振らないと当たらないよー」

 ベンチの一年生たちの笑いが混じったような声が聞こえてくる。

 タイムをとって、バッターボックスを外す。

「それぐらい分かってるわよ」

 香織は小さな声で呟いた。

(まったくあの子たちは)

 1年生たちは圭子のことをキャプテンと呼び、2年生たちは名前に先輩をつけて呼ぶ。

 だが、香織のことは『かおりん」と呼んでいる。

 小柄で童顔の香織は同学年にしか見えず、先輩とはどうしても思えないということらしい。

 だが、いくらなんでも試合中に『かおりん』はないだろう。

 香織は少し腹が立ったが、緊張がほぐれたような気がする。

 軽く素振りをしてみる。さっきよりも動く。

 バッターボックスに入り直した。

 相手投手が投球モーションに入った。

 さっきと同じ外角のスライダー。

 香織はおもいっきりバットを振った。

 これがマンガとかならホームランになるのだろうが、現実は甘くない。

 ライトに向かってフラフラっと力のない打球が上がっていく。

 これで終わったと思いながらも最後だという思いで香織は力の限り走った。

 ところが、飛んだコースがよかったのかボールはライトの前のラインぎわにポトリと落ちてそのままファールグラウンドに転がっていく。

 香織は必死に走って一塁ベースを蹴り、2塁ベースに滑り込む。

 どうだ見たか1年生という気持ちで立ち上がると、香織は自分のベンチに向かってガッツポーズをして見せる。

「かおりーん、かわいい。短い足を一生懸命動かして走る姿すっごくカワイイー」

 1年生たちは笑いながら手を叩いている。

 相手のセカンドが噴き出しそうな顔をしていた。

(もう許さない。試合が終わったらバットを持って追いかけ回してやる。お姉さんを怒らせたら怖いんだから)

 香織はベンチを睨みつけた。


 圭子が左バッターボックスに入った。

 前の2打席は完全に抑えられているが、絶対打ってくれるはずだ。

 相手ピッチャーの手からボールが離れた。

 2打席打ち取られた背中からくる大きなスライダー。

 圭子が強振した。

 打球は伸びていき右中間を破っていく。

 香織がホームベースを踏んで振り返ったとき、相手の中継プレーが乱れているのが見えた。

 圭子が3塁ベースを蹴って、猛然とホームに向かってくる。

 同点になれば延長戦。タイブレークだ。

 タイブレークは何が起こるか分からない。

 次のバッターも完全に抑え込まれている。圭子は一か八かにかけたようだ。

  セカンドが懸命にバックホームをしてくる。

 キャッチャーミットにボールが納まるのと圭子が回り込んで滑り込むのがほぼ同時。

 キャッチャーは圭子がホームベースへと伸ばす左手にタッチをしにいく。

 香織の目にはタッチよりも圭子の手の方が一瞬早くホームベースに届いたように見えた。

 主審が一呼吸置いてコールをする。

「アウト」

 香織と圭子の高校野球は終わった。


 試合が終わった後は全員号泣していたが、帰りのバスの中は思ったより明るかった。

 みんな笑って校歌を歌ったりしている。

 学校に着いてバスを降りると、下級生たちが香織と圭子の前に横一列で並んだ。

「キャプテン。香織先輩。今までありがとうございました。来年は必ず甲子園に行きます」

 次期キャプテンの2年生が言った。

「うん。楽しみにしてる」

 圭子は微笑んだ。

 香織は初めて先輩と呼ばれたことに感激して何もいうことができない。

 圭子と香織は残念会をしに喫茶店へ行くという後輩たちと別れて、電車に乗った。

 香織と圭子は電車の中ではずっと黙っていた。

 何を話していいのか香織は分からなかった。

 電車を降りてからも無言で歩いた。

 

「残念だったな。甲子園で試合したかったな」

 いつもの分かれ道に着くと、圭子が寂しそうに言った。

「でも、精一杯やったから」

「そうだね……。うん。精一杯やったよね。じゃあ、また学校でね」

 圭子は笑顔で香織に手を振ってくる。

 このまま圭子と別れたくない。

 香織は背中を向けた圭子に抱きついた。

「なに?」

 圭子が驚いたような声を上げる。

「圭子と会えなくなるのはイヤ」

「なに言ってるの。クラブがなくなっても、クラスは違うけど学校でいつでも会えるでしょ。家も近いんだし」

「圭子のこと好き」

 香織は思い切って言った。

「私も香織のこと好きだよ」

 圭子の優しい声が聞こえてくる。

「違う」

「何が?」

「わたしの好きと圭子の好きが」

「どう違うの」

「愛している。圭子のことを思いながら一人Hできるぐらい愛してる」

 圭子の声が聞こえない。抱きしめた体が固まっている。

 きっと引かれている。

 終わった。

 こうなることは分かっていた。

 でも、香織はどうしても言わずにはいられなかった。

 言わなければ自分がおかしくなりそうだった。

 今まで胸に溜まったものを一気に吐き出し、少し気が楽になった。

 香織はゆっくりと圭子の体を離す。

「ごめん。気持ち悪いよね」

 香織は下を向く。涙が溢れてくる。

 もうこれで友だちとしても付き合えないだろう。

 でも、後悔はしない。

 ふーっ、と圭子の息を吐き出す音が聞こえた。

「じゃあ、付き合ってみる?」

 圭子の柔らかい声が聞こえた。

「えっ」

 香織は驚いて顔を上げた。圭子はいつになく真剣な顔をしている。

「学校でいろんな女の子から告白されて最初はイヤだなと思ってた。どうして女同士で付き合わないといけないだろうって。でも、香織からだったらどうだろうって考えたら分からなかった。だから、付き合ってみよう」

 圭子はニッコリした。

 香織は嬉しすぎて両手で顔を覆って泣いた。

「でも、無理だと思ったら、ハッキリ無理だと言うけどそれでもいい?」

「それでいい」

 香織は両手で顔を覆ったままささやいた。


 それから、香織と圭子は付き合い始めた。

 クラブは引退になったので、放課後は待ち合わせをして一緒に帰る。

 土日には手を繋いだり腕を組んだりして街中を歩き、ショッピングに行ったり、花火大会やテーマパークに行ったりした。

 夜はLINEをし、二人の世界に浸る。

 圭子からもう無理といつ言われるかと思い、香織はビクビクして過ごしたが、卒業まで言われることがなかった。

 大学に入っても付き合い続いた。

 圭子は予定どおり女子体育大学に合格し野球部に入部した。

 香織は内部進学をして、栄養学を専攻する。

 栄養学を選んだのは、圭子が将来体育の教員免許をとり、卒業したら母校マーガレット女子学園の野球部の監督になり「甲子園で優勝したい」と言ったからだ。

 食は全ての基本とよく言う。

 運動神経の悪い香織では野球で圭子の役に立つのは無理だが、栄養学を勉強すれば何か役に立てるのではないかと思ったからだ。

 香織は圭子のために毎日昼食用のお弁当を作り家まで持って行った。

 試合があれば必ず応援にも行った。

 圭子の練習の休みはほとんどなかったが、毎晩LINEで連絡を取り合い、年に数日の休みには、どちらかの家で過ごす。

 大学を卒業し、圭子は念願のマーガレット女子学園の体育教師と野球部の監督になり、香織は同校の食堂の栄養士兼調理師として勤めるようになった。

 圭子が就職を機に一人暮らしをすると言うので、親を説得して香織も一緒に住むことにした。

 家賃は折半。

 生活費は圭子が4分の3。

 圭子は壊滅的に家事ができない。家事全般は香織が受け持つということで決まった。

 最初は普通の女友だち同士のような生活。

 だが、日が経つうちにキスするようになり、別々だった寝室が同じベッドで寝るようになっていった。


 圭子が監督になって、5年目にマーガレット女子学園野球部は春夏連覇をした。

「これ、香織に」

 その夜、圭子が香織の前に小さな包みを置く。

「なに?」

「いいから開けて」

 包みを開けると、小さな箱が出てきて中にはダイアモンドの指輪が入っていった。

「結婚して」

「うん」

 香織は圭子の首に飛びついた。

 双方の両親は反対したが、時間をかけて説得した。

 最後は折れてくれた。

 香織の母親は高校と大学の費用は結婚祝いに免除してくれると言った。

 3歳下の美里は「仕方ないなあ。わたしがお父さんたちに孫を見せてやるよ」と笑って祝福してくれる。

 香織と圭子はパートナーシップ契約をして市役所に提出した。


 翌年の晴れた6月の日曜日に香織と圭子は2人とも純白のウェディングドレスを着て結婚式を挙げた。

「愛しているよ。香織」

「私も愛している」

 香織と圭子は誓いの口づけを交わした。

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忘れじの夏 青山 忠義 @josef

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