個人的な聖域 |2-2| 牧原征爾
室内は四方の壁に天井まで届きそうな背丈の本棚がそれぞれ配置されていたが、肝心の書物は一冊も収納されていなかった。正面の壁面には額縁に入った『レディ・ジェーン・グレイの処刑』の複製画と採光取りの小さな窓があり、その下にはKが執筆のために使っていたと思われる年季の入った木製の片袖机、その上にはVR―808が無造作に置かれていた。キューブリックのシンメトリーな構図に『希望』で知られるワッツの絵画に通じる柔らかくも憂いを感じる光を当てたような雰囲気の醸成された空間、それはまさしくKの性格を表象しているようでもあり微かなスノビズムも併せ持った部屋だった。
窓から入り込む陽光が、机の上に置かれた一冊のノートを照らし出している。手に取ってみると、それはKの日記帳であるらしかった。どうして、このノートだけ取り残されたように置かれているのだろうかという疑問と共に、これを映像化して観てみろと言わんばかりに、その脇に置かれたVR―808……、俺は眼鏡の柄に取り付けられたゴムバンドを調整してそのデバイスを装着しながら、Kの日記帳を開くことにした。
それは衝撃的な体験としか言えなかった。俺たち……、俺もKも、そして今では未亡人となってしまったKの妻も、二十年前ぐらいの姿に若返っていて、ホームビデオを眺めているかのような懐かしい気分がした……、いや、懐かしいなどといった牧歌的な言葉では片づけられないほどの生々しさだった。立体化された映像は現実と寸分違わぬレベルの再現性を有していて――その理由として、Kのノートに書かれた内容に関して俺も当事者の一人であるため、VR―808が有するクラウド上に蓄積された第三者たちによる集合知としてのデータの補完作業に頼る必要もなく、自分の記憶がそのまま映像化に際する情報として流用されることとなった結果なのだろうと推測された――、その当時の世界と空間に客観的な神の視点で入り込んでしまっている感覚がした。
Kの日記の内容を吟味する以前に、その映像体験にしばらく圧倒されてしまっていたが、ふと気が付いてみると、まだ若かりし頃の青年Kが、2Bと呼ばれていたころの同じく若い未亡人をとがめているシーンが始まった。それは二人がまだ結婚する前のころの話らしい。
「本当は違ったんだろうな。僕を選んだわけじゃなかったんだ。少なくとも積極的な選択ではなかった」とKが凄い剣幕で彼女に迫っている。彼がこんなに強い口調で話している姿を俺は初めて見た気がした。
それに対して2Bは「そんなことないって言ってるよね?」と極めて冷静に、しかし戸惑いと悲しみの表情でKのことをにらんでいた。
「あいつと付き合っていたころの方が、よっぽど幸せだったってことだろう」とKは俺と彼女が学生のころに恋仲にあったごく短い期間のことを捨て台詞のように引き合いに出すと、室内から出て行ってしまった。2Bが涙ぐむ姿だけが映っている。
次の場面では「そういう面白くなさそうな態度をとるなら、あいつと一緒になってたらよかったじゃないか」とKがまた同じような内容を繰り返していて、それは二人が結婚した後の旅行先での出来事であるらしい。このときは妻の方が機嫌を損ねて、旅先から一足先に引き上げてしまった。それにしても、2Bと俺の一時的な関係に対して、Kがこれほどの怨念めいた感情を抱いているとはつゆ知らず、戦慄するばかりだった。
そして、これはかなり直近の話として、Kが「あいつと一緒になってたら、君も子供が持てたのかもしれなかったのになあ」と皮肉交じりに話しており、それはKが彼の死の直前に俺の家を訪問した際に、そこで見かけることになったうちの娘に端を発する話題らしかった。
「子供はいらないわよ」と妻がいなすように答えると、「僕との子供なんていらないってことだろう。」とKはあえて曲解して妻に突っかかった。すると「……確かにそうなのかも。あのとき子供を産んでしまえばよかったのかもしれない」と彼女が言ったかと思うと、間髪入れずにKが立ち上がって、妻のことを殴りつけた。彼女は「ギャッ」と叫びながら、殴られた勢いでよろけて絨毯の上に倒れ、顔を伏せたまま立ち上がることをしなかった。俺はその光景に目を見張ったが、場面はその暴力の余韻を残すことなく、すぐさま転換されていった。
相当に薄暗い室内だったが、間取りや家具の配置、そして場の持つ空気感から、そこが俺の暮らしていた昔の自室であることが直感的に理解できた。
そして、若いころの自分がブラインドの降ろされた窓の下にあるベッドに仰向けに寝そべっている。その上にまたがるようにしてうごめく人影、それはKの伴侶となる前の2Bだった。薄闇のため視界は不明瞭だったが、床には二人の衣服が脱ぎ捨てられてあることがわかり、二人は重なり合うように互いに抱擁しあっていた。
俺は困惑していた。というのも、恋仲であったとはいえ、俺と2Bが肉体的な関係を持ったことはなく、偽りの記憶を見せられている気がしたからだった。ただ、これはKの日記に書かれた記述を立体化した映像なわけで、つまりKはそのように理解していたということになるのだろうか?俺たちが、そういった関係にあるという勝手な思い込み、または誤解のために、彼は俺のことを恨み続けたまま死んでいったと……?疑問が一気に押し寄せてきて、俺は軽い吐き気を覚えた。
一瞬、空間に歪みが生じて、なんらかの場面転換が図られた気がした。先ほどと同じ場所であることに変わりはなかったが、少し室内は明るさが増したのか、薄絹越しに映ったシルエットのように見えていた俺と2Bの姿が、より鮮明に目視できるようになった。そのとき気が付いたのは、映像の中の俺は仰向けに横たわり目をつむっていて、どうも覚醒していないらしいということだった。眠っているのか、はたまた意識がないのか。どちらにせよ、ぐったりと脱力した俺の身体の上で、2Bは弓なりに彼女の身体をしならせながら絶頂に向けて激しく上下している。
その異様な光景を眺めながら、徐々に色々な考えが俺の頭をかすめ始めた。これはもしかして俺の本当の記憶――そのときの俺は覚醒していなかったわけだから、記憶というよりも潜在意識というべきか――がデバイスに作用したことによって生じた映像なのではないか、という推測と同時に、そもそもKの日記が何者かによって一部改ざんされている可能性だって十分考えられるのではないか?という疑念のようなものだった。いや、この日記そのものが誰かの創作物だってことも……。
俺は視野狭窄のような感覚と共に立ち眩みを覚え、これ以上は付き合っていられないという思いでVR―808を脱ぎ捨てた。
どのくらいの時間が経過してしまったのか。既に日は落ちて、Kの書斎はすっかり暗くなっていた。手にしていた「日記」を机に置いて振り向くと、書斎の開け放たれた扉の前に背後から光を受けた2Bが一糸まとわぬ姿で立っていた。
俺はそのとき全てを理解した気がしたが、それよりも面前の未亡人にどう接すればよいのか、それが問題だった。
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個人的な聖域 |2-2| 牧原征爾
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個人的な聖域 牧原 征爾 @seiji_ou812
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